第十四章 監査官の真実
ユズは、眠るときも時計を見ている。
見ているというより、耳が時間を聞いている。秒針の音がない時計でも、音がする気がする。音がする気がするのは、身体がまだあの日の続きを生きているからだ。
監査官の部屋は整っている。整っているというより、散らからないように設計されている。紙はない。写真もない。飾りもない。余計なものがあると、そこに“曖昧さ”が生まれる。曖昧さは事故の母だ。ユズはそれを信仰のように身体に刻んでいる。
端末の画面には、今日の監査ログが並んでいた。観測点増設の稼働率、未確定閾値の変更履歴、隔離処理の回数、顔認証エラーの増加。数字は整っている。整っているのに、胸が重い。整っているほど胸が重い。矛盾だ。矛盾は、ユズの辞書には載っていないはずだった。
机の引き出しを開けると、小さなメモリチップが一つ入っている。監査官が私物を引き出しに入れるのは規定違反だ。規定違反だが、規定の外に置かないと、これは消えてしまう。消えることを許せないものがある。ユズにも。
チップのラベルには、手書きで日付がある。
——2018/11/07
古い。だが古いからこそ、いまも湿っている。
ユズはチップを端末に挿し、再生した。画面に映るのは、監査室の監視カメラ映像。白い壁、白い机、白い照明。白い部屋の中で、若いユズが椅子に座っている。今より少し柔らかい顔。柔らかい顔のまま、硬い仕事をしている。映像の端に、警報が点滅する。
《観測点:死角 検知》
《未確定ログ:閾値超過》
《順序ずれ:連続発生》
当時のユズは、警報を見て、眉をひそめる。その眉の動きが小さい。小さい動きで世界を変える。監査官は、そういう人間になりがちだ。
音声が入っている。若いユズの声は、今より少し高い。
「……現場に確認を。死角が出てる。担当、誰」
別の声が返す。男の声。ユズの同僚だった。
『今日、観測点の増設工事が入ってます。仮設運用です』
「仮設?」
『仮設です。すぐ戻します』
仮設。仮設という言葉は、都市の中では“穴”の別名だ。穴は裂け目の入口になる。穴があると事故が入る。事故は穴を探す。事故は穴に愛される。若いユズは言った。
「仮設でも、閾値は戻さないで。未確定を許容すると——」
そのとき、画面が一瞬だけ乱れた。乱れはノイズではない。世界がすべっている。順序が折れる前触れだ。
警報が重なって点滅し、音が飽和する。
《二重化兆候》
《裂け目リスク:上昇》
《隔離処理:未実行》
「隔離して!」
若いユズが叫ぶ。叫びの中に、恐怖がある。恐怖は余白だ。余白があるうちは、人は叫べる。
『隔離権限が——』
「権限なんて言ってる場合じゃない!」
若いユズが立ち上がる。立ち上がった瞬間、画面の端に青い線が走る。今のアオが見る青い縫い目と同じ青。判断に刺さる青。あの日の青。
次の瞬間、監視映像が白く飛んだ。
音が消える。光だけが残る。白い光。白化の光。
再生が止まった。止まったのではない。止まったことになった。
ユズは息を吸い、吐いた。吐くときに、喉がきしむ。喉がきしむのは、叫びがまだ身体に残っているからだ。
あの日、監査の穴があった。
観測点増設の仮設運用で、死角が生まれた。死角が生まれたところに二重化が入り、裂け目が開いた。隔離処理は権限の遅延で遅れた。遅れた結果——現場の人間が消えた。
消えた、という言葉は優しい。正確には、存在が薄くなった。薄くなって、記録から消えた。記憶から消えた。残ったのは、監査ログの空白だけだった。
その空白の向こうにいたのが、ユズの同僚だった。
同僚であり、家族みたいな人だった。家族と呼べるほど近かったのに、家族と呼ぶ前に消えた。呼ぶ前に消えたから、呼び名がない。呼び名がない喪失は、心の中でずっと名前を探し続ける。
ユズは、曖昧さを許せなくなった。
許せないのは倫理じゃない。身体だ。身体が拒否する。曖昧さがあると、胃が冷える。喉がきしむ。耳が秒針の幻聴を拾う。——曖昧さは、事故の入口に見える。
端末が震えた。通知。アオからのメッセージだった。
《裂け目体験ツアーが始まってる。観測過多で白化が進む。止めたい。監査の協力が必要だ》
ユズは画面を見つめた。協力。監査の協力。アオはユズに協力を求めている。アオは危険だ。危険だと信じたい。危険だと思えば、止める理由が明確になる。
だが——明確すぎる理由は、確信になる。
確信は白化の燃料だ。
ユズは指を止めた。止めた指が震えた。震えは余白だ。監査官にも余白が残っている。それが怖い。怖いが、救いでもある。
アオの理屈は正しい。
監査を強めるほど干渉が潰れる。干渉が潰れるほど訂正が強まる。訂正が強まるほど白化が進む。——その循環は、いま目の前の数字に出ている。隔離処理件数の増加。顔認証エラーの増加。薄められる人の増加。
ユズが守ってきた“安全”が、別の安全を殺している。
ユズは、自分の引き出しの中のチップを見た。あの日の白い光。あの日の空白。あの日の喉のきしみ。
あの日以来、ユズは迷わないようにしてきた。
迷うと遅れる。遅れると死ぬ。死ぬと、消える。消えると、名前がなくなる。
だから迷わない。迷わないことが、ユズの祈りだった。
でもいま、その祈りが白化を呼ぶかもしれない。
呼ぶかもしれない、という“かもしれない”が、ユズの胸を締め付けた。
ユズは端末に返信を書きかけて、消した。書きかけて、消した。書いては消す。その動作が、ユズの人生で一番久しぶりのことだった。書いては消すのは迷いだ。迷いは悪だと信じてきた。なのに迷いがいま、呼吸みたいに必要に思える。
ユズは自分の手を見た。手は震えていない。震えていないのに、心が震える。心だけが震えるのは、身体の信仰が揺れている証拠だ。
画面の隅で、監査ログのグラフが更新された。白化指数が、ほんのわずか上がる。上がるのは数字だ。だが数字が上がると、人が薄くなる。
ユズは目を閉じた。閉じても白い光が浮かぶ。白い光の中に、青い縫い目が混じる。青が白に飲まれる前の色。
ユズは、初めて自分に言った。
——もし、正しさが間違いを呼ぶなら。
——私は、どこで迷えばいい。
その問いは、監査官にとって最大の禁忌だった。
禁忌を口にした瞬間、ユズは少しだけ息ができた。
そして同時に、怖くなった。
息ができることが怖い世界に、ユズは今いる。




