マリーネの幸福
いや…いかないで。置いていかないで
叫びだしたいのに、女の喉は持ち主を裏切ってかすかに振動を与えただけであった。
視界の向こうに女をこんな所に置き去りにしていく人物が遠ざかっていく。
ひどいひどいひどいひどい
何故なの?
何故?
どうして?
黄昏色の瞳を宿す目から涙が落ちる。
もう枯れ果てたと思っていたのに。
女は痩せこけていた。
かつては美しかった黄金の髪は色褪せ、その黄昏色の瞳の白目は黄色く濁っている。
肌にはさまざまに内出血と水泡とそれが破れて出来た潰瘍が見られ 乾いた唇はひび割れていた。
その唇からはひゅーひゅーという息が漏れ誰が見ても重篤な状態と言うであろう。
女がこんな状態に陥ったのは2年前の彼、彼女達との出会いがきっかけだった。
女の名前はマリーネという。
よくある地方のよくある小さな商家の娘として生まれた。
小さな町の小さな学校を出て、生家の手伝いをしていた。
そんなマリーネに縁談が来た。
ひとつはこの町を治める領主の現地妻たる妾として。
もうひとつは実家がつきあいのある工房の次男と。
マリーネは妾になるのが嫌だったので工房の次男を選んだ。
領主の話を袖にしたので、その息のかかった場所では生活しずらく、ちょうど他領で新しく工房を立ち上げた兄弟子を頼って移り住み、結婚生活を始めた。
マリーネは夫に選んだ次男エドに自分の事情で他領へ引っ越しをさせた事を少しだけ引け目を持った。
゛兄弟子゛は厳しく、実家である工房では甘やかされていたエドは、不貞腐れる事も多くなり、親兄弟の監視がない事をいいことに、 よくない遊びをさせるような店に出入りするようになった。
マリーネは自分がしっかりしなきゃと自分に言い聞かせ、倹約に勤め、時には働きに出て家計を助けた。
エドの健康を気遣い、食事のメニューに気をつけ、エドが立派に見えるように自分は我慢して夫の身なりにも気をつかった。
幸いエドが荒れていたのは1年と半とちょっと位で、自分の腕に自信が持てはじめた頃からめきめきと頭角を現し、ついには兄弟子より独立の許しを得るまでになった。
マリーネは多いに喜び、今まで以上に倹約に勤め、働き、夫であるエドと力を合わせ、とうとう新しい工房を立ち上げる事に。
エドも仕事に油が乗ってきて、ますますその腕を磨き、このままいけば工房を立ち上げた時の借金返済もあとわずかという時となった。
そろそろ子どもを持ってもいいかもしれない。
マリーネの心は浮き足立ち、幸せをかみしめた。今思えば、この時が幸せの絶頂だったかもしれない。
「…悪いなエド」
荒れていた時期に知り合ったという冒険者のパーティがエドを頼って現れるまでは。
聞けば、エドがタチの悪い連中に絡まれてもう少しで殺されるかもしれないという時に助けてくれた人なのだと言う。
マリーネは、夫の危機を救ってくれたという冒険者達に感謝し、一生懸命歓待した。
「ごめんねぇ。ラルフの怪我が治ったらすぐに出ていくから」
パーティリーダーのラルフという人が大けがをして、ダンジョンで稼げなくなり宿を追い出されたとの事。
夜露をしのぐ場所として工房の隅にでも寝泊りさせて欲しいとの事だった。
夫の命の恩人に冷たい工房の床で寝起きさせる訳にもいかなくて、マリーネとエドは話しあって子ども部屋として用意してあった部屋をそのパーティに貸す事にした。
ラルフのパーティはラルフとその情人であるアリッサとカーラの3人で、その日から彼、彼女達はエドとマリーネの家の客人となった。
最初は仲良くやっていたと思う。
でも…。
「ねぇねぇ。今夜のメニューは何?」
「マリーネさんの作るご飯って本当に美味しいから楽しみ!」
ラルフのパーティの女冒険者のアリッサとカーラは家事が壊滅的との事で毎日毎日ぶらぶらしているだけで食費を入れるどころか働きにもいかない。
「だって女二人でって危ないんですもの」
「ねー」
何も危険な仕事をしなくても給仕や繕い物をしたり売り子をしたり、働き口がいろいろあるのにそんな仕事は「冒険者の仕事ではない」といって毎日遊びくらしてる。
日に日に家計は圧迫されて、さすがのマリーネもついエドに愚痴を言うようになった。
「一生じゃないんだからさ」
エドはめんどくさそうにそう言うとマリーネの事を疎ましそうに見るだけ。
「でも…」
「その話はもう聞かん」
マリーネはエドに相手にされず、最近ようやく自分へと回すことができ始めた分を仕方なく家計に補てんした。それだけでは足りず、再び働きに出るようになった。
「何のつもりなのかしら」
「あてつけよ。あてつけ」
「あーぁ。冷めたものを客人にだすなんて、なんて人なのかしらー」
「…お前達、いい加減にしろ。俺達は世話になっている身分なんだぞ」
女二人はリーダーであるラルフにたしなめられて頬をふくらます。
この場にはマリーネの夫であるエドもいるのだが、本音を隠す気もないようだ。
「だったら早く怪我を治してよー」
「ラルフったらあの女の肩を持つの?あたし達、すっごく肩身の狭い思いさせられてるんだけど?」
「医者は今無理をしたら一生冒険者に戻れないと言っている。もう少し待て」
女二人は頬をふくらますとつまんないを連呼する。
「「つまんない。つまんないー」」
ラルフは懐からコインを取り出すとテーブルの上に並べる。
「ほれ、これで何か好きなものでも買ってこい。…すまないな。エド。この借りは絶対返すから」
ラルフはエドに頭を下げる。
エドは笑ってそんなラルフを許す。
「うちのもキツイ言い方をしたんだろ?悪かったな」
貴方の稼ぎじゃ足らない、そう告げられたように感じられて、気分を害していたエドは一方的に自分の妻を悪者にして言った。
工房は十分に儲けているし、注文はひっきりなしに入ってくる。
少しくらい支出が多くても挽回できるはずだし何とかなるはずだ。
「もー。リーダー。ちゃんとあるじゃん。早く頂戴よぉ。もう」
「あたしたちストレスマックスだかんね。早く解消しなきゃどうかなっちゃうー」
「マリーネさんとはうまくやれよ。俺達、世話になってるんだから」
「「はーい」」
生返事をして二人は出ていく。
そんなお金があったら食費にいれればいいのに。
「女ってのは金のかかる生き物だから仕方ないが。迷惑かけている間ぐらい自嘲して欲しいものなんだが」
「ラルフ。大丈夫なのか?」
「大丈夫、この怪我がなおればバンバン稼げるからな。まかせとけ」
エドはラルフが治療費のねん出のために借金を重ねている事に気がついていた。
「いい女って存在は仕事のモチベーションになる。ああいう女が手のうちにいると思えばどんな事にもしっかり身が入るってものさ。」
自分自身が友人宅で世話になっている身分で、言うべき事ではない…という事に少しも気づいていない。
ラルフもまた違った意味でクズといえる人間だった。
そしてエドも、ラルフのパーティメンバーで情人である女二人と比べて、貧相な妻を苦々しく思うのだった。
「マリーネが俺の命の恩人にさえ敬意を払えないような女だったとはな」
「俺はマリーネさんの作る食事は好きだぞ」
「そういう事しか取り柄のない女なんだよ。その癖、口五月蠅くて可愛げがない。そんな女が女房だなんてな。お前はいい女を二人も手にいれていて羨ましいよ」
いつも髪をひっつめて、指や肌もがさがさで手入れもせず、着飾って夫の目を楽しませもしない。
エドは自分の妻を思い描いて舌打ちした。
「あーあ。失敗したな。親が進めなきゃ、あんな女」
「お前ももう一人、妻を迎えるべきだよ。女同士張り合ってくれるからな。ちなみにあっちの方も…」
話は下品な方向へ進み、二人は昼間から酒の杯を重ねるのであった。