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第六章 周縁の裂け目


 試験開始から三日目、最初の“裂け目”は苦情の形で届いた。


 苦情という言葉は、都市の免疫反応みたいなものだ。痛い場所にだけ炎症が出る。炎症は不快だが、身体が生きている証拠でもある。


「修理屋から連絡が入ってます」


 運用局の現場担当が言った。「南條ミナ。区画内の設備修理を請け負ってる人です。……『街が先回りしてくる』って」


 アオは端末の通知を見た。件名だけで皮膚が薄くなる。


 先回り。


 それは都市の得意技だ。事故を避けるために順序を微調整する。問題は、その先回りが生活に侵入してくるとき、先回りは“気遣い”の顔をして人間の自由を削ることだ。


 ソウタも同席していた。ユズはいない。監査官は会議にいないときほど、網を強める。見えない監査は、空気より重い。


「会いに行きましょう」


 アオが言うと、ソウタは即座に頷いた。現場の胃袋は、机上の議論より、人の顔のほうが信じられる。


 南條ミナの工房は、商店街の外れにあった。シャッターの塗装が剥げ、看板の電球が半分死んでいる。死んでいる電球が残っているのが周縁だ。中心部なら、死ぬ前に交換される。交換されること自体が、未来予算の支出だ。


 工房の中は油の匂いがした。金属とゴムと、微かな焦げ。匂いがあるだけで、アオの胸の奥のざらつきが少し取れた。ここにはノイズがある。ノイズは面倒だが、面倒は人間の生活の形だ。


「運用局の人?」


 ミナは作業台から顔を上げた。年齢は三十代後半か、それより少し上。髪は適当にまとめられていて、爪の間に黒い汚れが残っている。汚れが残っている手は、世界を触っている手だ。


「牧野アオです。位相の——」


「難しい話はいい」


 ミナは即座に遮った。「最近、街が変なんだよ。あなた、その変を直しに来たんでしょ」


 ソウタが名刺を出そうとしたが、ミナは受け取らなかった。名刺は制度の匂いがする。制度の匂いは、現場では敵の匂いだ。


「変って、具体的に」


 アオは、できるだけ短く聞いた。長い質問は、相手の余白を奪う。


 ミナは工具を置き、指で空中をなぞった。「先回り。——それしか言いようがない。たとえば、昨日。私、部品の買い出しに行こうとして、財布忘れたの。ふだんなら戻る。けど戻らなかった。戻らなくて済むように、なってた」


「どういう意味ですか」


「店が、ツケでいいって言った。私、ツケなんて嫌いでしょ。嫌いなのに、言い返せなかった。言い返す前に、店主が『まあ今日はいいよ』って笑って、私も笑って、終わった。——終わったことが気持ち悪い」


 アオは背筋が冷えた。先回りの怖さは、暴力ではなく親切の顔をして来ることだ。親切が成立するほど、世界は滑らかになる。滑らかになるほど、余白が削られる。


「別の日は?」


「別の日は、雨」


 ミナは言った。「私、傘忘れた。そしたら、道の角にビニール傘が落ちてた。新品みたいなやつ。拾って使った。……使ったことが気持ち悪い」


「偶然じゃなくて?」


「偶然って言えるなら楽だよ。でも、偶然ってさ、ちょっと汚いでしょ。拾った傘には誰かの指紋がある。ビニールが少し曇ってる。そういう“生活の汚れ”があるのが偶然。あの傘、綺麗すぎた」


 ミナは歯を見せずに笑った。「綺麗すぎる偶然は、偶然じゃない」


 ソウタが小さく息を吐く。現場の胃袋が痛そうな音だった。


「あとね」


 ミナは声を落とした。「私の友だち、最近ちょっと……薄い」


 アオの指先が硬くなる。薄める。白化。未来予算。講義室の概念が、いきなり生活に刺さる。


「薄い、って」


「話しかけると、反応が遅い。遅いのはいい。人間だから。けど遅いんじゃなくて、“届いてない”感じがする。私が言ったことが、その人のところで一回転して、どこかに落ちてから戻ってくるみたいな。……で、写真が変なんだよ」


 ミナは端末を取り出し、写真を見せた。三人で写っている。ミナと、もう一人の友人と、問題の友人。だがその友人の輪郭が、わずかに滲んでいる。ピンボケではない。滲み方が“規則的”だ。青い縞が、髪の端に薄く走っている。


「これ、加工じゃないよ」


 ミナが言う。「私、そういうの嫌いだし」


「嫌い、を信じます」


 アオは言った。嫌いという感情は、まだ余白の証拠だ。


 アオは端末でログを開き、写真の撮影位置と時刻を照合した。周縁区画の中でも、観測が薄い地点——古い高架下、照明が弱い路地、電波の死角に近い場所が一致している。


 観測が薄い場所ほど、裂け目は生々しく出る。


 しかも——遊び位相を開始した後から、滲みが増えている。


「……遊び位相の影響か」


 ソウタが小声で言った。


「一概には言えない」


 アオは言った。言いながら、胃の奥が冷える。一概に言えない、という言葉は便利だが、現場では“逃げ”に聞こえる。逃げたくない。だが断言もしたくない。断言は確信だ。確信は白化の燃料だ。


 ミナはアオをまっすぐ見た。「あなた、直せるの」


 アオは、答える前に一拍置いた。答えは短くしないといけない。短い答えは嘘に近い。だが長い答えは逃げに見える。


「裂け目を縫う方法はある」


 アオは言った。「ただし縫いすぎると、世界が白くなる。だから、縫い方を変えたい」


 ミナは鼻で笑った。「白くなるって、何。清潔ってこと?」


「清潔じゃない」


ソウタが代わりに言った。「……人がいなくなる」


 その言葉が重かった。制度の人間が、現場の言葉で話した。ミナの目がわずかに揺れる。


「いなくなるって」


「記録から。記憶から。——生活から」


 アオは言った。言ってしまった。言葉にした瞬間、青い縫い目が背中に触れた気がした。見られている。言葉は観測だ。観測は、どこかの結び目を締める。


 ミナはしばらく黙ってから、作業台の隅を指差した。「あそこ。見て」


 そこには、鍵が二つあった。まったく同じ形。まったく同じ傷。まったく同じメーカー刻印。鍵束から外され、並べて置かれている。


「これ、どうしたの」


 アオが聞く。


「閉まったまま開いた鍵」


 ミナは言った。「依頼主が持ってきた。『鍵が二本に増えた』って。冗談かと思ったけど、冗談じゃなかった。……で、怖いのはね」


 ミナは鍵を一つ持ち上げた。金属が光る。光り方が不自然に綺麗だ。もう一つの鍵も、同じ光り方をする。


「どっちが本物かわかんない。っていうか、どっちも本物っぽい。本物って何」


 本物って何。アオの脳内で、白化の映像が一瞬だけ走った。整合性の採用。矛盾の排除。薄める。二重化を放置すると裂ける。二重化を強く訂正すると潰れる。


 目の前の鍵は、その縮図だった。


 アオは端末を近づけ、鍵のタグ反応を読む。反応が二つ返る。片方は既存の鍵ID。もう片方は——同じID。IDが同じものが二つある。データとしてあり得ない。だが現実として、目の前にある。


 ミナがぽつりと言った。「最近ね、街が“正解”を押し付けてくる感じがするんだよ。迷う暇がない。迷う前に答えが置かれてる。……それ、便利なんだけど、怖い。だって、迷うのって私の仕事でしょ」


 修理屋は迷いで生きている。壊れたものを前に、どこが悪いか探し、仮説を立て、外し、また立てる。迷いは技術の呼吸だ。迷いが消えた技術は、ただの手順になる。


 アオは鍵を見つめた。鍵は扉を開ける道具だが、いまは別の扉を開けていた。都市の縫い目にある扉。そこから冷たい青い風が吹く。


「この鍵、預からせてください」


 アオは言った。



 ミナが眉を上げる。「返してくれる?」


「返す」


 アオは言った。「返す、って言い方も変だけど……返す。あなたの生活に戻す」


 ミナは少し考え、鍵束ごと差し出した。アオが受け取ると、金属がひやりとした。冷たさが遅れて来る。順序が、わずかに折れる。


 ソウタが言った。「牧野。これ、試験の範囲を超えてませんか」


「範囲の外で起きてることが、範囲の内を決める」


 アオは言った。言い切りは危険だが、いまは言い切らないと現場が止まる。止まると裂ける。


 工房を出ると、商店街の端で子どもが転びかけた。転びかけたのに、転ばない。誰かが腕を掴んだ——掴んだことになった。子どもは泣かない。泣く前に笑う。笑ったことになった。


 アオは、その一連の滑らかさに吐き気を覚えた。吐き気は余白だ。余白がまだ自分の中に残っていることに、少し安心する。


 端末が震えた。監査の通知。ユズからだ。


【監査強化】試験区画内の追加観測点を設置します。未確定ログの閾値を引き下げます。二重化兆候検知の感度を上げます。


 文章は事務的だ。だが事務的な文は、世界を動かす。事務は都市の呪文だ。


 アオは通知を閉じ、周縁区画の空を見上げた。空は中心部より少し濁っている。濁りは嫌われるが、濁りは光を散らして色を作る。色は干渉から生まれる。


 青い縫い目が、遠くで一瞬だけ乱れた気がした。


 観測が薄いほど、裂け目は生々しい。訂正が届かない場所ほど、怪異は生活の肌触りで現れる。だからこそ——ここから始めるべきだ。


 アオは確信した。


 確信したことを、少しだけ怖いと思った。



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