マリーネの幸福5
「肝をやられています。もう長くはもたないでしょう。苦しまないようにこれで終わらせてあげてください」
アリッサとカーラがツテを使って呼びよせた闇医者はそういうとひとつの薬包を手渡す。
「心の蔵を止めてくれます。やすらかに死ねますよ」
発病から3か月。大量の解毒薬を飲ませたせいか、うがい薬の彼女よりは長らえている。
エドは医者の言葉にうちのめされていた。
病人がいるというのにエドの工房には何人かの取り立て屋が押しかけてきていた。
工房のお金の出し入れをすべてマリーネに任せていたために、マリーネが倒れた今となってはどこにどれだけ支払があるのかわからないし、マリーネのための医者代と薬代がかかる。
あわててマリーネがつけていた帳簿を開いていれば、毎月毎月が綱渡りの数字が続いていた。
「跡取り息子のためにこんな可愛いプレゼントを贈ってくれたのに…取り立てにくるのは心苦しいのだけど、そうだなぁ。返済を繰り越す代わりにもう材料を卸す事はもう出来そうもないなぁ」
ある取引先はそういってきた。返済を待ってくれたのは彼のところだけだった。
「すみません。かならずお返しいたしますので」
そう謝りにいけば、彼の奥方の腕に抱かれた赤ちゃんの手と足に見覚えのある毛糸の編み物が被せられている。
「取引先のソーネさんのところに赤ちゃんが生まれたから何かお祝いを用意しようと思うの」
そうマリーネに相談されたのはいつの事だったか。
彼女が夕飯の後に何か編んでいるのは気がついたが、自分はシェイラといちゃつくのに忙しくロクに見もしなかった事が悔やまれる。
工房経営は楽なものじゃないよ。
そう兄がこぼしていたことを思い出す。
兄がそうこぼしたのは祖父が亡くなって暫くしてからだった。
実家があれほどの弟子を養ってこれたのは祖父、父、兄、3人の一人前の職人がいたからだ。
ああ、それでとエドは思う。
だから半人前で甘ったれの次男である俺を外へ出したんだ。
無駄飯食らいを一人、外に出せば、それだけ工房は楽になる。
はははと力なく笑う。
俺は何も視えていなかったんだなと。
うちひしがれているとアリッサが言った。
「その薬のことだけどね。昔のパーティメンバーで下半身をモンスターに引きちぎられて狂い死にそうな仲間に処方したんだけどね。たしかにすぐに亡くなるの。でも2~3秒この世のものとは思えないほど絶叫して亡くなったの。とても苦しまないで死ねるっていうような代物じゃないの」
「考えたんだけどね。ダンジョンでね。いるの。そういうモンスターが。尻尾の棘にそういうのがわからなくなる毒があってね。本来はそれを生きた獲物に突き刺して、わからないようにさせてから血を吸うの。目をつぶっていれば楽に死ねるってそういう安楽の虫っていうのが、4階層に」
「もう助からないっていう冒険者はそこで死ぬのを望むの。本当はいけない事なのかもしれないのだけど」
もう3月も苦しみ衰弱していくマリーネを見続けて、さすがのアリッサとカーラも自分達のしでかした事の重大さを身にしみていた。
いつものキャットファイトの延長のつもりだった。
あんな薬くさいスープを飲み干すものがいるとは思っていなかった。
ちょっとした吹き出物が出来るだけの害のない薬だと思っていた。
そんな言い訳が通じる訳もない。
二人は罪悪感で圧し潰されそうになっていた。
「それにね。手伝ってあげられるのは今秋までなの。ラルフが残した借金がね、あって。ほらお医者様にかかっていたでしょう?その分を私達が身売りすることで支払う事になったから」
「こんな事になるなら贅沢なんかしなきゃよかった。って言ってもあとのまつりね。」
アリッサとカーラに手伝ってもらって、マリーネをずだ袋にいれてカムフラージュしてダンジョンに潜った。
めざす4階層までそんなに強いモンスターは出てこない。
「冒険者家業も今日までかぁ」
「アリッサ、不謹慎よ。今日はマリーネさんを見送るためにここに潜ったんだからね」
目指す階まで降りて、そのモンスターのなわばりだというエリアにたどり着く。
「マリーネ。ごめんな。苦しかったろ?」
エドはずだ袋からマリーネの身体をそっと出す。
「…痛かったよな、ごめん」
マリーネの頬にうっすらと残る傷痕を指でなぞる。
「誕生日に渡そうと思って買っておいてずっと渡せなかったんだ」
エドはそういうと紅をひゅーひゅーとした息を吐き続ける唇に乗せた。
「綺麗だよ」
「エド、そろそろ…」
「うん」
アリッサに促されてエドは立ち上がる。
「苦しまないそうだから。不安だろうけど目を閉じていて」
優しい言葉で彼女に告げると急いで遠ざかっていく。
まるで彼女から逃げるように。
いや…いかないで。置いていかないで
叫びだしたいのに、女の喉は持ち主を裏切ってかすかに振動を与えただけであった。
視界の向こうに女をこんな所に置き去りにしていく人物が遠ざかっていく。
ひどいひどいひどいひどい
何故なの?
何故?
どうして?
黄昏色の瞳を宿す目から涙が落ちる。
もう枯れ果てたと思っていたのに。
女は痩せこけていた。
かつては美しかった黄金の髪は色褪せ、その黄昏色の瞳の白目は黄色く濁っている。
肌にはさまざまに内出血と水泡とそれが破れて出来た潰瘍が見られ 乾いた唇はひび割れていた。
その唇からはひゅーひゅーという息が漏れ誰が見ても重篤な状態と言うであろう。
そんな女の前に、その死の使いは現れた。