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第三十章 ハルの劣化


 宿直室の薄いカーテン越しに、運用局の灯りが滲んでいた。

 滲みは街の呼吸のはずなのに、今日は滲みが薄い。

 薄い滲みは、薄い現実だ。



 ハルは部屋に入った瞬間、息を止めた。


 椅子に、アオがいた。

 ——いた、ように見えた。


「……いま、私、ちょっとバグってる?」


 ハルは笑おうとした。笑いは出た。出たけれど、音が半拍遅れる。


「ハルの、劣化……」


 言いながら、ハルはアオを見た。


 椅子に座って、両手を膝に乗せている。

 輪郭は人間の形をしているのに、重さがない。

 影が、机の脚の下に落ちない。

 それでも声だけは、あの短さで言える。


「……劣化、って言うな」


 アオはそれだけ言った。


 怒らない。慰めない。正すだけ。


 正す言葉が短いから、ハルは助かる。

 長い優しさは編集になる。

 短い正しさは、まだ人間の手触りがある。


 ハルは肩をすくめて、冗談みたいに言った。


「じゃあ、薄まりの進行。……進行中の私」


 アオは返事をしなかった。返事をしない代わりに、机の端のメモ帳に手を置いた。紙の上に手を置くだけで、紙が“採用される場所”になる。


 アオがそこに居るだけで、ハルは思い出せる。


 この世界は、まだ勝手に完璧になっていない。


 完璧じゃないなら、失敗は設計できる。


 アオがゆっくり瞬きをした。瞬きが一拍遅れる。遅れは余白だ。余白がまだここにある。


 ハルは笑いそうになって、やめた。

 笑いは武器だ。だが武器は、使うと減る。減ったものは戻らない。戻らない、という言い方が、いまは怖い。


「じゃあ、なんて言えばいい」


 言い返したはずなのに、自分の声が自分の耳に届くのが少し遅れた。遅れは余白だ、と言い切れた時期があった。いまは遅れが、薄まりの予兆に聞こえる。


 椅子のアオ——アオみたいなもの——は、瞬きをしない。

 瞬きをしない目は、生きていない。

 生きていないのに、見られている感じがある。

 見られている感じだけが残る。

 残るものの選び方が、この街は上手すぎる。


「……薄くなる、って言え」


 アオが言った。声は抑揚が少ない。抑揚が少ないのは、編集された声だ。でも、この声は編集の優しさじゃない。刃の短さだ。余計な慰めを切って、必要な言葉だけを残す短さ。


 ハルは頷こうとして、途中で首が止まった。止まったことに気づくのが遅い。遅れが、重なる。重なる遅れは、もう余白じゃない。


「……薄くなる。うん。薄くなる」


 ハルは自分の舌先に小さな痛みを感じた。噛んだわけじゃない。痛みが、あとから来る。あとから来る痛みは、まだ自分の身体が勝手に完璧になっていない証拠だ。証拠なのに、安心に変わらない。安心できないのがいちばん怖い。


 机の上には紙束があった。

 ミナが運んできた“採用されない記録”の残り。油性ペンの字。震える線。紙の角についた汚れ。汚れは生活の色だ。生活の色があるところにだけ、アオが引っかかっているように見える。


 ハルは紙束を見て、やっと理解した。


 アオは戻っていない。

 戻っていないのに、ここにいる。


 ここにいるのは、体じゃない。選択の癖だ。言い方を正す癖だ。危険を見逃さない癖だ。——人間が人間であるための、面倒な部分だけ。


「……ねえ」


 ハルは、なるべく軽く言った。軽さは防具だ。防具はすり減る。


「私、さっき——誰かに会った」


 アオの目が動いた。動きが遅い。遅いのに、見ている。見ている感じが、胸の奥を冷やす。


「誰」


「ミナに会った。ユズにも会った。あと……集会所の人たち」


 言いながら、ハルは自分の記憶の並びが少し変だと気づく。順序が滑っている。滑りは裂け目の入口だ。裂け目は二重化を呼ぶ。二重化は薄まりを呼ぶ。


「そのとき」


 ハルは言い淀んだ。


「そのとき、私、喋ったんだよ。ちゃんと。私の言葉で。……なのに、いま思い出そうとすると、言葉の中身が抜けてる」


 抜ける。抜けたところだけが、白い。白い穴は、呼吸孔じゃない。呼吸孔は生きる穴だ。白い穴は消える穴だ。


「代わりにさ」


 ハルは、自分の胸のあたりを指で叩いた。


「代わりに、“向こう”に残ってる気がする」


「向こう」


 アオが繰り返した。


「会った人の中」


 ハルは言った。言い切ってから、笑ってしまいそうになった。あまりに馬鹿みたいだ。会った人の中に欠片が残るなんて。ロマンチックな表現みたいで、吐き気がする。


 でもそれは、ロマンじゃない。症状だ。


「私の欠片が、配布されてる」


 ハルは言った。


 配布。

 その単語は、この街で一番危険だ。配布された安心が人を薄めるように、配布された“ハル”がハルを薄める。


「……それで、私は保たれてる」


 ハルは続けた。


「保たれてるっていうのも変だけど。私が私の形を保つ代わりに、私の輪郭とか記憶とか……“私の私っぽさ”が、会った人に残っていく」


 言葉にした瞬間、背筋がぞわっとした。


 配布された欠片が、相手の中で“採用”される。

 採用されると、相手の現実の一部になる。

 現実の一部になると、消えにくい。

 消えにくい代わりに——本人が消える。


 ハルは自分の手を見た。指先が、昨日より少し透明だ。透明というより、均一だ。均一は白い。白い指は、誰の指でもいい指だ。誰の指でもいい指は、名前を持てない。


「私、今日さ」


 ハルは笑いを混ぜようとして失敗した。声が乾く。乾く声は、薄い。


「三回、自分の名前を言いかけて、言えなかった」


 アオが言った。


「……呼べる」


 ハルは首を振った。


「呼ばれるのは、いける。呼ばれるのは、相手の欠片が私の中に戻ってくるから」


 言いながら、ハルは自分でも怖くなった。相手の欠片。相手の中に残った自分。戻ってくる自分。——それはもう、“私”じゃない。相互干渉だ。干渉はノードの栄養だ。栄養が増えるほど、ノードは持続する。


 つまり。


 ハルの劣化は、ノードの都合のいい生存形態だ。


「余白の器」


 ハルは呟いた。


 青い停電の終幕、アオひとりが選んだ言葉だ。誤りの核を消すのではなく、余白の器にする。犠牲を拒否して、代わりに自分を差し出すような選択。


 器の美しさが、いまは残酷なアズールの縫い目に見える。


「器ってさ」


 ハルは言った。冗談のふりをする。ふりは余白だ。余白がある限り、まだ抵抗できる。


「中身、減るんだね」


 アオは答えない。答えない代わりに、紙束の端を押さえた。押さえる手があるように見える。あるように見えるだけで、紙が少しだけ落ち着く。落ち着くのが怖い。落ち着きは編集だ。でも、これは編集の落ち着きじゃない。紙の重さの落ち着きだ。


「……残るなら」


 アオが言った。


「残り方を選べ」


 短い言葉だった。短いから、刺さる。


 ハルは、笑ってしまいそうになった。残り方を選べ。人間が消えるときに、選べる余地なんてあるのか。あるなら、アオがこんなことになっていない。


 でも——選べる余地を作るのが、余白だ。


 ハルは息を吸った。吸って、吐いた。吐く息をわざと乱した。乱れは余白だ。余白がある限り、薄まりは完成しない。


「じゃあ、条件を決める」


 ハルは言った。


「私の欠片が配布される相手を、無作為にしない。……誰でもいい状態にしない。誰でもいい状態は白い」


 言い切った瞬間、舌の奥が冷えた。冷えが遅れて来る。遅れは余白だ。余白があるから、恐怖がちゃんと届く。


「でも、それって」


 ハルは続けた。


「配る相手を選ぶってことだよね」


 選ぶ。

 選ぶという単語が、重い。


 誰を残すか、誰を残さないか。

 薄めないために、薄める対象を決める。

 白がやってきたことと、同じ形になる危険。


 アオが、ほんの少しだけ顔を上げた。


 影が落ちない顔。

 重さがない輪郭。


 それでも、その声は短く言った。


「……同じじゃない」


 ハルは聞き返す。


「どこが」


「選ぶ理由が、違う」


 アオは言った。


「白は、効率で選ぶ。

 君は……呼吸で選べ」


 呼吸で選ぶ。


 そんな選び方があるのか。あるなら、それは世界の再設計だ。世界の再設計は危険だ。危険だから、必要だ。


「ねえ、アオ」


 ハルは言った。


「私、今日誰かに会ったとき——その人が、私の言い方を真似した気がした」


 真似。


 それは配布の証拠だ。欠片が相手に残っている。


「それが、ちょっと嬉しかった」


 嬉しさが出る。嬉しさが出るだけで救われるのが、おかしい。救われるのがおかしいのに、救われる。救われると削られる。——わかってるのに。


「でも、同時に怖かった」


 ハルは言った。


「嬉しいって思った瞬間に、私の中の私が、ひとつ減った気がした」


 アオは、そこにいる。

 ——いた、ように見える。


 そして短く言った。


「……だから、笑うな」


 ハルは目を見開いた。


「え、そこ?」


「笑いは配布される」


 アオが言う。短い。刃だ。


 ハルは、笑えなくなってしまった。笑えなくなるのが怖い。笑いが止まると、劣化が進む気がする。


 だが、笑いを止めた分だけ、ハルは自分の輪郭を少しだけ握れた気がした。


 輪郭が握れる。握れるのが嬉しい。嬉しいのが怖い。


 ハルは、紙束の端に指を置いた。紙の汚れが指に移る。汚れは余白だ。余白がある限り、まだここに居られる。


 廊下の向こうで、警報灯が一瞬だけ青く瞬いた。


 青い光。


 誰も気にしない青。


 でもハルには、それが自分の縁に走る細い光に見えた。


 縁がほどける音は、助けのふりをして——今度は“配布”という名の優しさで、こちらの名前を削り始めていた。




 紙束の端に置いた指先が、汚れを拾った。汚れは現場の証拠だ。証拠は白を汚す。汚れた指先を見ると、ハルは少しだけ安心しそうになって、すぐにやめた。安心は配布される。配布された安心は、削る。


 端末は伏せたままでも、震え続けている。均一な通知音が、床下から響いてくるみたいに感じる。運用局の建物そのものが鳴っている。鳴る建物は、呼吸じゃなく警報だ。


 ハルは言った。


「ねえ、私の欠片って……戻せるの?」


 口にしてから、自分の質問がいかにも“助かりたい”質問で嫌になった。助かりたいのは当然だ。けれど助かりたいと願うほど、都市は先回りして「助かったこと」にする。


 椅子のアオは、すぐには答えなかった。瞬きがない。呼吸が見えない。それでも沈黙には、あの癖があった。言葉を選ぶための抵抗。短い正しさを残すための切り詰め。


「……戻すな」


 アオが言った。


 ハルは眉をひそめた。


「え?」


「戻すと、採用される」


 短い。だが重い。


 戻す。採用。

 その二つが同じ線上にあることを、ハルはもう理解している。欠片が相手に残るのは、相手の現実がそれを採用したからだ。採用されたものは消えにくい。消えにくい代わりに、本人が薄くなる。


 つまり——戻すとは、採用をひっくり返すことだ。ひっくり返すと、相手の現実が裂ける。裂けると連鎖する。


 アオの声が続く。


「君が薄いのは、君が“器”だからじゃない」


 ハルは息を止めた。

 器じゃない。なら何だ。


「……君が配ってるからだ」


 ハルは笑う代わりに、舌で口の中を確かめた。乾いている。乾きは薄さの証拠だ。


「じゃあさ」


 ハルはなるべく軽く言った。軽さは防具だ。


「配るの、やめればいい」


 その瞬間、自分の胸の奥がひくついた。引きつった言葉が幼い。言葉が正しすぎる。正しすぎると白い。白い正しさは人を殺す。


 アオは、首を振らなかった。頷きもしない。影が落ちないのに、否定でも肯定でもない“重さ”だけが残る。


「……もう、出てる」


 アオが言った。


 もう出てる。


 ハルは自分の腕を見る。透け方が均一になっている。均一は白い。白い腕は、誰の腕でもいい腕だ。


 廊下の向こうで、足音がした。複数。揃っている。揃った足音は白い。


 伏せたまま光っている端末の、画面の端から漏れる光が白い。白い文字が、こちらの呼吸を奪う。


 ハルは端末を手で覆った。覆うと、手の輪郭がさらに薄く見える。薄く見えるというより、薄くなっている。視覚の問題じゃない。現実の採用が変わっている。


「……来る」


 ハルが言うと、椅子のアオが短く返した。


「来る」


 同じ言葉。違う重さ。重さが違うのが怖い。怖いのに、少しだけ救いがある。重さが違うということは、まだ世界が均一になっていない。


 ドアがノックされた。ノックが丁寧すぎる。丁寧は刃だ。


「黒川班長。現場の状況確認です」


 男の声。運用局の声。均一な声。


 ハルの背中が冷えた。冷え方が遅れて来る。遅れは余白だ。余白があるから、間に合うかもしれない。


 ハルは机の紙束を見た。紙。採用されない記録。紙がある場所でだけ、アオの残響が立ち上がる。なら——紙を失えば、アオは消える。紙を守れば、アオは残る。


 ハルは、突然わかった。


 自分も同じだ。


 自分は“余白の器”として、欠片を配って存在を保っている。なら配布を止めた瞬間に、消える。消えないために配っている。配るために消えている。矛盾だ。矛盾は裂け目を呼ぶ。裂け目は政治を呼ぶ。


 ノックがもう一度。


「黒川班長」


 声が少し硬くなった。硬さが増えると白い。


 ハルは立ち上がった。足音が小さい。小さすぎる。足音がないのは薄い証拠だ。薄い証拠が重なっていく。


「ユズだ」


 ハルは言った。


 アオの残響は短く言った。


「……違う。鍵だ」


 鍵。


 その単語が、ハルの腹を冷やした。鍵は開けるための道具に見せかけて、閉めるための道具だ。監査キーは採用を確定する。確定は暴力だ。暴力は白い。


 ハルは自分の喉を押さえた。喉の奥に、出したい名前がある。出したいのに、形にならない。形にならないのに、音だけが漏れる。


「……ユ」


 音が出た瞬間、胸の奥が軽くなった。軽くなるのが怖い。軽さは薄まりだ。


 ——でも。


 その音が、誰かの中に落ちる感覚がした。


 廊下の向こうで、誰かが小さく息を呑む気配。気配だけが届く。気配が届くのは、欠片が届いているからだ。届いているから、ハルはここに居られる。


 ハルは気づく。


 自分の欠片は、すでに運用局の中にも散っている。


 散っているということは——

 この場を監査で潰しても、欠片は別の誰かの中で残る。


 残るのは救いだ。

 残るのは呪いだ。


 ハルは紙束を一枚抜き取った。ミナの字がある。震える字。名前の穴を埋めようとする字。


 ハルはその紙の裏に、ペンでひとことだけ書いた。


 「配布を止めるな。配布の仕方を選べ」


 書いた瞬間、指先がさらに薄くなった。書くという行為は採用を呼ぶ。採用されない紙で書くのに、自分の輪郭が削られる。輪郭は、書くたびに配られていく。


 ノックが三度目。もう丁寧じゃない。白が顔を出す。


「開けます」


 ドアノブが回った。


 その瞬間、椅子のアオの輪郭が、ふっと薄くなった。紙の上から影が離れるみたいに。影が離れると、部屋が急に広くなる。広い部屋は怖い。怖い広さは、薄まりの広さだ。


 ハルは息を吸って、吐いた。吐く息をわざと乱した。乱れは余白だ。余白がある限り、まだ抵抗できる。


 ドアが開く。


 入ってきたのはユズだった。黒いコート。疲れた目。目の奥のひび。ひびは余白だ。余白がある限り、彼女はまだ白じゃない。


 ユズは部屋に入った瞬間、目を細めた。


 椅子を見た。

 そこに——誰もいない。


 ハルの心臓が一拍遅れた。遅れは余白だ。余白があるから、絶望がちゃんと来る。


 ユズの視線が紙束へ落ちる。紙の上のひとことに、目が止まる。


 ユズの喉がきしんだ。喉のきしみは記憶のきしみだ。彼女の中で、何かが採用されかけている。


「……これは、誰が」


 その瞬間、椅子の脚の下に落ちるはずの影が、ほんの一拍だけ“濃く”なった。

 影はそこにある。けれど、支える重さがない。

 それでも声だけが——短く言えた。


「……戻ってない。

 なのに呼ばれる。

 紙の上から」


「……誰?」


 ユズが言った。


 ハルは笑わなかった。笑いは配布される。配布される笑いは、さらに自分を薄くする。


 だから、真顔で言った。


「私」


 言った瞬間、ユズの目の奥で、ほんの少しだけ光が揺れた。青い光じゃない。白い光でもない。


 ——迷いの光だった。


 そしてその迷いが、配布の代償の扉を開ける。


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