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プロローグ 先回りの街

「完全な正しさ=無意味」


「自由はノイズで守られる」


「都市インフラが“意味”を設計し始めたら、人間はどこに逃げる?」


 直したはずのものが、直っていないふりをする。


 ミナはそういう相手には慣れている。ネジは締めたのに緩むし、ヒューズは替えたのに飛ぶし、昨日まで元気だった冷蔵庫が今朝いきなり「死んだ」みたいな顔をする。機械ってのは、だいたい演技派だ。


 でも最近は、演技派は機械だけじゃない。


 街が演技をし始めた。


 ——いや、演技じゃない。もっと悪い。先回りだ。


 先回りされると、人は怒る暇がない。怒る暇がないまま便利になって、助かって、気持ち悪くなる。気持ち悪さは大事だ。身体が「それ、違う」と言っている。胃袋のほうが頭より賢いことがある。


 朝、工房のシャッターを半分だけ開ける。風が入って、油の匂いと外の匂いが混ざる。その混ざり方で一日が決まる。ミナはそういう雑なセンサーで生きている。


 今日は匂いが薄かった。薄いというか、整っている。整いすぎている。


「やだな」


 声に出した瞬間、工具箱の奥でレンチがカチンと鳴った。返事みたいで腹が立つ。レンチは悪くない。


 午前中の仕事は集合住宅の共用扉だった。最近この区画、共用扉の依頼が妙に多い。鍵が回らないとか、閉まらないとか、そういう普通のやつ…… のはずが、最近は言い方が変だ。


「閉まったまま開くんです」


 最初に聞いたとき、ミナは吹き出した。閉まってるのに開くって何だよ。閉まってないってことだろ——と言いかけて、相手の目を見て笑えなくなった。冗談の目じゃない。真剣に困っている。


 現場に着いて、扉を見て、鍵穴を見て、ミナはいつも通りまず触った。金属の冷たさで嘘がわかる。嘘をつく金属は、だいたい熱を持つ。


 鍵は冷たかった。冷たすぎるくらい。


「これです」


 住民が鍵束を出す。鍵が二本…… いや、三本? どれも同じメーカー、同じ刻印、同じ傷。つけた覚えのない傷まで同じだった。


「ちょっと待って」


 ミナは鍵を受け取り、一本ずつ机に並べた。並べた瞬間、笑いがこみ上げる。笑うしかない。鍵が増えてる。増えてるものを前に、ちゃんとした顔をするのは難しい。


「…… いや、すみません。笑ってる場合じゃないですね」


 住民は笑っていない。ミナだけが笑っている。現場でいちばん嫌いなやつだ。困っている人の前で、自分だけ笑ってしまう。


 でも、笑いは怖いときに出る。怖さをごまかすために出る。


 鍵を一本、扉に差す。回る。開く。抜く。次の鍵を差す。回る。開く。抜く。


 三本とも、同じ手応えだった。どれも“本物”の手応え。


「どれが元の鍵か、覚えてます?」


「…… 覚えてないです」


 住民の声が小さくなる。覚えてないのが悪いんじゃない。覚えていられないのが怖い。


 ミナは工具を出しながら言った。


「鍵穴のほう、見ましょう。鍵が増えたってことは、鍵穴が嘘ついてる可能性もあります」


 言ってから嫌になった。鍵穴が嘘つくって何だ。普段なら言わない。なのに最近は、変な言い方のほうが正確に感じる。街が、変な言い方のほうへ寄せてくる。


 作業は普通だった。摩耗、汚れ、わずかなズレ。掃除して、グリスを差して、締め直す。これで直る。直るはずだ。直るというのは、世界がまだ人間の手でいじれるということだ。


 扉は直った。


 …… 直ったはずだった。


 帰り道、ミナは財布を工房に忘れたことに気づいた。普通なら戻る。戻らないと昼飯が食えない。


 でも戻らなかった。


 角の定食屋が、顔を見るなり言った。


「南條さん、今日はツケでいいよ」


 ツケなんて嫌いだ。借りが嫌いだ。借りは返すまで気持ち悪い。だから嫌いだ。


 なのに言い返す前に、「あ、じゃあ……ありがとう」と口が動いた。店主が笑って、ミナも笑って、話が終わった。終わったことになった。


 箸を持ちながら、胃が冷えた。


 助かったのに、気持ち悪い。便利なのに、怖い。


 先回りだ。


「忘れて困る」という未来を、誰かが先に潰している。困る未来が潰れると、人は安心する。安心すると、気づかなくなる。気づかなくなると——何が削られる?


 工房に戻ると、シャッターの前に新品みたいなビニール傘が立てかけてあった。誰かが置いた? 落とし物? いや、立てかけ方が綺麗すぎる。落とし物は倒れる。人の生活は倒れる。倒れない生活は、生活じゃない。


 傘に触れる。ビニールが曇っていない。指紋もない。新品の匂いもしない。匂いがない。


 胸の奥がぞわっとした。


 背後で信号が青になった。いつもの青。なのに視界の端で、青が一瞬だけ濃くなった気がした。目じゃないところで見えた。判断の奥で、青が鳴った。


 工房に入って、机の上の鍵束を見る。朝の現場で預かった鍵。三本。


 …… いや、四本?


 ミナは声を出して笑った。笑うしかない。笑いが止まらない。見てない間に、工房の机の上で、鍵が増えている。


 笑いながら涙が出た。笑ってるのに泣く。身体がバグってるみたいで、滑稽で、少し救いがある。まだ人間のバグで動けている。


 鍵を一本、指先でつまむ。金属が冷たい。冷たさが遅れて来る。その遅れが、わずかに嬉しい。


 遅れがある。ズレがある。街がまだ完璧じゃない。


 完璧じゃない街は怖い。完璧な街はもっと怖い。


 彼女は鍵を机に置いた。置いた、という行為で落ち着きたかった。修理屋は、物を置けば世界も置けると思い込みたい。


 でも机の上で、世界は置かれない。


 鍵の数を、もう一度だけ数えた。数え方を変えて。視線を外してから戻して。指先で触って確かめて。——それでも同じだった。同じであることが、いちばん気持ち悪い。増えたのに、増えた跡がない。間違えたのに、間違えた手触りがない。


 鍵を置いた。置いた瞬間、鍵の縁に細い光が走った。


 光は、青かった。


 あざやかな青。


 誰も気にしない青。


 でもミナには、それが街の縫い目に見えた。


 縫い目がほどける音は、助けのふりをして、もうこちらを選び始めていた。



登場人物その1


南條ミナ(なんじょう・みな)|路地裏の修理屋/低層から都市を見ている人


役割:ノードの“公式に届かない”影響を拾う現場の眼。白化が始まったとき一番最初に生活が壊れる側の代表。


欲望:家族(あるいは共同体)を守る、明日も飯を食う。


弱点:大局より目の前の痛みを優先せざるを得ない(だからこそ真実に近い)。


関係:アオの倫理を現実に接地させる。物語の体温担当。

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