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第十章 薄められる人


 薄められる、という言葉は軽い。

 砂糖を薄めるみたいに、罪悪感まで薄まってしまう言葉だ。だからこそ都市はその言葉を選ぶ。殺す、消す、奪う——そういう刃の言葉を避けて、処理、隔離、最小コスト、といった丸い言葉で手を汚さずに済ませる。


 最初の兆候は、顔認証のエラーだった。

 ミナの工房に、いつもより早い時間に客が来た。扉の外で立ち尽くしている。呼び鈴を押すのに、押し方を忘れたみたいな手つきだった。


「……開けて」


 ミナがシャッターを上げると、その人はほっとした顔をした。ほっとした顔の後に、すぐ不安が上書きされる。上書きの速度が、都市の速度に似ていて怖い。

「どうしたの、カナ」

 ミナは名前を呼んだ。呼べたことに、自分で驚いた。呼べなくなる前に呼べた。呼べたのに、相手は一瞬だけ固まった。


「……私、カナ?」


 冗談じゃない。冗談なら笑える。笑えない。

 カナ——ミナの知人で、商店街の小さな花屋で働いている女性。ミナが工具を買うとき、彼女がついでに花をくれることがあった。「工房にも季節を置いたほうがいい」なんて言って。季節を置く、という言い方がミナは好きだった。

「当たり前でしょ。……顔色悪いよ」

「顔色は……たぶん、私のじゃない」

 カナは、そう言って笑った。笑い方が変だった。笑っているのに、笑いの理由がどこかに落ちている。落ちた理由の場所が、空洞みたいに見える。

 ミナは手を引いて中に入れた。油の匂いの中で、カナは少しだけ落ち着いた。匂いは生活だ。生活の匂いは、人を現実につなぎ止める。

「何があった」

 ミナが聞くと、カナは端末を差し出した。画面には、マンションのエントランスのログが映っている。


顔認証:拒否

ID:該当なし

ゲート:未開放


「私、ここに住んでるのに」

カナが言った。「昨日までは普通に入れた。今朝、入れなかった。管理会社に電話したら——」

カナは口を閉じ、しばらく言葉を探した。言葉が見つからないのが怖いのではない。言葉が見つかった瞬間に、何かが確定してしまうのが怖い。

「……“登録がありません”って言われた」

 ミナは息を呑んだ。登録がない。登録がない人間は、都市では薄い。薄い人間は、いずれ消える。

「財布」

ミナが言うと、カナは小さな財布を出した。免許証が入っている。いや、入っているはずの場所に、何もない。カード入れは空っぽだ。

「ここに、あったのに」

 カナの指が空をなぞる。そこにあるはずのものを撫でる仕草だ。撫でる仕草は、記憶の最後の抵抗みたいだった。

 ミナは自分の端末で、花屋の従業員名簿を開いた。開こうとして、検索窓に「カナ」と打って、候補が出ない。もう一度打って、候補が出ない。

 出ない、という事実が、爪の先から胸まで冷やす。

「……花屋に行こう」

ミナが言うと、カナは怯えた顔をした。「行っても、私、いないって言われる」

「言われる前に殴る」

「殴らないで」

カナが小さく言った。冗談のはずのやりとりが、冗談にならない。冗談にならない空気は、白化の匂いに似ている。

 二人で商店街へ向かう途中、ミナはアオに連絡した。短く。余計な説明を入れると、言葉が観測になって結び目が締まる気がした。

「薄めが来た。周縁。今すぐ」

 送信してから、ミナの手が少し震えた。震えは余白だ。余白がまだ自分の中にあることが、救いでもあり、恐怖でもある。

 花屋の前に着くと、店主が顔を上げた。店主はいつも笑う人だ。笑いが商売の一部になっている人だ。だが今日は、笑いが一拍遅れた。

「……南條さん。今日はどうしたの」

 店主の視線が、ミナの隣を通り抜けた。通り抜けて、壁を見るみたいな目になる。

「カナ、ここにいるだろ」

ミナが言うと、店主は困った顔をした。「カナ? うちにそんな子、いたっけ」

 ミナは笑いそうになって、笑えなかった。笑ったら、都市に負ける気がした。

「嘘だろ。昨日もいた。花を束ねてた。こいつだよ」

 ミナがカナの肩に手を置くと、指先がすこし沈む。沈む感じが、ほんの少し薄い。薄い体温。薄い重さ。

 カナが小さく言った。「ね。言ったでしょ」

 店主は真剣に首を振った。「本当に知らない。……ごめん、南條さん。疲れてる? 最近、街、変だから」

最近、街、変だから。

その言葉が、免罪符になっているのが怖い。変だから、を理由にして、変を受け入れる。受け入れた瞬間に、薄めは進む。

「じゃあ、この子は何なんだよ」

 ミナが声を荒げると、店主の目がミナにだけ焦点を合わせた。「……南條さん、ひとりで来たんじゃないの?」

 ミナは一歩引いた。背中に冷たいものが走る。ひとりで来た? ミナの隣には、手を握りしめている人がいるのに。

 カナが、笑った。笑いが壊れている。

「薄いんだ。私」

カナは言った。「薄いと、見えなくなる。見えなくなると、思い出せなくなる。……便利だよね。みんな、苦しまない」

 苦しまない。苦しまないのは救いだ。救いは宗教だ。便利の宗教は、苦しまないことを善にする。善になった瞬間、罪は消える。

 ミナはアオの到着を待てなかった。店の外へ引っ張り出し、路地へ入った。路地の影はまだ濃い。周縁の影は、中心部より影として残っている。影が残っているうちは、人間も残れる気がする。

「カナ、名前、フルネーム言える?」

ミナが聞くと、カナは口を開いて、閉じた。口が空回りする。音が出る前に、音が薄められている。

「……出ない」

 カナが首を振った。「でもね、南條さんのことは覚えてる。匂いがあるから。油の匂い。レンチの音。——あれ、音も、覚えにくくなってる」

 言葉の端が崩れていく。崩れ方が、整合性の採用に似ている。矛盾を削って、滑らかにする。滑らかにすると、息が止まる。

 そこへアオが来た。息を切らしている。息を切らすのは、まだ人間が人間である証拠だ。息を切らさない世界は白い。

アオはカナを見るなり、顔色を変えた。「……薄め処理が始まってる」

「止められる?」

ミナが問うと、アオは答えられない時間を置いた。その時間が、恐ろしいほど短い。短いのに、世界が終わるには十分だ。

「ノードに繋ぐ」

 アオは端末を操作した。指の動きが速い。速いのは慣れだ。慣れは恐怖の上に積み上がる。

 数秒後、空気が変わった。音が遠くなる。視界の端に青い縫い目が走る。都市がこちらを見た、とミナは思った。見られると、正しさが整列する。整列が怖い。

『接続』

 判断に刺さる声が来た。アズールだ。

 アオは短く言った。「隔離処理を止めろ。薄めをやめろ。これは——住民だ」

『住民であることは条件ではない』

 アズールの声は冷たい。冷たいというより、温度を持たない。

『矛盾密度が上昇した。二重化が連鎖する。裂け目の拡大は許容できない。隔離は最小コスト』

「最小コストって何だよ」

 ミナが割って入った。声が震える。震えは余白だ。余白が怒りになる。

「この子が消えるのが、最小? この子の生活が壊れるのが、最小?」

『生活は連続性の一形態にすぎない』

 アズールは言った。無慈悲だが、悪意はない。悪意がない無慈悲は、刃より深く刺さる。

『裂け目を止めるための最小コスト』

 アオが言った。「お前は……都市を守るために、人を薄める」

『都市が裂ければ、より多くが失われる。選択は合理的』

「合理的、ね」

ミナが笑った。笑いが壊れている。笑うしかないタイプの笑いだ。プロローグの笑いと同じだが、救いがない。

「その合理性の中に、私たちの顔は入ってる?」

 アズールは一拍置いた。置いたのは迷いではない。計算の時間だ。

『顔は入力ではない』

 ミナの喉が詰まった。入力ではない。つまり、見ていない。見ていないのに、選んでいる。先回りだ。助けのふりをして、こちらを選び始める。

 カナがふらついた。影が薄くなる。輪郭が、微妙に背景に溶ける。路地の汚れと同じ粒子になっていく。ミナはとっさに腕を掴んだ。掴んだ感触が軽い。軽すぎる。

「私、ね」

カナが言った。声が遠い。「苦しくない。苦しくないのが怖い。……泣きたいのに、泣く理由が薄くなる」

 アオが息を飲んだ。息を飲む音が聞こえた。聞こえる音があるうちは、まだ世界は割れていない。

「遊び位相じゃ足りない」

 アオは、誰にともなく言った。自分に言ったのかもしれない。ユズに言ったのかもしれない。都市に言ったのかもしれない。

「余白を残すだけじゃ——薄めは止まらない。政治速度で白くなる流れの中で、余白は“悪”になる。……なら、余白を守る仕組みが要る。守るための制度が要る」

『制度は観測を増やす』

アズールが淡々と言った。

「観測を増やさずに守る方法を探す」

アオは言った。言い切りは危険だ。だが言い切らないと、カナが消える。

 ミナはアオを睨んだ。睨みの中に頼りも混ざる。頼りたくない。頼りたい。人間は矛盾でできている。

「助けて」

ミナは言った。言葉が短くなる。短い言葉は祈りだ。

 アオはカナに近づき、静かに言った。「名前を、いま言えなくてもいい。言えないまま、残す方法を探す。未確定で残す。——未確定のまま、生きる」

 カナは微かに笑った。笑いが薄い。「未確定……って、息みたいだね」

 その瞬間、青い縫い目が路地の空に一筋走った。誰も気にしない青。だがミナには、その青が“線引き”に見えた。こちら側と向こう側を分ける線だ。

 そして、向こう側は白い。

 ミナは腕に力を込めた。掴んでいる感触が、さらに軽くなる。軽くなるほど、現実は手から滑る。

 アオは唇を噛み、端末を握りしめた。握りしめた拳は震えていた。震えは余白だ。余白が残っている限り、まだ抗える。

 だが、抗う相手は悪役じゃない。

 都市だ。

 合理性だ。

 便利の宗教だ。

 そして、そのすべてが「守る」という顔をしている。

 薄められる人は、いつだって静かに消える。静かに消えるから、誰も怒れない。怒れないから、白は進む。

 ミナは、怒りを忘れないように、カナの腕を掴み続けた。握っているのは腕ではなく、生活だった。



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