第三十二章 運営管理室
その時、運営管理室は呆然とした空気に包まれていた。
「いや……NPCに技術なんか教えられるもんなのか?」
「NPCから教わるというのは定番なんだが……」
「ホブゴブリンたちのAIは、予想以上に高性能だったようだな……」
モニターに映っているのは、シュウイによる杖術指南の光景である。シュウイの指導の下、ホブゴブリンたちは熱心に杖の振り方や捌き方を練習している。
「なまじAIの性能が良いだけに、上達も早いな……」
「ちょっとホブゴブリンのステータスを覗いてみたんですが……全員攻撃力と、それ以上に防御力の数値が上がってますね」
「NPCの性能が変わるのかよ……」
「これって、運営の管理権の侵害に当たりませんか?」
「いや……微妙だが、NPCのAIが自主的に判断して採用した形だから、侵害を主張する事はできんだろう」
「けど……こんな事が続くようでは、運営側としてゲームの管理を行なう事が困難になります」
苦虫を噛み潰したような大楽のクレームに、チーフである木檜も珍しく真剣な表情で返す。
「解っている。このホブゴブリンたちはともかく、他のNPCに学習を許すかどうかについては、上の方に諮ってみよう」
一息入れた後で木檜が続ける。
「上の方がこの件をどう判断するかは判らんが、管理室の早急な増員についても具申しておく。アップデートに合わせて増員する予定だったんだが……前倒ししないと間に合わんようだからな」
木檜の言葉に、少しだけ安堵した空気が流れる。だが、それももう少ししたら吹っ飛ぶのだが……今は束の間の平穏がその部屋を包んでいた。
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束の間の平穏を破られた運営管理室には、罵声と怒号が飛び交っていた。
「どういう事だ!? 何でホブゴブリンがスキルオーブを渡す!」
「こんなクエストは無かった筈だぞ!」
「『スキルコレクター』の仕業か!?」
「馬鹿な! ユニークとはいえ一介のスキルに、シナリオ展開をどうこうできる訳が無いだろう」
「じゃあ、何が起きたと言うんだ!?」
室内の空気は段々と剣呑なものになっていき、あわや掴み合いが勃発しようかというところで、プログラムの解説を眺めていた徳佐が声を上げる。
「あった……多分これだ。交渉に関する設定。NPCがプレイヤーから利益なり損害なりを受けた場合、それに応じた対価をプレイヤーに支払うように設定されてる。ホブゴブリンや一部の魔物もそれに準じた行動をとるようになってる」
平板な、しかしその奥に緊張を滲ませた徳佐の声に、暴発寸前だったスタッフも彼の方に向き直る。
「NPCの基本的なルーチンだって言うのか? 『スキルコレクター』の仕様よりも優先される?」
「だとしたら……町の住民など全てのNPCが同じプログラムを参照して動いている事になる。簡単には修正できんぞ?」
「もしやるとすれば……ホブゴブリンを基本となるルーチンプログラムから切り離して、専用に新たなルーチンプログラムを開発する必要がある……」
「馬鹿な! 既に公開されているのに、そんな暇を取れるか!!」
「次のアップデートには、到底間に合わない。やるとすれば次の次のアップデートに間に合うように、別チームを編成してプログラムを組ませる必要がある。上層部がそこまで許可するかな……」
泥沼に沈みそうな様子のスタッフたちに、一番若い中嶌が恐る恐る問いかける。
「あの……ホブゴブリンは何でスキルオーブを渡したんでしょうか?」
その質問に虚を衝かれた様子のスタッフたち。
「言われてみれば……渡せるものは他にもあった筈だな?」
「徳佐、その点はどうなってるんだ?」
「あぁ……多分これだな……等価交換の優先。この場合、ホブゴブリンたちが得たものが杖術という『技術』だったため、対価として彼らが持っている『技術』を渡したんだろう」
ふむという顔で納得したようなスタッフたち。
「だとすると……同じような事態は再発しにくいのか?」
「コボルトはどうなんだ?」
「コボルトの戦闘能力はもともと高い。杖術は必要とせんだろう」
「魔法を与える可能性は?」
「プレイヤーが他者に教示できるのは、レベルがカンストした技術だけだ。彼は他に何か持っているか?」
「【般若心経】ですね」
中嶌の回答を聞いて微妙な表情になる一同。ホブゴブリンやコボルトが粛々と読経する光景を想像してみるが、どうすればそんな事態になるのかは想像しづらい。
「可能性があるとすれば、除霊クエストに関わる場合だが……」
「ホブゴブリンやコボルトが除霊を……?」
予測どころか妄想すら難しい状況を提示されて、更に微妙な表情になるスタッフたち。何となくだが、これ以上この問題を追及するのは地雷のような気がし始める。しかし、そこへ徳佐が声をかける。
「問題は他にもある。スキルコレクターの彼が、ついに魔法スキルを手に入れた。無双っぷりに拍車がかかって、不可逆的にバランスを崩す――というか転覆させる危険性は無いのかどうか」
これに対して木檜が反論する。スタッフたちにとっては珍しい光景である。
「トリックスターの一人や二人で転覆するほど、SROはヤワに作られてはいない。未だ起動してこそいないが、バランスブレイカーは彼一人じゃないんだ。いざとなればそれらのバランスブレイカーを、運営側として使う権限も与えられている」
木檜に同意したのは中嶌。これも珍しい組み合わせである。
「彼が取得した魔法スキルは人間用じゃありません。オークの【火魔法】はボール、ランス、ウォールの三つだけで、そのままではアーツに進化する事はありません。ホブゴブリンの【土魔法】と【水魔法】は、速さや精密操作の点では人間の魔法を上回っていますが、威力の点ではずっと落ちます」
徳佐は一旦納得したように頷くが、注意を喚起しておくのは忘れない。
「解りました。しかし、あのプレイヤーについては、行動を先回りする形で監視を強めた方が良いと思います」
「プレイヤーへの過度の干渉は問題があるんだが……逸脱しない限りで注意しておく必要はあるかもしれんな」
徳佐と木檜の議論が一段落したとみたスタッフたちが肩の力を抜いたように雑談を始める中、ふと誰かが呟いた。
「……そういえば、あの少年は幻獣の事を情報として流さなかったな」
「まぁ、情報の出所を突っ込まれると色々と厄介だからな」
「あれが玄武の幼体で、しかもそれがナンの町から現れたという矛盾も気付かれていないようだな」
「トンの町をすっ飛ばして、いきなりナンの町の幻獣が解放された時には焦ったが……」
「現段階では、どうみてもただの子亀だしな。玄武の幼体とは気付かれなかったんだろう」
「しかし、もう一体幻獣が解放されたら、仕掛けに気付かれるぞ?」
「その場合はどうするんですか? チーフ」
スタッフの質問に木檜が答える。
「修正した予定の通り、第二陣のアップデートのタイミングで告知する。もともとあの情報はゲームの進度を見て公開の時期を判断するつもりだったからな。想定よりは少し早いが、シナリオに影響するほどでもないだろう」
「解りました」
「月刊バーズ」連載中のコミカライズ版をお読みの方はご存じと思いますが、本作の書籍化が決まりました。詳しい情報はまたいずれ。