マリーネの幸福2
「…何これ…」
マリーネが仕事から帰ってくると家の食堂のテーブルの上は、作り置いた食事が食べ散らかされ、酒の瓶が転がっている…という日が多くなった。
「あ、ごめんねぇ。二人とも『呑みなおす』って言って外に出ていったみたぁい」
通りかかったアリッサが悪びれず、そうマリーネに告げる。
その髪には新しいアクセサリーが飾られ、つやつやと光っている。
「誰かさんが口五月蠅いからじゃなぁい?」
「違うわよぉ。男の人ってそういう所あんのよね。新しいのに目移りしちゃうっていうかー」
「だから努力してるのよあたしたち。マリーネさんもたまにはおしゃれしたら?」
アリッサの方はまだ取り繕う気持ちがあるようだが、カーラの方は確実にマリーネに敵意を持った言い方をする。
あなた達がムダ金を使って新しい装飾品を買わずに家計に入れてくれたり、家事を手伝ってくれたらできるのに!
誰のせいでこんな始末した余裕のない生活をしていると思うんだ。
そんな事を彼女達二人に言ってもきっと通じないであろう。
マリーネは二人を言語は一緒でも言葉が絶対通じない相手として認識する事にした。
黙って、片づけをはじめる。心情が行動に表れてしまって無意識にガチャン!という大きな音をさせてしまう。
「何あれー」
「かんじわるーい」
正直、一日外で仕事をしてきた身体はだるい。
腰がしくしくして足はパンパンに腫れている。
「そんなんだから旦那さんが嫌になっちゃうのよ」
「あーあ、ラルフ。つき合わされてかわいそう」
「ラルフにほっとかれてる私達の方がもっとかわいそうよ」
二人がひそひそそんな事を話しをしているのが耳に入ってきても手は止められない。
片づけがすんだら洗濯物を片づけて、掃除をしてラルフ達の分を含めた明日の朝食の仕込みをしなければならないし、今仕事をしているのは接客業なので、身体を清潔に保つために湯をわかしてふかなければならない。
髪は、髪を最後に洗ったのはいつだっけ?さすがに脂でベタベタになる前に洗わなければいけない。
今雇ってもらっているところはお給金がいい分、そういう所にも気をつかわなければならない。
マリーネは殺伐としてくる心を落ち着かせるため深呼吸をして髪を洗うためのお湯を皿洗いをしながらわかしはじめた。
マリーネが洗濯物を片づけて再び食堂に戻ってくるとアリッサが沸いたお湯を持っていこうとしていた。
「お湯くらい自分でわかせるでしょ」
アリッサからお湯の入った桶を取り戻すとさっさと2階の夫婦の部屋へ戻る。
きつい言い方だったと思う。でもマリーネにはもう他者に対して優しい気持ちを持つだけのゆとりさえなくなっていた。
機械的に髪を洗髪し、身体を湯で拭う。
それだけでも多少さっぱりした。そうやって気分がすっきりすると、さっきのは意地悪だったなぁとマリーネは反省した。でもアリッサもカーラも町の浴場へしばしば出かけているのだ。
やっぱり気にする必要はない、そう結論づけてマリーネはそのまま就寝した。
その日、夫であるエドも、そしてラルフも、アリッサもカーラも出かけたまま帰ってこなかった。
朝食の時間になっても誰も帰ってこず、それならそれでせいせいすると、マリーネは昼食の作り置きをし、洗濯ものを干して仕事に出かけた。
4人の世話をしなくていいのでいつもより身支度に時間がとれ、マリーネはひさびさに薄化粧をし、いつものひっつめ髪をやめて髪を結いあげた。
鏡にうつる自分はここ暫くの苦労で一気に老け込んでしまったように見える。
「私だって、結婚前にはご領主様のお妾さんにっていう話が出たくらいなんだから」
けっして二目と見られぬような容姿であったならばそんな話も出なかったに違いない。
そう自分で自分を慰め、気合を入れるために婚約時代にエドに買ってもらった髪かざりをつけた。
「どうしたの?今日はやけにきれいじゃない」
そんな同僚の褒め言葉にほくほくと、昨日の事も忘れてマリーネはうきうきと帰宅した。
ーー私だってまだまだ捨てたものじゃないはずよ。という思いとともに。
降り出した雨に洗濯物さえ取り入れられていないのもいつもの事で、少しだけ水気を吸ったシーツが気になるけど、家の中に干しなおせばよい程度な事も気分をさらに向上させた。
これから4人のための夕食を作り置いて、自分もささっと食事をしてまた店にとんぼ返りだ。
今日の夕飯は何にしよう。うさぎの肉が手に入ったからよく叩いて肉団子にして裏の畑の野菜とスープにしようかしら。パンはお店であまりをもらえたので温めなおせばいいから一から焼かなくていいわね。
そういえば、工房のあの部品が切れていたかもしれない。帰ったら在庫をチェックして発注しておかなくては。
次のお休みにはお得意様のおうちでご嫡男が生まれたそうだからお祝いをもっていかなければだし、お祝いの品もよく吟味して探さなければ。
そうだわ、赤ちゃん用の手カバーとかいいかもしれない。靴下とお揃いで編めばかわいいかも。
マリーネは頭の中でするべき事を組み立てると、支度をするために食堂に続く扉をくぐった。
「マリーネ。そこに座りなさい」
そこに昨夜は帰らなかったエドが腕を組んで座っており、泣いたとみえて目をまっかにしたアリッサとそれを慰めるように肩に手をおいているカーラ。そして難しい顔をして腕を組んでいるラルフという面々がマリーネを待ち構えていた。
「アリッサさんに湯をわけてやらなかったばかりか、火傷をさせたそうだな」
マリーネの頭の中で昨日の事がすっかり追い出されていたため、はじめは何の事を言われているのかわからなかった。
マリーネが茫然としていると、エドはマリーネに対して使った事のない鞭を取り出した。
「夫に恥をかかせたのだから罰をあたえなければならない」
「違う!」
マリーネは叫んでいた。たしかにアリッサにお湯は分けてやらなかったけれど、それは明日の仕事のために髪を洗わなくてはいけなかったからだし、すぐに髪を洗ったけどお湯は熱くはなかった。
それに言葉は悪かったけれど、自分で沸かしたらどうか?と言ったはずだ。
「言い訳はきかん!」
エドの目が今まで見た事もないほど吊り上り、マリーネは身をすくませた。
鞭で罰を与えるなどと、マリーネの祖父母の時代ならともかく昨今では子どもの躾でも行う者はいない。
マリーネは結婚以来はじめてエドが得体のしらない怪物のように見えた。
庇った手ごと、灼熱の痛みが襲う。
あまりの痛みに身体をそむければ、その背に容赦なく鞭が振り下ろされた。
「ひっ!!!!!」
何で自分がこんな目にあわされなければならないのか。
食事もつくった。
寝床も提供した。
女として馬鹿にされても我慢した。
なぜ
なぜ
理不尽さに涙が出て、情けなくて嗚咽がとまらない。
「もういいだろう。エド」
ラルフがなおもふりかぶるエドの手を止めた。
彼こそがすべての元凶だというのに。
その日。マリーネは仕事へ戻る事ができなかった。
そして頬には鞭打たれて倒れた時に、はずれたあの髪飾りで傷つけた傷が残った。