エドワード・クラックの幸福
エドワード・クラックは日用雑貨で金属を取り扱う工房の次男として生まれた。
17歳の時、親のすすめで取引先の商家の娘と結婚した。
相手は16歳になったばかりで初々しく、秘かに綺麗な子で役得だなと思ってうれしくなった。
成人をすませたとはいえ、まだまだ子どもだったが、すでに長男である兄には妻子がおり、これ以上実家でゴクツブシを続けるのは難しい事はわかっていたので、結婚を機に独立しなければならない事は仕方のない事だった。
相手の事情で、生まれ育った家を離れ、土地勘のない領地で”兄弟子”から厳しい指導を受け、今まで、「坊ちゃん、坊ちゃん」と言われて可愛がられていた甘ったれた性分までも鍛えられた。
とはいえ、そこまでに至るには紆余曲折があり、ふてくされて夜の町で知り合った友人達と放蕩を重ねた事もあった。
でも、家に帰れば、美しい妻がいて、甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれる。
彼が完全にごろつきまで成り下がれなかったのはそんな幼妻の存在があったから。
1年と半年とちょっと。
仕事のコツを覚えてからはどんどん仕事が面白くなっていった。
妻も健気に自分を支えてくれていた。
自分は仕事に集中して面白いくらいに腕があがっていった。
兄弟子からの許しを得ての独立。自分の工房の設立。
けっしてまっすぐな道ではなかったけれど、自分の夢がどんどん実現していく様は、まるで誰かに祝福を受けたかのようだった。
そんな時、かつて夜の町で一緒に遊んでいた『兄貴分』が自分を頼ってやってきた。
冒険者の彼は怪我をして宿代が払えなくなってしまったという。
かつてその『兄貴分』に酔った上での喧嘩であやうく殺されてしまうところを助けてもらった事もあり、何度も酒をおごってもらった事があることから、快く我が家を頼ってもらう事にした。
『兄貴分』は冒険者として成功して、二人の垢ぬけた美人を情婦としてパーティに入れていた。
お金がないなら、彼女達が働けばいいのにと少しは思ったが、『兄貴分』がすごく大事にしている所を見るとパーティメンバーというよりは、籍をいれてないだけの妻という身分なのだと察せられた。
そしてそんな美しい妻達を余所の男の目に触れさせたくないという気持ち、だけどどうだこれが俺の女なんだと見せびらかしたい気持ちの両方が混在する『兄貴分』の気持ちはよくわかったので、我が家なら安心だろうと家に案内した。
二人の女性冒険者をラルフに引き合わせた時、彼の瞳の虹彩が妻に対する興味から大きくなった事を俺は見逃さなかった。
俺にだって妻はいるんだ。どうだ綺麗な妻だろう。俺は誇らしい気持ちで胸を張ったが、ふと見た妻の手を見て眉をしかめた。
水仕事をするから仕方のない事なのかもしれないけど、クリームくらい塗ればいいのに。
『兄貴分』の女達のように爪を飾り立て、指輪などの宝飾品で飾る必要はないが、手入れくらいはしておいてもよさそうなものだ。俺の稼ぎが悪いみたいじゃないか。
急に自分の妻がみすぼらしい物に見えてきて色があせてしまったようだった。
『兄貴分』達との同居はエキサイティングで刺激に満ちたものだった。
うっかりすると、彼女達のふとした仕草や色っぽい襟足やちらりと見える足首、胸のラインに欲情した。
彼女達も俺がそうなっている事に気づいていて、時にはからかうようにわざと流し目をくれたりした。
家に綺麗な女性達がいるのっていい。
俺はますます仕事に精が出て、お客さんからの評判も上々だった。
そんな中、妻が言った「お金が足りない」という言葉に俺は首をかしげた。
ちょっと食い扶持が増えただけじゃないか。
俺の実家では何人もの弟子まで抱えていて、そいつらの食い扶持を母は余裕できりもりしていたぞ。
たしかに俺の稼ぎだけというのがきついのかもしれないが、それだってずっとの事じゃない。
『兄貴分』だってお世話になった分は必ず返すと言っているんだし何を寝ぼけた事を言ってるんだと腹ただしく思えた。
そもそも俺の父は『呑む』『打つ』『買う』の3拍子そろった、昔かたぎの職人で母は随分苦労させられたが、俺は妻のほかに女はいないし、飲み屋を梯子するほどの呑兵衛でもない、賭け事も負けると決まっているのでやらないし、そうとういい条件のいい夫だと思う。
それに親父は酔ってすぐに手をあげたが、俺は声を荒げる事もめったにない。
何も一生面倒を見ろと言っているわけじゃないじゃないか。
俺が世話になった人の面倒を見るのが嫌だっていうのかよ。
「その話はもう聞かん」
俺はそう言って話を打ち切った。
その日から、妻は外に仕事に出るようになった。
「家の事に手を抜いたら認めない」
俺は条件をつけた。
だってそうだろ?
ひとつの工房を立ち上げた男の妻が外に働きに出るだなんて、俺がまるで稼いでいないみたいじゃないか。
妻は家の事に手は抜かなかったが前よりもっと自分にかまわなくなった。
兄貴分にそれとなく愚痴ると、兄貴はこう言った。
「二人目の妻を持て」…と。
兄貴分が言うにはライバルがいる事に刺激されて彼女達は自然と切磋琢磨されるのだという。
たしかに兄貴分の女達はいつも綺麗に自分を磨きあげていて、おまけにいい匂いがする。
いい考えかもしれない。俺は兄貴分に『いい女』の見分け方や見つけ方を教えてもらうことにした。
今度は親や知り合いからの押し付けじゃなく、自分で好みの女を見つけてみたかった。
二人でそういう店や出会える場所へ行ってみた。
兄貴分は『何故かバレちゃって子猫ちゃんたちにヤキモチやかれちゃったよ』と顔にひっかき傷を作って起きてきたが、俺といえば、横で爆睡する妻にため息をつくばかりだ。
兄貴と俺、どこが違うんだろう?
そう考えるとイラだちが募る。そうか恋愛結婚じゃないからだ。
そう俺は結論づけた。
そんな夜、そういうお店で兄貴と飲んでいるとカーラがえぐえぐと泣きじゃくるアリッサを連れて乗り込んできた。
「お湯をわかしていたから少しもらおうとしたら、『自分でわかせ』と暴言を吐かれ、おまけに乱暴に奪い取られた時に飛沫で火傷してしまった」
ラルフは、まぁまぁ虫の居所でも悪かったんだろうと慰めていたが、俺はアリッサの腕に巻かれた包帯を茫然と見ている内にふつふつと怒りが込み上げてきた。
俺の顔に泥を塗りやがって。
祖父がかつて弟子や俺達孫にしていたように俺は鞭で嫁を躾ける事にした。
鞭での躾は間違っていた。
嫁は俺の顔を見る度に怯え、俺の姿から逃げまわるようになってしまった。
ラルフの女達からもあれはないわーと言われ、どんびかれた。
ラルフからも、もう少し嫁に優しくしてやれと小言をもらった。
かつて祖父はその横暴さと圧倒的な強さと恐怖で我が家に君臨していた。
弟子が間違えたりすると鞭がすぐに飛んできたものだ。
それゆえに、その当時の我が家では祖父が法律で祖父がすべてだった。
ゆえに祖父は全てにおいて重く扱われ、敬われ、恐れられ、絶対的な家長としての強権を思うがままにふるっていた。祖父が白といえば黒くても白。祖父が右といえば左でも右。
俺も家長としての威厳と沽券を示したかったのだが、なにか違えたらしい。
俺に怯える嫁をラルフが慰めていたらしい。俺にはふらない尻尾を兄貴にはふるのかよ。
俺の心は冷えた。
その頃シェイラという娘と知り合い、俺の嫁に来てもらえる事になった。
兄貴といろんな店にいき、いろんな娘と知り合ったが、皆第二夫人だと言うと去っていってしまったからようやく捕まえた年若い新たな嫁に俺は夢中だった。
娘はシェイラといい甘え上手なかわいい子だった。
せめてマリーネが彼女の半分も可愛げのある態度を取ってくれたら俺も態度を変えられるのに。
そう思って、わざとマリーネの前でシェイラといちゃいちゃしてみせたり、嫌がるマリーネを交えて挑んでみたりしたが、彼女の黄昏色の瞳はうつろのまま、光がともる事がなかった。
早く嫉妬してみせろよ。
そうしたら俺だって…。
俺はおそらくどんな事をしても表情をかえないで俺を見つめるマリーネに意地になっていたのだ。
愛されていないのなら彼女を解放してあげるべきだったのに。