魔女と遭遇
とある日を境に、私は森から外へ出なくなった。
雄大な自然、人々の活気に溢れた街並み。そんな絵に描いた平和の象徴とも言えるその王国は、国民の笑顔が絶えない理想郷だ。犯罪も少なく人々が不満を漏らすこともない、生まれてから死ぬまでに幸せが保障された国。
そんな幸せを具現化した国であっても、嫌悪や怨恨といった感情がまったくないような場所ではない。
富に溢れた国から離れた、鬱蒼と生い茂る森。
どんなに晴れた日中だろうと日の光が地面まで届くことはなく、常に薄暗さを醸し出しているからか、いつしか森は『魔女の森』などと呼ばれるようになっていた。
勿論、雰囲気だけで物騒な名前が付けられたのではない。
陰鬱な景色の森のその奥にひっそりと佇む一軒の屋敷。そこには魔女が住むと噂されていた。
道に迷い込んだ者は二度と帰らず、魔女の贄となり残りの命を捧げることとなる。噂が噂を呼んで、王国に住む人々は森へ足を運ぶことを恐れるようになり、また子供は「悪いことをしたら魔女の餌になる」などと親の脅し文句を信じるようになった。
まるでおとぎ話のような魔女の噂。
しかし、根も葉もない噂ではない。森にすむ魔女は実在しているのだ。
森に生える薬草を摘み、野菜を育て、害のない獣を狩る。
そんな生活を始めたのは、いつ頃からだっただろうか。猟師のような技術や力もないが、何年も経験を重ねれば私のような小さな体の女だろうと、それなりに様になってくるものだ。
今日も薄ぼんやりとした森を歩きながら、食べられそうな食材を探す。自給自足の生活に困ることはないが、野菜の栽培は気候や条件によって良くも悪くもなる。念には念を、蓄えは十分に溜めておかなければならない。
本日の食材は茸に香草、それから小動物が一匹。
最初は獣の狩りなど恐ろしくてできるものではなかったが、生きるためだと思えば人は案外強くなれるものだ。今では一人で肉を解体できるようになったし、肉屋でも開けるかもしれない。
町に出向くことができれば、の話だが。
そんな叶わぬ夢を描きながら、住処である屋敷へと戻っていく。
森の小道を歩きながら、昼食の献立を考え始める。小道なんて可愛らしい表現だが、森の中の道は獣道に等しい。最初こそ歩きながら何かを考えるなんて、とても息が上がってできたものではなかった。
逞しく成長した自分に己惚れながらも歩いていると、しばらくして住み慣れた家が少しずつ見えてきた。
通称、『魔女の屋敷』。
誰か呼び始めたのか、いつ頃からそんな物騒な屋敷になってしまったのか、住居人である私の知るところではないが、念のために行っておけば一度入った者が二度と出られなくなるなんて伝説は当然嘘である。むしろ迷い込んできた人に気づかれないよう隠れながら食事や寝床を提供している苦労をねぎらってほしいくらいだ。
そう、魔女と呼ばれているのは他ならぬ私だ。
なぜそのような恐ろしい呼称で忌避されているのか、理由はわかっている。
私が魔女だからだ。
別に無害な人を贄にして食べたり、怪しげな呪いをしたりするような恐ろしい行為はしていない。そんな危険な真似はしたこともないし、できもしない。
私にできるのはただ、薬を作ったり、生活に便利な魔法を使える程度だ。
魔女だから、それだけで恐れられることに何も感じないわけではない。けれど、幾ら訴えたところで彼らが簡単に改心するとも思えない。
それだけの確信があるのだ。
「何かしら」
段々と家に近づいてくると、いつもと違う違和感に気づいた。
騒がしい。誰か人でもいるのだろうか。
どれだけこの森が恐れられているとはいえ、国民が迷い込んでくる機会は稀にある。なるべく騒ぎになるのを避けて人前には姿を見せないようにしている。なぜ私がここまで国民への配慮を徹底しなければいけないのか疑問ではあるが、今回もそうして陰に隠れて様子を見ることにした。
屋敷の前に、数頭の馬が駐在している。その周りには何人かの大人が玄関の前に立ち止まっている。
明らかに迷い込んできた様子には見えない。どころか、彼らの身なりは一般国民のものとは思えないほどに高価に見える。
特に、その中の一人。歳は私と同じくらいだろうか、綺麗な顔立ちの青年は一際絢爛豪華な出で立ちである。
玄関の前を動かない様子に、嫌な予感が脳裏をよぎった。
まさか、私を捕えにきたのだろうか。
噂や伝説として恐れられているだけで、危害を加えた覚えは一度だってない。しかし、根も葉もない噂が蔓延るあの国であれば、覚えのない罪を課せられて刑を執行しに来たとしても、国民の誰もが嘘だなどと感じないだろう。
しばらく森の中に身を潜めて、彼らが去るまで待つべきか。
再び来た道を引き返そうと踵を返したところで、不意に足元の弦に躓いた。
幾ら獣道を毎日歩いていて足腰に自信があるとはいえ、よろけた体を立て直すほどの俊敏な動きを身につけているわけではない。
大きな音を立てて、体は地面に激突した。
「何者だ?」
葉の擦れる音や枝の軋む音、ましてや盛大に地面を強打する音が聞こえたのだから、獣が近くにいるなんて思う者はいないだろう。倒れた音を聞きつけた男たちがこちらに近づいてくるのがわかる。
慌てて逃げようと体勢を立て直そうとするが、打ち所が悪かったのか足が痛んで動きが鈍い。何とかその場を離れようとするよりも先に、煌びやかな服を纏った青年の目が私を捉えていた。
見つかってしまった。
今まで森に入ってきた人と遭遇してしまっても、なんとか誤魔化してやり過ごしてこれた。それなのに、こんなにあっさりと見つかってしまった。
これから言われもない罪によって処刑されてしまうのか。
悲しさよりも虚しさが胸を満たしていくのを感じながら、ぶつかった視線を逸らせずにいた。
嫌だ、こんなところで死にたくなんかない。
硬直して震える体。
しかし、青年は乱暴に私を捕えるどころか、ただ目の前に手を差し伸べた。
予想外の出来事に何をされたのか、何を意味しているのかわからず困惑していると、青年は優しげな声で話しかける。高すぎず、しかし低すぎない綺麗な声音だ。
「怪我はないかい、お嬢さん」
心配をされているらしい。
てっきり「魔女だ! 捕まえろ!」などと恐ろしい号令を掛けるものかと思っていたせいで、妙に拍子抜けしてしまった。
呆然と差し出された手を見ていると、痺れを切らしたのか青年は勝手に私の手を取り引き上げ、立ち上がらせる。
呆然と立ち尽くしていると、青年は再び声を掛けてきた。
「驚かせてすまなかったね。ところでお嬢さん、森に迷い込んでしまったのかい? ここは薄暗いし足場も悪い。帰り道がわからないようであれば、後で家まで送ってあげよう」
「……あの、」
「ああ、まだ名乗っていなかったね。私はクレイグ・マスグレイブ。この森に住むという魔女を探しに来たんだ」
途端、背筋に悪寒が走った。
やっぱり私を探しに来ていたのだ。きっと身分の高い家の人間で、魔女を捕えて国王に献上するつもりでいるに違いない。屈託のない笑顔を浮かべているが、最近の人間は人を騙すのに長けた者がいると聞いていたが彼こそそうなのだ。
幸い私が探している張本人だとは気付いておらず、国から森に迷い込んでしまった町娘か何かと勘違いしているらしい。足元に転がる食材を見て怪しまれていないのが救いだ。
こうなれば、意地でもこの場を切り抜ける他にない。
震える声を何とか絞り出しながら、久しぶりに会話をする。その内容がまったくの出鱈目であることに、少しだけ罪悪感を覚えないでもない。
「わ、私、ちゃんと一人で帰れます、ので」
「しかし、ここから森を抜けるには馬でも時間が掛かる」
「大丈夫です! 初めて来た場所じゃないので、道はわかります。どうぞ私のことはお構いなく……!」
嘘だなんて簡単に思いつくものではない。特に私は嘘をつくのが極端に下手だ。
初めて来た場所じゃないだなんて、森に入ることを嫌う国民からすれば明らかに怪しい発言ではないか。それだけではない、馬でも時間のかかる道を頑なに一人で歩いて帰ろうとする女など、普通の女だと思わないだろう。
確実に怪しまれる。
意を決して嘘をついたはいいが、逆に自分の身を危険に晒しているだけではないだろうか。
恐る恐る青年を見上げると、彼はしばらく考えた末に言う。
「そうかい? 実はこの屋敷に住んでいる魔女は留守のようなんだ。私たちはしばらく待つから、君は日が暮れない内に気をつけて帰りたまえ」
「え? あ、は、はい」
「道がわからなくなったときは戻ってくるといい。しばらくはここにいるつもりだ、快く道案内させてもらうよ」
私が言うのもなんだが、この青年、お人よし過ぎやしないだろうか。
まるで疑う素振りも見せず、あっさりと快く嘘を信じてくれた。勿論そうしてくれることに越したことはないのだけど、ここまで怪しまれずにいられると逆に不安になってしまう。優しそうな顔をして騙しているのではなんて疑ってしまった自分に妙に腹立たしさを覚えた。
青年の言う通り、急いで森を出る振りをして遠ざかっていく。
といっても、困ったことになってしまった。しばらく居座る気でいる彼らが帰る様子はないし、それまでは家に戻ることもできない。
今日は久々の野宿だろうか。