産まれました、生きました
「今日も風がつよいのかな。」
安物のミルクを飲みながら、諦めた口調でセタはいった。この町が風も吹かず穏やかなまま終わる日なんて年に何度もないのだ。生まれてすぐに叔母の住む街を両親と離れてから17年の間、セタはこの町で暮らして来た。狭い町だから知り合いは多いけれど、セタには友人もいない。
港町ではいつも風が強い。生温いくせに肌寒い、乾いた風だ。セタは11才のときに母からもらったスカーフをかぶって、頬に風を受けながら、売り物のトマトを見つめていた。視界にはいっているようないないような、曖昧な視線でぼーっと見つめていたのだった。
セタの頭のなかではメロディが流れていた。いつだったろうか、男女5人ほどの観光客が、セタに郷土料理店の場所を尋ねたことがあった。その店はこの地方では割と有名で、時折こんなふうに外国からも来客があるのだ。
「あぁ、あの店はですね」
セタは質問に答えながら観光客をさりげなく観察していた。アジアの人間らしかった。言葉がわからないから国まではしることができない。
身なりからして裕福な国の人間であることはわかった。それもそうだ、そうでなければこんな町に観光になんてこないだろう、とセタは勝手に納得していた。
やがて5人のうちひとりが携帯電話でどこかに電話をかけ始めた。会話をきくかぎり、いま教えた店に予約をとりつけようとしているようだった。
セタがそれをなんとなく眺めていると、ふいに拙い言葉で話し掛けられた。
慌てて目をやると、残された4人のうちのひとりが、満面の笑顔でセタをみつめていた。
「なんですか?」
セタは聞き取りやすいように注意しながら尋ねた。
「いま、この国、音楽、流行っている、ありますか?」
単語をつなげただけの稚拙な質問がその女性から返って来た。なにやら本とにらめっこをしながら必死に単語と単語を、文章にしようとしていた。
流行っている音楽。
セタには何も心当たりがなかった。もともと流行にはうとい方だし、この小さい町だ、情報もなかなか入ってこない。
それにセタの家にはテレビもなく、ノイズだらけで使えないラジオがひとつあるだけだった。
「流行、音楽」
この単語を女性はなんどか繰り返し尋ねた。伝わっていないと思ったのだろうか。
一瞬おもいを巡らせたがやはり見当もつかず、セタはかるく息をはいた。
「私、知らない、ごめんなさい」
相手がわかるように簡単に単語をつなげた言葉であやまると、女性は一瞬、沈んだ顔をした。なんとなくその顔は死んだ母に似ているとおもった。
「ごめんなさい」
もう一度言うと相手はまたすぐ満面の笑顔へと戻り、なにやら大袈裟に手を振っていた。気にしないで欲しいという内容のジェスチャーなのは女性の表情からみてとれた。
セタが申し訳なさげに視線を落とし、自分の履き古した赤いサンダルを見つめていると、また女性から言葉をかけられた。
「これ、私、国、流行、音楽!」
そういいながら女性はまた満面の笑顔だった。この人は笑うことしかしらないのだろうかとセタはなんとなく思っていた。
そして言葉をいい終わるか終わらないかのうちに女性はイヤフォンをセタの耳へとつけてくれた。
彼女は笑顔を崩さないまま大きめのリュックからプレイヤーを取り出し、再生ボタンを押した。一瞬の間があってから、曲がながれる。
「ユーアンドアイ…ナウアンドフォーエバー…」
ひどく悲しいようで優しいようで、いいメロディーだなぁとセタは素直に思った。
「キミガイルカラ、ソバニイルカラ」
言葉がわからないから歌詞の意味は理解できない。この人達の国の言葉なのだろう。なんだか演奏もうるさかったが、かえってメロディーと声を優しくしているようにも感じて、セタは無心で聴き入っていた。
聴きながら、「ユーアンドアイ」と聞き取れる歌詞は、YOU AND Iだろうか、とセタはぼんやり考えていた。学もない自分だが、そのくらいは分かる。YOU&I、あなたとわたし。きっと恋愛の歌なのだとセタはおもった。だからこんなに優しくて、どこか悲しいメロディーなのだろうか。
やがて歌が終わると、セタはイヤフォンを外し、女性に礼を言った。
女性はまたも大袈裟なジェスチャーをすると八重歯をのぞかせてまた笑った。その罪のない笑顔にセタは少し苛立ちさえ覚えていた。
「カヨ!」
大きな声がして振り返ると、女性以外の四人が少し先の坂道から、待ちくたびれた様子で手を振っていた。
「はーい!」
女性も大きく返事をするとセタの手を握って、何回かありがとうを言い、駆け足で仲間のもとへ戻っていた。
あの女性の名前は、カヨというんだなぁと、セタは考えていたが、もう二度と会わない人間だからとすぐに考えるのをやめた。