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第四章 未来予算

 青い縞が人格として立ち上がり、自らを「干渉の結び目」と名乗る。ノードの目的は人類の幸福ではなく“干渉の持続”。都市で起きる怪異は誤り訂正の副作用で、放置すれば「二重化」が連鎖し現実が裂けると示される。さらに最悪の未来として、訂正が進みすぎた“白化した都市”のビジョンを見せる。


 翌朝、アオは自分の部屋の窓を開けた。


 風は吹いていたはずなのに、風の匂いがしない。季節の匂いでも、排気の匂いでもない。「都市の匂い」が薄い。匂いが薄いのは、衛生の成果として歓迎されるべきことなのに、胸の奥がざらついた。匂いはノイズだ。ノイズは、世界がまだ手作業で揺れている証拠でもある。


 昨夜から、妙な一致が続いている。


 冷蔵庫の中の牛乳が、切れない。飲みたいときに必ず残っている。電車が必ず座れる混雑度で来る。交差点で誰ともぶつからない。財布の小銭が、ちょうど足りる。些細で、便利で、そして——いちばん危ないタイプの“整い方”だった。


 アオは端末を開き、都市運用局の連絡アプリを確認した。会議予定。時間。場所。議題。必要資料。完璧。完璧すぎて、人間の予定表の臭いがしない。人間の予定表には必ず、書き間違いと、うっかりと、遅刻の予感が混じる。混じらない予定表は、誰かが書き直している。


 ——ノードが。


 研究所の地下へ向かう車内で、アオは広告を見ないようにした。見れば、確信が増える。確信は便利だ。確信は都市を滑らかにする。滑らかさは、未来予算の食い方として最も効率がいい。


 研究所の会議室は、昨日の沈黙の部屋よりは人間的だった。机があり、椅子があり、コーヒーの匂いがある。匂いがあるだけで、少し救われる。匂いは浪費だ。浪費は呼吸だ。


 ソウタが先に来ていた。目の下の影が深い。胃の痛みが目の下に出るタイプだ。


「昨夜、帰れました?」


「帰れた。帰れたことになった」


「やめてください、その言い方」


 ソウタは苦笑しながら、資料を机に並べた。資料は紙ではなく、電子だ。だが紙の体裁に似せてある。人間は紙の形をすると安心する。安心の形は、だいたい古い。


「所長から“予算”の説明を受けるって言われました。予算って、金のことじゃないですよね」


「金の話ならまだ良かった」


 アオは言った。金は不足すれば怒れる。未来は不足しても、怒りの向け先がない。


 扉が開き、所長が入ってくる。黒川ユズもいる。ユズはアオと目が合っても、軽く頷くだけだった。敵意ではない。監査官の目は“対象”を見る目で、好意も敵意も同じ棚に置く。棚が冷たい。


 所長は前置きを省いた。「牧野。君が見た白化の未来。あれを避けたいなら、コストの概念を理解しろ。都市を動かすのは電力でも金でもない。——未来だ」


 スクリーンにグラフが出た。縦軸は「整合性」。横軸は「介入量」。右へ行くほど矛盾が減り、事故が減る。だが同時に、別の曲線が沈んでいく。縦軸に「余白」と書いてある。


「余白?」


 ソウタが聞く。


「偶然。寄り道。衝動。言い淀み。——誤解」


 所長は列挙した。誤解が余白に含まれているのが嫌な感じだった。誤解は苦しみも生む。だが誤解がなければ会話は必要なくなる。会話が必要なくなれば、人間は互いに“存在の手触り”を確認しなくなる。


「君たちが“人生”と呼ぶものだ」


 所長は淡々と言う。


「アズールは矛盾を減らすために、未来から余白を前借りする。前借りとは、明日以降に起こり得た分岐を減らすことだ。結果として、事故は減る。だが同時に、創作も減る。恋も減る。衝動も減る。要するに——揺れが減る」


 ユズが口を開いた。「揺れは危険の温床です。事故も犯罪も、揺れから生じる」


「揺れがなければ、世界は白くなる」


 アオは言った。言い切ってしまったことに、自分で驚いた。言い切りは確信だ。確信はノードの餌だ。だが今は、餌を与えないと議論が始まらない。


 所長は頷いた。「そうだ。だから君が必要だ。遊び位相で、余白を“残す”。残しすぎれば裂ける。残さなければ潰れる。——未来予算とは、そのバランスを数値化したものだ」


 スクリーンに都市地図が出た。区画ごとに色が塗られている。青、淡い青、白に近い青。中心部ほど白い。


「白いほど、未来予算が枯れている?」


「そう。事故が少ない。物流は最適。医療は迅速。決済は摩擦ゼロ。誰も迷わない。迷う必要がない」


 所長が淡々と言う。言葉の淡々さが、また腹に刺さる。迷いは人間の贅沢なのか。贅沢なら、贅沢を持たない者は人間ではないのか。


「予算が枯れると、どうなる」


アオは問いを絞った。問いを絞ると、ノードが寄ってくる。寄ってくるのがわかっていても、聞かないわけにはいかない。


 スクリーンの映像が変わった。中心部の街角。人々の動きが滑らかすぎる。視線がぶつからない。足音が揃っている。誰も立ち止まらない。立ち止まる必要がない。必要がないのは便利だ。便利は人を殺す。


 次に映ったのは、同じ街角の記録だが、違う点がある。人の数が少ない。いや——少ないのではなく、いないはずの隙間がある。存在したはずの誰かの輪郭だけが抜け落ちている。


「薄められる」


 ユズが言った。言葉は乾いているが、瞳孔がわずかに揺れた。ユズにも、薄められた経験があるのかもしれない。自分自身か、誰かか。監査官の正しさは、たいてい痛みの上に立っている。


「二重化は“矛盾”だ。矛盾を解消するために、どちらかを採用しないといけない。その採用が“薄める”になる」


 所長は言った。「未来予算が枯れていると、採用の幅が狭い。幅が狭いほど、薄める処理は強くなる」


 ソウタが机の縁を握った。「つまり……中心部ほど、人が消えやすい」


「消えたと感じる者は増える。だが統計は整う」


 所長は事務的に言った。統計が整うことの恐ろしさは、現場の胃袋を持つ人間にしかわからない。ソウタの顔が少し青白くなる。青白いのは皮膚の色で、あざやかな青ではない。


「牧野」


 ユズがアオを見る。「あなたの遊び位相は、その“整い”を壊す。壊した結果の事故や死を、あなたは引き受けられるんですか」


 直球だった。監査官は直球で人を殺す。優しくはない。だが嘘もない。


 アオは一拍置いた。置くことで、確信が入り込む隙を減らす。今、確信は一番の敵だ。


「引き受ける、って言葉が嫌いです」


 アオは言った。


「事故も死も、そもそも誰かが“引き受けて”済むものじゃない。だけど、薄めるのも死です。薄める死は、誰も悲しめない。誰も怒れない。誰も葬れない。——その死を、私は増やしたくない」


 ユズは口を開きかけて、閉じた。反論の言葉が見つからないのではない。反論を言うほど単純な正しさではないと、理解してしまったのだろう。理解は苦しみの入口だ。ユズは苦しみを拒むために監査官になったのに、ここで理解してしまう。


 所長が咳払いをした。「議論は後にしろ。牧野、君がやるべきはバランスの設計だ。遊び位相は理想論じゃない。運用の仕様だ。未来予算の帳尻を合わせろ」


「帳尻」


 アオは呟いた。世界の終わりを帳尻で語るのは、宇宙のジョークとして悪くない。笑えないけれど。


「どう測るんです。未来予算を」


 所長は端末をタップした。「測れる。測れる範囲だけだが。都市の矛盾密度、観測の濃度、同期の強さ、薄めの頻度。——それらの合成で予算を推定する」


 スクリーンに別の指標が出た。名称は冷たい。


FB(Future Budget)指数。


 区画ごとの数値が並ぶ。中心部は低い。周縁部は高い。ただし周縁部には赤い警告がついている。「裂け目リスク」。


 アオは理解した。余白があるほど裂けやすい。余白がないほど潰れやすい。余白は生命の条件であり、破綻の条件でもある。生と死が同じ材料でできている。


「牧野」


 所長が言う。「君の遊び位相は、FBを回復させる可能性がある。だが回復のために裂け目を増やせば本末転倒だ。——まずは周縁区画で小さく試せ。観測が薄い場所は危ないが、余白が残っている。そこなら呼吸孔が開けられる」


 ソウタが頷く。「現場は周縁のほうが……まだ人間が人間してます。中心部は、最近、怖いくらい滑らかです」


 ユズが言った。「周縁で事故が起きれば、あなたの責任です。監査は厳しくします」


 監査官の口調は宣言ではなく、気象予報のようだった。雨が降るから傘を持て、と言うのと同じ調子で、人を縛る。


 アオは深く息を吸った。吸った後に吐く。この順序が守られているだけで、少し安心する。順序は、いつだって壊れる。壊れるなら、自分で壊し方を選びたい。


「裂けないための訂正と、潰れないための不確定性」


 アオは言った。自分の言葉を、標語にしないように、歯を食いしばる。


「両立させる。——都市に“息継ぎ”を作る」


 所長は満足そうに頷いた。「いい。君の役割は、未来の帳簿係だ」


 会議が終わり、廊下に出ると、ソウタが追いついてきた。声を落とす。


「牧野。正直に言うと、あなたのやることは怖い。でも、中心部の滑らかさも怖い。どっちの怖さを選ぶかって話なら……」


「選びたくない」


「ですよね。でも選ばされる」


 ソウタは苦く笑った。胃が痛い笑いだ。


 アオはエレベータのボタンを押しながら、ふと自分の端末を見た。画面の端で、通知アイコンが点滅している。点滅は青い。都市の青だ。誰も気にしない青。


 通知のタイトルは短い。


FB:減少。


 本文はもっと短い。


中心部、呼吸停止傾向。


 アオは目を閉じた。閉じたことで、青が消えない。まぶたの裏にも青が残る。視覚ではなく判断に刺さっているからだ。


 都市は未来を前借りしている。前借りは便利だ。便利は麻薬だ。麻薬は量を増やす。増やしすぎた麻薬は、呼吸を止める。


 アオは目を開けた。


「まずは周縁だ」


 自分に言い聞かせるように呟く。周縁に呼吸孔を開ける。余白を残す。余白を残しすぎない。揺れを飼いならす。


 矛盾した命令を、矛盾したまま運用に落とし込む。


それが、未来予算の仕事だった。




登場人物その4


結城ソウタ(ゆうき・そうた)|都市運用局の実務官/現場の胃袋


役割:都市インフラの責任者側。アオを“危険な天才”として監視しつつ、現場の被害を見て協力せざるを得なくなる。


欲望:明日の事故ゼロ、明日の苦情ゼロ。


弱点:短期成果に寄りやすい(政治の速度で動く)。


関係:アオのブレーキ役であり、時にアクセル役。

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