第三話 9
崔さんは私服に着替えると、澪の横に座った。なんでも崔さんは、算数が得意だから教えてもらっているのだと澪は言っていた。崔さんは私服になると一段と美人になる。なんでこんな綺麗な人が独身なんだろう?と彼女を見ていて、やっぱり不思議に思った。三人はそのうち、宿題を終え、次は好きな人の話になったみたいで、僕の耳が急にピクリと動いた。
「リサちゃんは好きな男の子はいるの?」
「いるよ」
「え? どんな子? 教えて」
「うーんとね、走るのがすごく速いの。普段は大人しいのに、スポーツをしてるとき、すごく男らしいの」
「へー、そうなんだ。いいねー、やっぱ、スポーツが得意な子っていいよね」
「そうでしょー」
「同じクラスの子?」
「ううん、違う。隣りのクラスの子」
「話したことはあるの?」
「それがないの」
「話しかければいいのに」
「えー、無理」
「でも運動会とか楽しみだね」
「うん。いつもリレーでごぼう抜きするんだよ」
「かっこいいね」
「うん」
「澪ちゃんは?」
崔さんが澪にそう言うと、澪は俯いた。それを見てリサちゃんが「澪のことは訊かないほうがいいよ。失恋したばっかりだから」と言ったので、崔さんは慌てて「ご、ごめんね……」と言っていた。それで、三人がもうすぐ六時になるからお開きにしようかと言っていたら、自動ドアが開き、ある人物が店を訪れた。
澪はその人物を見て、顔が硬直し始めた。その顔に驚いたリサちゃんは誰が来たのか確かめるために振り返ったのだが、リサちゃんの顔もこれまた硬直した。崔さんは、その二人の様子を見てオロオロするばっかりだったのだが、どうしようもないのでそのまま二人と一緒に席についたままだった。
「ごめーん、待った?」
「ううん。全然待ってないよ。だって、まだ五分前じゃん」
その人物は女の子と店で待ち合わせしていたのか、仲良さそうに会話し始めた。そして、カウンターのほうに注文をしに来ようとして、その人物は澪とリサちゃんに気付いた。
「あれー、澪とリサじゃん。なんでいるの?」
「なんでいるのって、ここ、澪の家だけど?」
リサちゃんが嫌そうに答えた。
「えー、そうなんだ。知らなかったよ。やばー、縁起わるー。由奈、場所を変えようか」
と言った途端、今まで真面目になんにも喋らないで黙々と仕事をしていた池上君が、厨房からいきなり飛び出して行って、そいつの胸倉を捕まえて言った。
「おい! お前! 悟志ってやつだろ? お前、今なんて言った? 縁起悪いだと? それはこっちのセリフだよ!」
「なんだと、このクソオヤジ!」
悟志という男の子はびっくりしながらも、そう言い返した。
「お前、この間約束をすっぽかしといて謝りもせずに、その態度はなんだ! ちゃんと澪ちゃんに謝れ!」
「はぁ? お前に何の関係あんだよ?」
「なんだとお?」
そこでつかみ合いの喧嘩になって、僕は慌てて止めに入った。だけど、池上君は一歩も引かなかった。
「おい、ちゃんと澪ちゃんに謝れ」
悟志は下を向いてなかなか謝らなかったが、やがて小さな声で「ごめんなさい」と言った。
「もっと大きな声で!」
「ご、ごめんなさい」
「おう、それでいいんだよ。誰だって、約束を守れないこともあるんだよ。だけど、その後が肝心だ。お前だって、悪かったと思ってたんだろう?」
「はい……」
「だったら、ちゃんと謝れ。それが人としての礼儀だ」
そう池上君が言うと、悟志は深く頷いた。
その様子を見ていた由奈という女の子は「最低!」と言って、怒って帰って行った。いつの間にか、うちの三バカ息子もそこにいて、おもちゃの剣で彼を切りつけていたし、そこに居合わせた人間全員に「最低!」と言われまくって、悟志はすごすごと帰って行った。香苗さんは「塩!」と叫んで、店の前に塩を撒きまくっていた。しかし、この世の中に、父親の僕より娘のために怒ってくれる人がいるのだという事実が、なんだかちょっと嬉しかったのだった。




