魔女と求婚
滅多に人に合わなくなってから、すっかり人に会うことに恐怖を覚えてしまった。
人が嫌いだとか、恨みを感じているわけではない。ただ、自分が何の根拠もなく恐れられる存在であるのが耐えられなかった。人々に害を与えているのでもなければ、人とかけ離れた常識の持ち主でもない。
森の中での生活も慣れてしまえば楽しいもので、文句はない。生まれた時から暮らしてきた場所だし、不便だと思うことはあっても、これはこれで受け入れてしまえば気にしないものだ。一人でいるのも寂しいと感じることは少なく、むしろ誰かの助けを借りないことで自分成長しているような気さえしている。
そんな平穏な日常が脅かされる方が、よっぽど耐えられなかった。
あれから青年たちが帰ることはなく、予想通り野宿をして夜を越す結果となってしまった。
空腹を満たす程度の食材があったお陰で簡単な食事は作れたし、そのために薪を拾って火を起こすこともできたので不自由することはなかった。寝るときは獣が襲ってこないか心配ではあったけれど、もともとそこまで凶暴な獣は少ないので遭遇する確率は限りなく低い。
早朝。
日が昇ってきているとはいえ、常に薄暗い森はまだ夜と勘違いしてしまうほどに暗い。こんな明るくなることのない森に子供の頃は怯えたりもしたが、今では眩しすぎる方が逆に怖い。
流石にもう玄関に立ち往生してはいないだろうと屋敷まで足を運んでみると、案の定彼らの姿は見当たらなかった。
ようやく心から安心できる。急に気が抜けていくのを感じながら、住み慣れた屋敷へそそくさと入っていく。
室内が荒らされている形跡はない。外出時は錠を掛けているとはいえ、不安であることに変わりなかった。森に入る者たちは迷子でなければ物好きばかりだし、昨日の青年たちのように魔女目当てで屋敷に忍び込もうとする不届き者がいたところで不思議ではないのだ。
念には念を入れて屋敷内すべてを点検し、異常がないことをこの目で確かめたところで、ようやく疲れに負けて寝室へと向かった。先に汗をかいた体を洗ってしまいたかったが、目覚めてからでも遅くないだろう。
何の変哲もない日常に少しの異常を来しただけでも疲れてしまった私は、寝台に倒れてすぐに意識を落とした。
どれくらい眠っていたかわからないが、目を覚ましたとき、恐らく昼を過ぎていたように思う。
重たい体を動かし体を洗いに行く。
空腹も感じないでもないが、それよりも今は汗で気持ち悪い感覚をどうにかしたかった。国の外れの森とあって居住区ではないここには水道など当然引かれてはいないのだが、井戸から汲んだ水で大抵どうにかなる。冷水を浴びるのはあまり好きではないのだが、寝起きともあってさっぱりと目を覚ますことができた。
濡れた体を乾かしているところで、ふと外が騒がしいのに気付く。
昨日の今日とあって恐る恐る窓から覗き見る。
案の定、昨日訪れていた青年の姿を捉えた。外から聞こえる聞きなれない音は馬の蹄が土を蹴って歩いていた音のようだ。
瞬間、体が強張るのがわかる。
昨日出会えなかった(実際には出会えている)魔女を今日こそ捕えに来たのだ。そしてそのまま王国に連れていかれるに違いない。
屋敷から出るには裏口なんて都合のいい出入り口はなく、玄関を通っていかなければならない。ゆえに逃げ道はない。だとしたら、このまま居留守を使うべきだろうか。
高鳴る心臓を何とか落ち着かせようとしながら再び帰るのをただ待っていると、唐突に青年の声が小さく聞こえた。実際には大きな声で呼びかけているのだろう。
「森に住む魔女よ! 私たちの前に姿をお見せ頂けないだろうか!」
確かにそう聞こえたような気がした。昨日と同じ丁寧な口調だ、とても捕まえて国に売ろうとしているようには聞こえない。
たとえ悪気はないのだとしても、やはり彼の呼びかけに応じるのを躊躇ってしまう。
私は魔女で、彼らは普通の人間だ。例え善人だったとしても、住む世界が違う彼らと関わるのはあまりよくない。
もやもやとすっきりしない気持ちを抱えながらも寝室に戻ろうとすると、窓の外を見ながら歩いていたせいか、目の前にある壺に気づかずぶつかってしまった。
冷や汗をかくより先に、それは倒れて砕け散っていく。
大きな音が屋敷の外まで響いてしまった。どうしよう、これで白を切ったところで居留守であるのは見抜かれている。外から聞こえる声が一層増えたような気がした。
やはり自分の口から帰るよう言うべきだろうか。これでは殊更彼らを森へ通わせることになってしまう。
考えると自然と体は動くもので、気が付けば玄関扉の前まで辿り着いていた。
意を決して、小さく扉を開く。
気づかれない程度に小さく開いただけだったが、しかし僅かな異変に気付いた青年がこちらを見ていた。
まるで檻の中の珍獣のような気分だ。
「魔女よ! お姿を現してくださったのか!」
玄関先の柵扉には鍵がかかっているため、そこから先へ彼らが侵入できる術はない。だから安心して近づくことができる。
扉からゆっくりと外に出ると、俯いて恐る恐る彼らの元へと近づいた。
下を向いているとはいえ、昨日の今日の顔合わせであるため青年はすぐに勘付いたようだ。
「君は……昨日の娘ではないか」
「あ、あの……魔女は、」
魔女は私です。
その言葉は何より、私自身の胸に突き刺さる。
私も、私の両親も、その両親も代々続く家系は、自身の素性について公に明かさないようにしてきた。今よりずっと昔の時代がどんな背景にあったのかわからないが、きっといつの時代もいい印象は与えてこなかったのだろう。
まるで罪を犯してしまったかのような気分に、視界が薄っすら潤むのを感じた。
青年の顔を見ていないのではっきりしないが、驚いているのか、あるいは状況を理解していないのか。彼の口から言葉は聞こえてこない。
その方が都合がよかった。下手に言葉を掛けられて混乱するより先に、自分の言いたいことを伝えてしまおう。
「なので、その……私には関わらない、方がいいと思います。私はただ、魔女としてこの森で静かに暮らしたいだけなんです。あなたたちの生活に関わるつもりは、微塵もありません……帰ってください」
思うように伝わったかはわからない。何せ、久々にこれだけ会話したのだ。人と話すのは苦手だと思っていたけれど、やっぱり苦手意識はそう払拭されないものだ。こうして話しているだけで心臓がばくばくと煩いし、声も震えて余計に恥ずかしい。
それに、今思えばとんでもない話だが、風呂上りの湿った髪で人前に出てくるなんて恥ずかしい真似をしていたことに気づく。
早くこの場から消えてしまいたい。
言いたいことは伝えられたし、もう屋敷に戻ってしまおう。そう思うより先に踵を返そうとした瞬間、黙っていた青年の口から制止の声が聞こえた。
「待ちたまえ」
強い制止の声ではなかった。話だけでも聞いてほしいと言わんばかりの声に、大きく肩を跳ねさせた。
恐る恐る振り向き、ようやく彼の顔をまともに見た。昨日見たときは逃げる口実に必死で考えもしなかったが、綺麗な顔立ちだ。歳は近い方だろうか。
なぜだかその瞳に吸い込まれそうになる。
ようやく目を合わせられたことに安心したのか、彼は穏やかに微笑んで言う。やはり、何か悪事を働こうとしている者の顔には見えない。
「私の話を聞いてもらえないだろうか」
「……」
「君を捕えてしまおうなどと考えてはいない。証拠がないと言うのなら、こうしよう」
そう言って彼は、いや彼らは、自らの腰に下げている立派な剣を外し、地面へ落とした。また、青年は背後に控える護衛であろう男たちにもっと離れるよう目配せする。
鍵が掛かったままの柵。手を伸ばしても届かない距離にいる人々。これで危険はない、そう伝えたかったのだろう。
困惑しながらも、彼らの意思は伝わってきた。体の震えが消える気配はないが、自然と体は彼の前を向く。
話を聞くだけの意思は持ってくれた、そう感じ取った青年は、さっそく用件を話した。
それはあまりに突拍子もないことで、再び私の心を掻き乱すには十分だった。
「魔女よ。どうか私の妻になってくれないだろうか」
その言葉を理解するには随分時間が掛かったように思う。それからの私の思考は随分客観的で、自分と青年の様子を俯瞰して見ているようだった。
おぼろげな記憶の中、唯一覚えているのは再び踵を返し屋敷へ戻っていったことだけだ。