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女のセイ

作者: 簪ゆな

 一、未洗練

 私は、福岡県の片田舎で生まれ、善家(ぜんげ)未季(みき)()という名を与えられ、育った。

『かっこいい名字だね』なんて言われるけれど、私の中での位置づけはゴキブリと一緒。はっきり言うと大嫌い。

 私が生まれた地域では、女は出ていく人という認識で、男、特に長男を祭り上げる傾向があった。うちもそうだ。男女平等なんて耳障りのいい言葉は、ここでは通用しない。   

 親戚一同の集まりがあれば男は男だけで上座に集まって、女に給仕されたものを食べる。女は給仕が終わったあと、やっと冷め切ったご飯を食べ始めるのだ。女という性に生まれたら、子どもだろうが関係ない。

 私は一年の行事の中で正月が特に嫌いだ。女は元日には家から出てはいけない。そんなの、女は訪れてくる親戚、近所の男をもてなす必要があるからだ。 

 幼稚園で、「元旦から旅行に行く」と鼻の穴を膨らまされながら自慢されたことがある。その日は家に帰ると、手も洗わずに、台所に立っている母の足に絡まった。そして、旅行に連れていけと泣き喚いたのだ。

「わがまま言ってお母さん困らせて楽しい?」

 眉間に刻まれた皺と、口から出てくる刺々しい言葉とは裏腹に、母の声には哀しさが滲んでいたと思う。

 小学校に上がり、〝善〟という感じの意味を知って以来、記名をするときは一瞬、躊躇ってしまう。

 幼い頃の私からすると、家族とは戸籍上の呼称で、シェアハウスをしているような感覚だった。

 我が家では毎朝、母は、豚のように肥えた父に跪いて、靴下をはかせる。小さいときは私がする、なんて言って、父に靴下をはかせていた時もあった。

 でも、洗脳(まほう)は解けるのだ。大きくなるにつれて私の家は、親戚は、地元は、異常なのだと気がついた。

 中学に上がると、私立に行かせるお金はないと、顔を合わせる度に言われていた。金がなければ、学をつけるしかない。男というだけで優遇されているやつらに、負けたくなかった。早く、こんな家から出たくてたまらなかった。

 高校生の頃の私は、学力よりもお金の不安が勝っていたと思う。それを煽るように、高校卒業後は、一円もお金は出さないと断言された。

 ならば奨学金を借りよう。資料を集め、申請書も書いた。でも、父は記名してくれなかった。自分の給与に対して、ある種の線引きをされたような気分になるのだろう。

 一時期、勉強する気にもなれないときがあった。何故、こんな家に生まれたのだろう。家中の物を壊してしまいたかった。今にも暴れだしそうだった。

 この家から、福岡から、九州から出たい。そんな一心で、東京の大学を受験することにした。性別によって地位を決められない、東京に行きたい。

 新年早々センター試験を受け、肩慣らしをするわけでもなく、そのまま国立大学を受験した。周囲の先生たちは無謀だと、私と親を諭してきた。しかし、私立大学の受験料も、入学一時金も、払ってもらえない。

 大学に落ちたら専門学校にでも入って、その業界で就職でもしよう、なんて考えていた。先生は中期、後期まで頑張ろうと言ってくれたが、私は精神的に摩耗していたのだ。

 大学の合否に関わらず、私は一人で生きていかなくてはならなかった。私はたぶん一生、お金という問題に背中をどつかれ続けるのだ。

 高校のパソコン室で迎えた合格発表日。合格だった。先生が自分のことのように喜んでくれたことを、覚えている。 

 当の本人は、喜びよりも、これからのことに、頭の中を支配されていた。

 入学金のこともあるから、いの一番、父に結果を報告した。父は、私のことを一瞬たりとも、見ようとはしなかった。パソコンの画面を見つめたまま、生返事が返ってくる。日常茶飯事だ。

「まぁ、入学金とか、がんばれよ」

「えっ……」

 受験料を払う際、入学金と引っ越しのお金は払うと約束していたのに。風船が萎んだような声しか出なかった。

「東京はこっちよりも最低賃金も高いし、苦学生控除で俺と違って稼ぎやすいしな」

 画面を見つめ、いやらしい笑顔を浮かべながら顎を触っている奴が、自分の父親である事実に吐き気がする。こいつは最初から、私にお金を使う気はなかったんだ。

 正式な制度の名前すら知らず、金も持ってない馬鹿が子どもを産み、世に放つことは罪ではないのだろうか。

 その日は手巻き寿司だったけれど、あまり食べる気にはならなかった。

 三月中旬に合格を祝う席が設けられた。

「さすがは将邦(まさくに)の子だ」

 父を称えるような言葉ばかり浴びた。私ではなく、本家の長男である、父の功績になった。私は、女性(わたしたち)は、透明人間なのだろうか。この日ですら私は、下座で硬くなったエビフライを食べた。

 寒さがなりを潜める頃、自分で格安の引越し屋を探し、連絡を取る。しかし、未成年とわかれば門前払い。一人で生きなくてはならないのに、一人で生きることが許されない。

 女としての自分を売るか考えた。今にも電話をかけようとした時、地獄に足らされた一本の蜘蛛の糸ように、一つの通帳の存在が明かされた。

「ここに未季穂が生まれたときからちょっとずつ貯めてたお金が入ってる」

 母から渡された通帳には、約五十万円入っていた。声を出そうとした瞬間、母の手で口を押さえられた。

「この通帳のことは、あの人は知らないから……」

 久しぶりに触れた母の手はさらっとしていて、温かかった。母と目を合わせ、軽く頷いてから自分の部屋に戻った。その日の夜、通帳を抱きしめ、枕を湿らせながら寝たことは一生忘れられない。

 これとは別に、お年玉を管理していた口座があった。そこから引越しにかかるお金を父に渡した。

 成人して契約を結ぶことができるようになるまでは、父に代わりに払ってもらう。その分は毎月、父の口座に振り込むと約束した。

 賃貸探しに関しては、運が良かった。最初は大学の寮に住むと決めていたが、居住年数の上限が決まっていることから、自分で賃貸を探すことにした。

 大学の合格書類とともに、賃貸情報が記載された大学周辺の地図が封入されていたことを思い出した。

御幸舎(みゆきしゃ)……」

 東京なのに家賃は二万五千円。しかも大学まで自転車で十五分。震える手で携帯を手繰り寄せる。どれだけボロかろうが住めば都。善は急げ。気づけば電話をかけていた。

「はいもしもしぃー」

 電話口から聞こえてくる声は男性のもので、伸ばし気味の語尾と、ゆったりとした口調が特徴的だった。

「あ、あの、四月から東京に住むことになりまして、大学からの資料で見つけまして、その、お部屋ってあいてますか?」

 早くしなくては、部屋がなくなっては意味がない。どもりながらも、捲し立てるように話してしまった。相手からの返答がなく、不躾だったから怒らせてしまったのかもしれない。

「うちぃ?うちなら空いてるよぉ。でもね――」

「住みます!」

 間髪入れずに言葉を発した。相手が話しているというのに、嬉しさから後先考えず。

 食い気味に発言してしまったことを悔いながらも、今にも駆け出しそうな気分でもあった。

「うち築四十年以上だしぃ、ワンルームの四畳半だけどいいのぉ?」

「こんなに安いのにお風呂もトイレもついてて、文句なんてないです!」

 ふわふわと、綿菓子のように柔らかい言葉に、私まで春のお日様のような空気に包まれた。

 御幸舎について詳しく聞けば聞くほど、良い点しかない。敷金、礼金、保証人はなし。家賃も毎月手渡しでよし。賃貸契約に関しては、近いうちに郵送で書類を送ってくれることになった。

 父は、詐欺の一種で、個人情報漏洩にでもなったらどうするだのと、文句ばかり溢していた。でも、私からすれば御幸舎は希望の光以外のなんでもない。

 春の兆しがかすかに感じられるようになった頃。引越しを格安業者に頼んだが故に、母とスーパーをはしごして、適当なサイズの段ボールをかき集めていた。

「お母さんはさ、なんであいつと離婚せんの?」

 段ボールと段ボールが擦れて、脇から滑り落ちそうになるのを直しながら聞いた。

「そりゃお母さんだってあの人と余生を過ごす想像はできんけど、未季穂のこともあるけ慎重に決めないけんのよ」

 自嘲気味に笑い、諦めが滲んだ母の声に、あいつへの憎悪ばかり募っていく。

 母も私と同じように段ボールを持ち直しながら、歩いていた。沈む日を背後に、二人の影が重なり合った。幼少期、日が沈むまで公園で遊ぶ私の後ろに立っていた大きな母を、今では私が見下ろしている。

 日に照らされて、母の頭の、黒に混じった白い毛が、時間の流れを主張してくる。

 私の影が動かなくなったことに気がついて、母が止まって振り返った。

「どうしたん?」

 段ボールを抱えて、すすり泣く私を母はじっと見つめた後、段ボールを置いて私を抱きしめてくれた。母に抱きしめられた記憶はあっても、どんな感触だったかなんて忘れてしまうものだ。母も、鼻をすすって泣いていた。

 人は誰かに抱きしめてもらって、やっと自分の形を認識できるのだと思う。もっと母に抱きしめてもらいたかった。もっと自分について知っていればよかった。

 でも、そうしたら、きっと、東京に行くことを選択できなかった。

 ちょっとだけ昔のことを想い出したら、母のお腹を押した。

「お母さんのおなかぷよぷよやん」

 涙を吹き飛ばすように、クスクスと笑う。

「うるさい!」

 母も笑いながら怒った。いや、ちょっとだけ悲しそうでもあった。

 母は荷物を詰める際に、ちょっとずついろんなところに食べ物を入れてくれた。そして、懐かしそうに話すのだ。

「未季穂はご飯好きやないけ、海苔巻いて食べさせよったんよ」

 いまでもこの海苔は大好きだ。

 福岡を離れる前日。母は当初、空港まで私を見送りに行くと言ったが、交通が馬鹿にならないと、父に一蹴された。

 当日、母は最寄り駅まで一緒に来てくれることになった。ぎりぎりまで寝ていたため、私たちに感動の別れなんてなく、脇目も振らず、走っていく。改札の前で封筒を押し付けるように渡された。

「なんこれ?」

 母が親戚の子に使う、ポチ袋だった。

「お母さんから。たいして入ってないけど、なんかに役立てて」

 厚みなんてないけど、このお金は絶対に使わない。使えない。

 皺にならないように、絶対に落とさないように、財布の中にしまった。母が、早く行かないと電車に間に合わないとでも言うように、私の背中をぐいぐい押してくる。その勢いで改札を通ってしまった。

 ハッとして振り返ると、段ボールを取りに行った日の私のように、恥ずかしそうに指で涙を拭う母が立っていた。

「二番ホームやけね。間違えなさんなよ」

「間違えんし!」

 むきになって言い返せば、母はため息をつくように笑った。

「ダメなお母さんでごめんね。未季穂はよう頑張ったよ!東京でもやってけるけん」

 私を鼓舞しようとしているのに、最後になるにつれて、崩れ落ちそうになっていく母。私は、母を見ることができなくなった。

「ビックになってくるわ」

 振り返らずに手だけ振って、歩くスピードを上げる。母の顔が見えなくなった途端に、寂しさが溢れてきて、ホームに小さな跡を残す。きっと時間がたてば消える。

 十八歳の春、父や一族が嫌いというだけで、私は一人で生きていくことを選んだ。


 二、曙


「レシート番号342のお客さま!」

 軽快な音楽を背後に、私の周囲では、先輩たちによる激戦が繰り広げられていた。少しでもボーっとしている時間があれば、怒られてしまう。私も、半径一メートル以内にあるものを手あたり次第ひっ掴んで、拭いていく。

 私は四月上旬に大手ハンバーガーショップのアルバイトをはじめ、小銭稼ぎに精を出している。働き始めて一ヶ月経とうとしているが、一向にカウンター以外の業務を任されない。

 一息でも付こうものなら、給料泥棒扱い。低賃金、重労働。ただ、落ち着く時間がない分、いつの間にか時計の短い針が進んでいる。

「アップの人は落ち着いたらアップして!」

 まだまだお昼時の騒がしさは落ち着きを見せない。大学生ながら、マネージャーという重役を任された人は、今日も残業だ。

「休憩行ってきまーす」と、蚊の鳴くような声で言っても、誰も返事なんてしてはくれない。お臍にはパワーが溜まっている、なんて話を聞いたことがあるが、それは本当かもしれない。お腹から声を出しすぎて、今座ったら立つことはできない気がする。

「みっちゃんも終わり?」

 はちみつみたいに柔らかくて、トロッと話しかけてくれたのは、北島すみれちゃん。

「きゅーけー」

 勢いに任せて、二酸化炭素を放出する。つけている意味があるのかわからないような、サンバイザー。

 制服は可愛いとは思う。しかし、男女でこんなにも制服が違うことには、いまだに納得いっていない。ストッキングだってタダじゃない。

 制服の上から一枚羽織るなり、着るなりして、二人で客席を通り抜ける。

「今日十一万って」

「やば」

 すみちゃんから聞いた今日の売り上げには、納得しかない。入口の外にまで列ができ、隣のレジを先輩が開けてくれた時の心強さと、自分が小さくなったかの錯覚。自分の行動や接客に関して、反省しか浮かばない。

 その点、すみちゃんは私より後に入ったのに、お客様満足度に直結する業務を任されていた。客席で、どんな人とでも打ち解けて、愛されていくすみちゃん。すみちゃんになりたいな。

「みっちゃん今日もドリンクだけなの?」

「お腹すかない?」と純粋な善意を向けてくれるすみちゃんの手には、期間限定のセットが乗ったトレーがあった。適当にごまかしながら、角のボックス席の通路側に座る。

 すみちゃんから恵んでもらったポテトを一口一口、噛みしめる。今日あったことや、大学のことをぽつぽつと話していく。

 すみちゃんはお茶の水大学、私は一橋大学。大学は離れているけど、生活圏が重なるということで生じた縁。

「今月全然入れてないから来月キツイなぁ」

 どれだけ熱中していようが、楽しかろうが、私の心の隅にはお金という二文字が存在していた。

 少しの間を開け、すみちゃんは口を開いた。

「前に言ってた授業料と入学金の減免と、猶予はどうなったの?」

 すみちゃんは口の中が空っぽにならなきゃ話さない。その空白ですら、優美さを生み出していた。


 東京に来た翌日の四月二日、入学式前にもかかわらず、クラス別面談で大学に行った。休暇期間でありながら熱心な学生たちは、図書館と思わしき建物に入っていく。自分が日本で名の知れた大学の学生となったことを実感し、背筋が伸びる。

 ちょっとした希望を抱きながら窓口を訪れた。しかし、奨学生でない私は、少々手間をかけてでしか、入学金と授業料に関する減免、猶予を申請することができないと告げられた。

 入学金は一度支払い、正式な減免対象者となれば返金される。授業料に関しては、大学が独自に設けている制度には該当するかもしれないため、申請する運びになった。しかし、結果が分かるのは前期が終わる直前である。結果が発表されるまで、授業料の支払いに猶予が設けられる。これが唯一の救いだった。


「追加の書類がいるみたいで実家に相談中」

 それ以上話さないことで、進捗がないことは十分に伝わったのであろう。

 すみちゃんはふにゃっとしたポテトを差し出してきた。長いポテトが、お辞儀をするように私に向かって倒れる。私は、顔がどんどんと緩んでいって、噴き出してしまった。

 ひとしきり話して満足した。薄まったコーラを片手に、スタッフルームに戻っていく私と、荷物が入ったトートバックを提げて駅に向かうすみちゃん。正反対な私たちは、パズルみたいにぴったりとはまった。

 学部で友達を作り損ねた私はいまだに一人で講義を受けている。新入生が集まる講義もあり、知り合いこそおれど、友人か問われたら、言葉に詰まる。出欠をとらない先生の講義では、グループ内で一人だけ出席して、ノート共有するという荒業も小耳に挟む。私には無縁だが。

 教室にもよるが、大抵前から四列目、プロジェクターと黒板の字が見やすい席を確保している。

 大学の授業といえば高尚なものと思い込んでいたが、全てがそうというわけではないらしい。

 気になって選択した講義なのに、いざ受講してみると今月のレシピを考える時間となり果てた。先生たちは一流作家のように、ドラマチックに自分たちの講義を紹介するものだ。

 ここだけ聞かれると不真面目に思われるかもしれない。しかし、貯金を切り崩してまで進学したのだから、講義で居眠りや、内容を聞き漏らしたことは一切ない。

 完璧なノートを作ることが昔から好きだった。先生の板書を正確に写し、先生の発言から推測したこと、疑問に思ったこと、講義内容をまとめることが、楽しかった。勉強しているのかと問われれば、首を縦に振ることはできないが、ある種の趣味のようなものだ。

 講義が終わり、それぞれが目的をもって動き出す。科学と宗教のことに関して気になる点があったので、先生に聞きに行くことにした。リュックをまさぐってペンと手帳を準備し、教壇上の先生に近づく。

「一回生の善家未季穂と申します。科学と、宗教に関して質問があるのですが、お時間よろしいですか?」

 そう言って教壇に上がる。頭皮に雪が積もったような頭をした先生は、一瞬眉をピクリと動かし、興味なさげに答えてくれる。ところどころ、「先ほども言った」、「高校の教科書にも」、などというセリフを挟んできたが。

 結局、お前は聞いたことすら理解できないのか、という空気を醸し出され、納得できる答えも得られず、適当にあしらわれてしまった。

 自分の知識が不足していたという事実を受け止め、教壇から降りた。荷物をまとめて教室を出ようとした私を、好意で染められた声が引きとめた。

「せんせぇーい。今日のとこ高校の授業じゃ全然わからなかったんですけど、すっごいわかったんです!」

 耳にへばりつくような甘さを含んだ声に、反射的に振り返ってしまった。ミルクティーのような淡い色の髪をふんわりと巻いた女の子は、私の斜め後ろに集団で座っていた子だった。講義中もひそひそと話し、さして面白くもないことで馬鹿みたいに共感しあっていた。

 私と似通った質問をした彼女に、先生は色を含んだ声色で講義の復習から、与太話まで始めた。教壇の下で頷き続ける彼女をいじらしく思ったのか、手招きをして自身の元まで呼び寄せた。

 私の時はニコリともしなかった男が、彼女の前では嬉々としている。彼女と私の違いはなんだ? 

 私は、許可されてもいないのに教師の聖域である教壇に踏み込んだ。

 私が教壇に足をかけたとき、思えば彼は、眉をひそめた。私がよく知る男たちの顔をした。彼のプライドに傷をつけたのだろう。それに気がついた途端、いてもたってもいられなくて、すみちゃんに会いたくなった。

 その後も、彼女と自分の比較が私の頭を支配する。こうなったらとことん考えなくては、私は他のことを考えられない。

 お風呂に入り、鏡に映る自分を見てわかった。私は、容姿という答えを導いた。

 彼女は手間暇かけて自分が一番美しく、愛らしく見えるようにコーディネイトしていた。比べて私はリップ一本すら持ち歩いていない。

 その後もその先生を観察してみた。有精卵が孵化するくらいの割合で、質問に行く学生は存在する。先生は男子学生、化粧っけのない女子学生にはそっけない態度をとる。勿論、すっぴんでも秀でた容姿や、豊かな体つきの女子学生は別だ。

 先生の残虐性に腸が煮えくり返りそうだった。でも、私はその先生と同じ目を持ったとわかったとき、その日の夜は、寝ることができなかった。

 東京では、全ての人が自分らしさを謳歌することができると、無意識に思い込んでいた。いや、自分に都合の良いところだけ切り取って、九州を、福岡を、貶したかったんだ。

 誰かに抱きしめてもらいたいとこんなに思ったことは、いままでなかった。誰かと触れ合って、私を保たせなくてはならないような気がした。

 自分から周囲の人との関係を深めないようにしているくせに、なんて都合がいいんだ。

 夜になるといろんなことが頭に浮かんできて、ぐるぐると渦を描く。自由になり、選択肢が増える。そうなると逆に、自分の型を失わないように、今までの経験で自分を縛り付けようとするとわかった。


 三、浅薄


「ならさ、旅に出てみなよ」

 恒例となりつつある、すみちゃんとの語らい。アイスクリームをスプーンですくいながら、すみちゃんは言った。私はいつものように、「お金がないから」と言おうとした。

「貧乏旅上等!修行に行く感覚でさ、格安の民泊とか、夜行バスに乗るんだよ」

 すみちゃんの瞳は、星を取り込んだ夜空みたいに、輝きだした。

「私もそんなことしたいな」

 すみちゃんはしょぼんとして、アイスクリームを持った手を下した。

 彼女はいいとこの出だった。親のお金と時間、愛を注ぎこまれた人の中でも、選ばれし者だけが入学できる学校。そんなところに、小学生のころから通っていた。

 今だって、親からは本当はバイトなんてして欲しくない、と言われているそうだ。

 実際に、すみちゃんは勤務できる曜日と時間を両親との話し合いで決めている。それ以外では入らないという約束まであるみたいだ。

「六月は学校もある程度落ちつくし、今月結構シフト入ったからいけるかも」

 本当は余裕なんてないけれど、一人で考え続けるよりも、何か良い出会いがあるのかもしれない。何より、すみちゃんの喜ぶ顔が見たかった。

 私よりも乗り気になったすみちゃんは、今度会うまでにいろいろ調べてくると、軽い足取りで帰路についた。

 休憩を終えてから、長い針が四周する頃には、太陽が姿を消そうとしていた。

「お先失礼します」

 適当にぺこぺこ頭を下げながら、スタッフルームに向かう。夜の忙しさから、ナゲットやポテトが宙を舞っているような状況にも、物珍しさはなくなった。

 冷蔵庫の中に何が入っていたのかを思い出しながら、自転車を漕ぐ。東京の舗装された道は走りやすいが、人で溢れた通りは、いまだに自転車を降りてしまう。

 太陽の余韻を感じながら、のんびり歩く。足がなかなか持ち上がらなくて、最近靴の踵の減りがはやい。

 東京の風景よりも、マンホールの違いばかり覚えている。

 背の低い建物が並ぶようになると、人通りもまばらになり、自転車に乗ることができるようになった。風を自分の身体で切る瞬間が好きだ。背中にあたる髪の感触がなくなるまで、ペダルを回す。

 黄色い布地に、赤い文字の旗を揺らす店が視界に入ると、つい立ち寄ってしまう。安くなった野菜や、ワゴンに入っている食器用洗剤を籠に入れていく。匂いなんて気にしない。「お願いします」と言ってから、籠をレジに置く。

「レジ袋おつけしますか?」

 いつも、人の良さそうな笑顔を向けてくれるイイダさんを見つけると、少しだけ呼吸がしやすくなる。

「エコバックとポイントカードあります」

 この店はエコバックを持参すると、一ポイントつけてくれる。四月からスーパー探索をしてきたかいもあり、今ではどこで何が安いか、安売りはいつか、答えられる。

 御幸舎に帰ると、小さな背中が見えた。ここ一ヶ月で見慣れた大家さんの、田渕(たぶち)さんだ。

「お疲れさん。よく働くねぇ」

 自転車のカギをかけて、田淵さんの側に寄る。

「田渕さんは何してるんですか?」

 身をかがめている田渕さんの手元を、覗き込んでみる。昨日回収されたはずのゴミだった。ゴミ袋にでかでかと貼られたシールが、嫌でも目に付く。

「ちゃんと分別せんかった人がおるみたいやねぇ」

 夕日に溶けてしまいそうな、雲のようにふんわりとした声は、東京に来た初日を想起させる――。


 四月一日。大荷物を抱えて自分の家となる場所に行った。送ってもらった賃貸契約の書類と、ハンコを握りしめて。

 あらかじめ聞いていた部屋のベルを鳴らしたが、出てきたのは、電話の声とは似ても似つかない、おばさんだった。案内されるがままに裏に回ってみると、軍手と鎌を手にしたおじさんがいた。

「あんたがみっちゃん?今日からよろしく」

 初対面からのみっちゃん呼びには、肩をすくめてしまったが、やんわりと細められた目と、刻まれた皺を見ると、なんとも言えなくなった。

「善家未季穂です。お世話になります」

 リュックを下ろして、ぎこちない笑顔とともにお辞儀をした。頭を下げたままでいるけれど、一向に声をかけられない。ちょっとだけ顔を上げて覗いてみると、田渕さんはニコニコとしたまま、こちらを見つめている。

 どうしたらよいものかと口元を引きつらせていると、背中にじんわりと、体温が伝わってきた。

「あんたもなんか言っておやり。この子頭下げたままだったでしょう」

 私の背中をなでながら、おばさんは私が持っているリュックの紐に手をかけた。

「ずいぶんたくさん持ってきたねぇ」

 重かったでしょと言いながら、遠慮する間すら与えずに、私の荷物をひょいっと持ってしまった。そのまま空いている手で私の手を引いていく。

「あの、なんとお呼びしたらいいですか?」

 かすかに漏れた空気のような声に、弾ける声が返ってきた。

「そんなにかしこまらないで、気軽に〝ようこ〟って呼んでくれて構わないから」

 ふふっ、と笑うようこさんにつられて、私もへらっと笑った。部屋は一階の真ん中らへんで、ドアノブにカギを差して開けてくれた。管理がされているのか、埃っぽさなどはなかった。玄関は少々狭かったが、それでも自分の城に目を輝かせる。

 ようこさんは一向に部屋に上がろうとしなかった。

「あら、電気がつかない」

 落ち着いた口調ではあるものの、手早くブレーカーを確認すると、部屋に上がり、簡易キッチンの前に立っていた。その時の私は、一人部屋を与えられた子どものように、部屋のいたるところに視線を移し、家具の配置やら考えていた。

「みきほちゃん、電気とか、ガスとか、契約した?」

 突っ立っていた私は、この一言で現実に引き戻された。

「なんにもしてないですけど」

 もしかして、と思ってようこさんを見ると、ようこさんは私を押しのけて外に出て行ってしまった。ようこさんの名前を口にしようとすれば、怒号が響いた。

「あんた、また説明し忘れたね!」

 先ほどまでの、どこかのマダムのようなようこさんは一変し、鬼の形相で、田渕さんの胸倉を掴んでいた。どうしたらよいものか。私は、あたりを行ったり来たりすることしかできなかった。

 だが、少し間を開けて、どっと事実が押し寄せてきた。

 私は何の契約もしていない。水道も、電気も、ガスも使えない。

 心拍が上がり、体がじんわりと汗ばんできた。何とか落ち着かせようと、肩を大きく動かし、酸素を取り込む。

 しかし、急に深いどん底に落とされたような気分になり、視界がぼやけてきた。湿ってきた鼻先を指で拭うも、涙は一向に止まらない。声に出すわけにはいかないとわかりながらも、喉からは空気が漏れてきた。

 頭がじんわりと痛くなって、ただ零れてくる涙を、手の甲で拭うことしかできなかった。田渕さんとようこさんが話しかけてきたが、よく覚えていない。ただ私の背中に添えられた、ようこさんの少し冷たい手が、熱を持った体には丁度よかった。

「水道は今日契約したら大丈夫だからね。ガスと電気は二日か三日で使えるようになるし、カセットコンロとか、お風呂はうちのがあるから」

 鼻をすすり、なんとか「ありがとうございます」と絞り出す。くぐもった音はきっと声になっていなかったけれど、二人はきちんと受け取ってくれた。

 その後は二人に付き添ってもらい、それぞれの会社と契約を結び、役所で国立市民となった。

 私に対して説明不足だったという引け目を感じたのか、数日間、ご夫婦の厄介になった。初めはバランス釜の使い方に慣れず、ようこさんに見守ってもらっていた。

 丁度ガスや電気が使用できるようになったあたりで、荷物が届いた。大きなものから適当に配置し、段ボールを開封していく。もう一生あの家には帰らないと心に決め、様々なものを持って来た。

 段ボールを開ける度、遅効性の毒が回るように、ゆっくりと寂しさが押し寄せてくる。

「お母さん……」

 なんだか急にやる気がなくなって、畳に寝転ぶ。カーテンも付けてない部屋に日が差し込んできて、じんわりと私を焼いていく。目を閉じたら寝てしまいそうで、でも抗う気力もない。

 あたりが暗くなって、誰もいない部屋を見た瞬間、この世界に私しかいない気分だった。急に手が震えてきて、急いで起き上がって電気をつけた。

 寂しさを物で埋めるように、段ボールの中からいろんなものを取り出して、床に置いていく。足の踏み場はなくなったが、一人じゃない気がした。

 ホームシックなんて言葉があるが、ふとした瞬間に死を感じることが、そうなのだろうか。小さい頃はATMでお金をおろす行為が、とてもかっこよくて、私にもやらせてほしいと駄々をこねていた。

 でも、実際に一人でATMに入ってお金をおろすと、手に入ったお札と引き換えに、口座残高が減ることが耐えられなかった。

 ものを買って、お金が財布から減っていく度に、自分の心が鑢をかけられたようにすり減っていった。

 このことを田渕さんに話せば、大きな声で笑われた。私が萎んだ分だけ田渕さんが笑ってくれる。

「そんなみっちゃんに冷蔵庫と電子レンジ、物干しざおをあげよぉ」

 前に住んでいた人が必要ないと置いていったものがあるらしい。御幸舎の裏の物置には、埃をかぶったようなものから、テレビでよく見るものまであった。

「粗大ごみで捨てるにもお金がかかるからって、ここにみーんなおいてくのぉ」

 呆れたように、それでいて愛おしそうに微笑む。田渕さんがこれほどまでの愛情を注いできた、あったこともない人の存在がちらつく。先ほどまで高まっていた温度感が下がっていく。田渕さんは「好きなの持っていきなぁ」と言って、ゆらゆらと草むしりに戻っていった。

 ゆっくりと体を動かし、物置の奥に踏み込んでいく。そこには足が一本欠けた炬燵。見たこともないような洗濯洗剤まで置いてあった。

「ほんとにいろいろある」

 諸先輩方に敬意を示しながら、使えそうなものを引っ張り出していった。暗くなってしまう前に、部屋に入れてしまわなければならない。

 大きなものから、小さいものへと。適当に部屋に放り込む。

 適度な疲労感は、たいしたことを成していないのに、一日が充実したものだったと錯覚させてくる。どんなに大きな失敗があろうが、意外と何とかなってしまう。このときはそんな風に思えていたのだ。


 田渕さんの横に転がった袋の口をほどき、ペットボトルとラベル、キャップを分類する。

 田渕さんは何も言わないが、その代わり小さな椅子を差し出してくれた。

「このゴミって御幸舎(うち)以外のも交じってますよね、絶対」

 単純作業は楽しい。でも、なぜ適当に捨てて、それを無責任に路肩に放ったままでいられるのだろう。唇に力が入る。大体、田渕さんは関係ないのに。

「関係ないかもしれないねぇ」

 びっくりして、なぜわかったのかと問えば、「そんな顔してたからねぇ」と言われた。

「みっちゃんは裏表がないからいいよ!」

 全ての分別が終わり、勢い良く立ち上がった田渕さんを見上げる。田渕さんにはオレンジがよく似合う。

「ありがとね」

 そう言って、大きな袋を抱えた姿はサンタクロースのようだ。白い髪と柔らかそうな輪郭が相まっている。

「みっちゃん甘いもの好きよね」

 女性の声が斜め後ろから飛んできた。声の主はようこさんで、高そうなお饅頭をいただいた。

 お礼を言って、自分の部屋に戻る。ドリンク一杯ではお腹は満たされず、扉を閉めた瞬間、上品な包装紙に手をかけた。手を洗っていないが、饅頭に手が触れなければ、セーフ。

 上品な甘さのこしあんが味覚を占領する。食べ終わった後に少しだけ歯がキシキシする。もやしと鶏肉生活の私からすれば、それすらおいしく感じてしまう。

 冷蔵庫のものと、今日買ったものを炒めて、味噌をお湯で溶いたもので胃に流し込む。

「旅のこと調べよ」

 ほっと一息ついた後、リュックからノートパソコンを取り出す。ぶるっと体が震えたものだから、お化けのように、頭からせんべい布団をかぶり、肌寒さを誤魔化す。


「でさ、調べてみたの!京都なんてどうかな?」

 すみちゃんはカバンの中から旅行雑誌を何冊か取り出し、横一列に並べる。京都と書かれたものを押し出してきた。私は京都に関してよりも、「2012年最新版!」と刻まれた雑誌を全て、すみちゃんが買ってきたという事実のほうが衝撃的であった。

「私もなんとなく京都気になってたの」

 私がそういうと、すみちゃんの目はどんどん光を取り込んでいく。旅に行くのだから、修学旅行なんかで行くところ以外がいい。

 すみちゃんが机に両手をついて、身を乗り出している。どんな時でも背筋をピンっと伸ばし、〝佇む〟という言葉がとても似合うすみちゃんからは、想像もできない。

 今日はとことん話すと意気込んで、私はシフトを短くした。食べ物に、歴史に。

 私は高校時代世界史を選択していたが、すみちゃんは日本史選択で、大学では古典文学を学んでいる。

 すみちゃんの口からは、古典作品や説話、歴史的建造物、果てには現在の天皇にまつわる話まで出てくる。私も高校時代は現代文、古典ともに得意科目の一つであったが、ここまでのことを学校で習ったという記憶はない。

 知識をひけらかされているというよりは、「好き」の共有をしているような空間が、とても心地よい。私たちは時間なんて忘れて話し込んでいた。それこそ、夕方になるにつれて騒がしくなってくる店内のことすら、気づかずに。

 音楽の授業で聞いたことがあるクラシックの曲が、私たちの会話に幕を下ろした。

「ごめん」

 私にそう言うと、すみちゃんの表情は曇っていった。先ほどまでと打って変わって、すみちゃんのテンションは急激に下落していく。

「うん。いま友だちと話しをしていたの。そう。バイトが一緒の子」

 一瞬表示された「お父さん」という文字が目に留まった。つい身構えて、体が強張る。私は〝父〟という概念が生理的に受け入れられない。

「みっちゃんごめん。お父さんが早く帰ってきなさいって」

 携帯をしまいながら、トレーを持ち、立ち上がったすみちゃんに続いて、私も立ち上がる。

「ううん、気にしないでよ。すみちゃん可愛いから、こんな時間まで外にいるって思ったら、きっと心配だよ」

 うちのお父さん過保護なんだ、と自嘲を含んだすみちゃんの声が、嫌なほどよく通る。駅まで七分ほどだが、今日は一歩一歩踏みしめて、二人でのんびりと歩く。

「うちのなんて、学費も払わないし、私の誕生日だって覚えてないよ」

 大きな声であっけらかんと、どこか誇らしげに言う。ちらっとすみちゃんを見ると、直感的に「間違えた」と思った。私が今言ったことは最低なことだ。

 すみちゃんにとって重大な問題を、私よりも恵まれているじゃないかと言って、強制的に解決しようとした。

「ごめん、すみちゃん」

 その一言だけ言ったら、そのあと何も話すことができないまま、それぞれ家に帰った。

 その夜、自分の携帯の着信履歴を開いてみた。私はもう、一ヶ月半、電話越しの声を聞いていない。

 すみちゃんと私は、週に一回の、シフトが被ったときにしか会えない。この日以降、同じ日にシフトが入っていたとしても休憩時間と退勤時間が合わなくなり、私たちは話さなくなった。私のこと、嫌いになったんだ。

 すみちゃんとなかなか話すことができないまま、京都に行く日は近づいてきた。

 ある日バイト終わりにリュックを開いたら、すみちゃんの観光雑誌が入っていた。

「最近話せてないね。使ってくれると嬉しいな」

 金色のラインで彩られた正方形の付箋に書かれた文字。すみちゃんの字だ。すみちゃんの文字を指で撫でていると、金色のインクが伸びた。付箋に施された装飾はすみちゃんによって描かれたもので、まだ乾ききっていない。

「なんだ、きらわれてなかったんだ」

 今まで胸につっかえていた何かが、急激に消え去った。いや、溶けて、私のなかのどこかに流れている。きっと残さなくてはならないものだ。

 私は雑誌の中に記された、たくさんの付箋とメモを、暇さえあれば読み返している。他にも、雑誌には載っていない場所に関しても調べてくれていた。プリントアウトし、地図とともに挟み込んでくれている。

 今日は講義室に早く着いてしまったから、見よう。

「げっ。それ全部あんたが書いたの?」

 聞きなれない声が頭上から降ってくる。顔を上げると、日本の伝統芸能に携わっていそうな顔立ちの人がいた。聞こえてきた声はアルトに近いものの、男性のものだ。しかし、目の前の人物からは女性らしさを感じる。

「あの、だれ」

 眉をひそめながら聞けば、むこうはあり得ないという顔をした。

「入学式、隣だったんですけど! てか、俺話しかけたじゃん」

 むくれっ面をさらす彼には見覚えはあった。学内でも有名な人で、男子でありながら、化粧はネイルなどに興味がある。

 トランスジェンダ―ではなく、ただ自身を飾り立てることが好きなようだ。服に関してはそこら辺の男子と変わらない。しかし、着ている人がいいからなのか、既製品とは思えない。

「で、なんのようですか」

 雑誌に視線を戻し、「あなたに興味はない」ということを明確に伝える。

「あんたに頼みがあるの」

 雑誌を私の手から奪った彼の顔を反射的に睨みつける。ずいっと美しい顔を近づけられた。綺麗なものは好きだが、あまりに美しすぎると、脳が拒否を起こすと知った。

「あんたのノート見せてくれない?」

「なんで、ノート」

 話したこともないような人間にノートを見せる義理はない、と伝えるも、引き下がられる。お願いと両手を合わせる彼の側においてあるクリアファイルが、目に入った。

「なんで私のノート持ってんのよ」

 最初は軽い態度だったが、私の怒りが頂点に達しかけているのを察すると、全てを明かした。

 いつも私の近くに一人で座っていた女の子が急に二回ほど欠席した。自分と似た雰囲気を感じ、久しぶりに来た時に私が声をかけたことがあった。ノートを見せてくれる人がいないと言っていたので、私がノートと資料を貸した。

 それがコピーされ、この教室内で回されている。

 私は衝動的に立ち上がり、教室一帯を見回す。

「あんたには悪いけどさ、このノートすっごい見やすいし、わかりやすいんだよね」

「それは結構。そのノートはあげるから、もう話しかけないで」

 隣の椅子においていたリュックを掴み、席を移動する。慌てた彼が私の左手首をつかんで離さない。私も負けじと突き進もうとし、彼の重心がどんどん下がっていく。

 そこそこのキャパを持つ教室には大勢の学生がおり、前方で騒いでいる私たちは、衆目の目にさらされていた。

 ざわつく教室内に、聞きなれた革靴の音が登場する。私命名、変態ハゲ野郎のお出ましだ。

 私はふん、と鼻を鳴らし、元の席についた。リュックを隣におこうとすれば、ニヤニヤとした彼が、わざわざ、私の隣に座ってきた。筆箱を縦に置き、これ以上はいるな、と示す。私の視界に入ってくる彼の頭がどんどん下がってきて、とうとう机に突っ伏した。どうしたものかと注視すれば肩を揺らし、くつくつと笑っている。

「あんた、小学生、みたい」

 講義が始まったからか、ネズミさんの声で話しかけてくる。こんな人間に私の貴重な時間を割くことがもったいない。スイッチを切り替え、講義に集中しなくては。

 この先生は与太話が多く、講義内の重要な点も、身の上話とともに流して聞いてしまいがちだ。しかも板書は書く量が多く、すぐに消されてしまう。私の中でこの講義は理解を深めるというよりも、情報を処理することができれば御の字という位置づけだ。

 常に書き続けなければならないという状況だと、いつの間にか講義なんて終わっている。私がペンを机に置くのと同時にチャイムが鳴った。

 話し相手もおらず、この教室は飲食が認められているという点から学生が集まりやすい。

 用がなくなればすぐに退散。適当に教材を押し込み、教室を大股で抜けていく。

「ちょっと、待ってよ。あんた歩くの早いって」

 背後から聞こえてくる声には耳を貸さない。私は他の講義での課題を片付けなければならないのだ。

 いつも通り人気のない、キャンパスの隅まで歩いていく。木々が生い茂り、簡易的な木のテーブルとベンチがおいてある。潔癖症でなければ、そこそこ良い環境だ。

 はあ、はあ、と息を切らした彼がこちらに駆け寄ってくる。途中、友だちと思しき人間に絡まれていたため、撒けたと思ったのに。

「いっつもここに一人でいるわけ?」

「どおりで見つからないわけ」と、ぼそっと呟く。

 私はあまり人と関わることが好きではない。校内で誰かに声をかけられたのなんて、新入生説明会と、グループワーク、今回くらいだ。

「こっちもさすがにただでノート借りるなんて言ってない」

 嫌々ながらも見てみると、彼の瞬き、手の動かし方、一つ一つの動作に〝可愛い〟と思わざるを得ない。まつ毛なっが。真っ赤なマニキュアと黒い髪のコントラストが、目を引く。いつの間にか声になっていたようだ。

「急になに?ありがとう?」

 一度彼の容姿の美しさと、挙動の愛らしさを自覚してしまうと、彼以外にピントが合わなくなる。

「で、さっきの話の続き!」

 パンッと、乾いた音で現実に引き戻された。彼が手を叩いたのだ。

「はいちゅーもく」なんて言って、片手をあげ、とある提案を持ち掛けてきた。

 彼曰く、あの先生の講義は内容が理解しづらいだけでなく、早口かつ私語が多いことから、重要なポイントを聞き逃す。しかし、この講義はレポートと何回か実施されるテストで評価が決まる。

「俺は今までのテストの結果が芳しくなくて……」

 唇をむにゅっと突き出しながら。斜め下を向いている。

「あのテストそんなに難しかった?」

 講義で話した内容をそのまま出題している問題と、ちょっとした記述問題しか出ないのに。

「そりゃ、あんな完璧なノートつくってる人からしたら簡単でしょ!」

 両手を握りしめて叫ぶ姿すらあざとい。「だからお願いっ」と言って、私の横に座って、手まで握ってきた。

 近くて見るとより攻撃性の高い容姿だ。ひっ、と蚊の鳴くような悲鳴を上げてしまった。

「毎週この講義の日に昼食おごるでどう?」

 おごるという単語に反応して、つい顔を上げてしまった。とりあえず握ってきた手を放してもらう。私にとっても悪い話ではない。

「てか俺は、あいつらみたいに勝手に人のノートに価値つけて回すなんてごめんだし」

 はき捨てるような彼のセリフに、軽い人間という評価を下したことを内心謝った。ただ一つ、「価値をつける」という単語に引っかかる。素直にそう話せば、ひとこと誤りを添え、教えてくれた。

「あんたがノート貸した子の側に座ってた女が、無理言ってその子からコピーとって。それを男共に売ってたわけ。友だちがそれを俺に見せてくれて、今に至る」

 あんたのノートって高値で売られてるんだよ、と付け加えられた一言によって、怒りは沸点に達した。ごめんね、と謝る彼にも一部非はあるが、それよりも他の奴らに対する嫌悪感に吐き気すらする。

「ねえ、あんたの言う〝女〟ってあのミルクティー?」

 今は本当に腹の虫の居所が悪い。

「あー、うん」

 気まずそうにしながらも、しっかりと答えてはくれる。

「しねよ」

 ひと目なんて気にせず、悪態をつく。いや、つかなければ私の頑張りはどうなるんだ。私しか私の見方はいないのに。

 クソ、クソと吐き続ける私に、おずおずと彼が話しかけてきた。

「いや、たしかに講義もまじめに受けてないような奴らにさ、自分の頑張り持ってかれるの嫌だよね。俺、あんたのノートコピーも含めて全部回収する!」

 嫌だったら、俺にノート貸さなくていいし、と言われた。頭を搔くたびに光を受けてキラキラと艶めく彼の黒い髪が、なんだが黒猫を彷彿とさせる。ちょっと猫目っぽいし。

「いいよ。その代わりご飯と、ノートの回収よろしく」

 私の返事に顔を輝かせ、握手したまま腕を勢いよく振られる。「任せて!」と、煌めく笑顔を向けられると、言葉に詰まってしまう。

「あーよかった。単位もだけどあんたの食生活も心配だったんだよね。あ、俺村上(むらかみ)千景(ちあき)

 私の地元もせっかちで早口という特徴があり、彼のマシンガントークにはちょっとした親しみがある。「よろしく」と差し出された、手を取った。

「あっ私、善家未季穂」

 ちょっと待て、聞き捨てならない一言があった。

「なんであたしの食生活知ってんのよ」

 えー、なんて言いながらご丁寧にファイルに入れられた私のノートを引っ張り出す。赤い爪で右上をトントン、と叩いた。

 ぐいっと覗き込むと、私がもやしレシピが薄っすらながらも、登場していた。

「他のページも見たけど、もやしと鶏もも肉のレシピしか載ってないじゃん。おいしかったけどさ」

 ノートを勝手に取引されていたことに対する怒りはどこかに飛んでいく。自分の食生活を再現されていたほうが耐えられない。手で顔を覆い隠してしまう。

「うそ、あり得ない。絶対馬鹿にされる。てか、ノートとっとと回収してよ!」

 うめき声を上げながら周囲を歩き回る私。

「いや、馬鹿にするっていうより、ここまできたら心配のほうが勝つよ」

 大学でこんなにも喜怒哀楽を感じたことは初めてだった。動き回り、考えまくったら急にお腹がすいてきた。

 近くの時計塔を見ると、もうお昼も過ぎ、次の講義が始まる時間だ。

「えっと、千景くんは次の講義は?」

 次は空きコマだから、私は、ここでお昼を食べてから、課題をこなす予定だ。

「俺も空きコマ。てか、君付けってまじめか。普通に村上か、千景でいーよ」

 では、千景と呼ばせてもらうことにする。ベンチに座り、弁当を取り出す。家から持って来たゆでもやしと、和風ドレッシングもどき。

 私が、「いただきます」と手を合わせて、もやしを食べようとしたら、弁当を取り上げられた。

「ちょっと待って。まさかお昼それだけ?」

「そうだよ」と答えて、もやし入りタッパーを取り返そうとするも、私の前には学内で買えるお高めのパンが差し出された。

「お昼おごる約束したでしょ?このもやしは、俺が食べるから」

 私はもやしの行方よりも、パンに釘付けだった。高校の帰り道にあった、個人経営のパン屋さん。窓から盗み見ていたパンはどれも艶々で、スーパーの物とは比べられなかった。

 そんなパンが、今私の目の前にある。隣に視線をやると、私のもやしを頬ばっている千景。透明な袋から取り出したパンは真ん中に添えられたジャムと、粉糖が光を受けて煌めいている。まるでルビーのようだ。

 一口食べて、言葉が出なかった。パンを噛みしめる私に、慈愛のこもった視線が注がれた。

「もやしって意外とおいしいね。てか料理うまくね?」

 家族以外の人に手料理を食べさせることなんてないから、純粋な評価がうれしかった。照れくさくて、パンをもう一口かじる。

「他にも作れるの?」

 最近作った料理を挙げようとすれば、「もやしと鶏肉はなしだから」なんて付け加えられた。ちょっとからかわれた気もするが、パンがおいしいから気にしない。

「実家にいたときは和食とか、魚くらいなら捌けるけど」

 家事全般はできる。女だから。

 料理だって、親戚の集まりで作らなければならないから、できるようになっただけだ。

「へー、俺和食好きだけど作ったりはしないなー」

 たいした量もないもやしを食べ終え、「ごちそうさまでした」と面と向かって言われた。男性に手料理をふるまったことはあれど、このような反応を示されたのは初めてだった。

 そのあとも、なんやかんや身の上話をすることになった。 

 彼は、京都生まれ、東京育ちで、現在は一人暮らしをしているそうだ。私なんかと一緒にいて恋人に怒られないのか、と聞けば、そういう相手はいないと返された。

「あんたはどこ出身なの?」

 彼は欠けた爪の手入れ、私は今週の予定を手帳に記入する。それぞれが疑問に感じたことを、ぽつぽつと答えていく。

「福岡」

 福岡といえばたいてい食べ物の話となる。そうなると、なぜもやし生活をしているのか聞かれるわけだ。趣味のためにお金をためているように見えるのだろう。

「私、親からの仕送りとか一切ないから」

 彼はぎょっとして、爪の手入れをやめた。長いわけではないが、綺麗に弧を描く爪。どんどん整えられていく様子を盗み見るのは気持ちよかった。

 ここまで言ったらもうすべて話してしまおう。私のことが嫌なら、親しくなる前にどっかに行ってくれ。

 私は家のこととか、父親のことを話した。ところどころ相槌を打ちながら、聞いてくれる。

 私からしたら、こんな境遇は面白おかしくネタにするしかない。しかし、真剣に話を聞きつつも、空気が重くなりすぎないように反応してくれる人は初めてだ。

 私は今、初対面の人間に、自分の地獄を共有した。きっと最低の行為だ。でも、話し出したら止まらない・

「ひとこと言う。あんたの父親最低。てか、その親族もあり得ない」

 千景は裏表がない人間だと思う。素直で、思ったことははっきり言うが、相手に対する配慮がある。冷静に意見してくれる。

「なんで義務教育が終わったら、一人で生きていけるような社会じゃないんだろうね」

 いたずらっぽく聞いてみる。簡単に答えられるような質問じゃない。私は性格が悪い。いや、幼稚だ。まるで試し行動じゃないか。

「俺はさ、人はどっちみち、一人では生きていけないと思うよ」

 男の声がした。千景の声なのはわかる。でも、声に滲んでいた愛らしさが消えた。もしかしたら、いやきっと、彼にも地獄はあるんだ。

 この話を初対面ですれば大抵引かれる。いきなり距離をとられる場合もあれば、距離感は変わらないが、これ以上入ってくるな、と示される時もある。

 私は酷いことをした。千景はノートのことがあるから、前期が終わるまで、私との関係を切ることはできない。私はそれを理解していて、逃げられない人間に、自分の重荷を一緒に背負わせた。急に冷静になり、顔を上げることができなくなった。

「あんたって不器用だね。俺はあんたのこと嫌いじゃないよ」

 次の講義が始まる時間が近づいてきた。頭上から降ってくる声につられて、顔を上げてしまった。少し赤みがかった瞳が私を射抜く。

「連絡先交換しよ。あと、京都に行くなら、あんたに似合う服とかメイクとか一緒に考えてあげる」

 手早く赤外線で連絡先を交換し、すみちゃんからもらった雑誌を返された。どこまでも一方的なのに、たまに同じところを向いてくれる人ができたのかもしれない。


 その後も意外と交流は続いた。彼はアパレルで働いているらしく、服やメイクに詳しかった。安いお店を何件か紹介してくれ、一緒に選んでくれた。

 彼曰く、私のセンスは壊滅的らしい。そして、素材は可もなく不可もないから、そこそこの格好をしろと言われた。

「ガラとガラは合わせないの!」

 服を選ぶだけじゃなく、組み合わせまで考えてくれた。いつも無地のシャツやパーカーに、ズボンかスカート。そしてスニーカー。休日も基本バイトだから、制服の上にパーカーを羽織って終わり。

 私がそう言った時の、千景のしかめっ面は面白かった。

「すごいね。女性用のメイクにも詳しいんだ」

 色つきリップ一本しか所持していない私に、ブラシの使い方から全て教えてくれる。

「俺はあんたが化粧品の一つも持ってないことのほうが、驚きだけどね」

 ご丁寧に眉まで整えてくれている。懐は寂しくなったが、高校生の時から化粧には興味があった。しかし、そんなものを買うお金も、時間もなかった。

 化粧が、ここまで私に自信を与えてくれるものとは、思わなかった。

「千景がなんで可愛くしてるのか、ちょっとだけわかったかも……」

 千景からは疲労感が漂っていたが、どこか満足気でもあった。私としても、こんなにも充実した休日は初めてだった。基本的に休日は、一日中バイト。この後バイトがあるという点を除けば、今日はとても幸せな日だ。

「それならよかった。京都楽しんできな」


 千景にそう言ってもらった一週間後、京都に行った。初めて夜行バスに乗った。すみちゃんとはあれから一回も会えていないが、勇気を出してメールを送った。今から夜行バスに乗る、と送ればすぐに返信が来た。

 写真まってる、という文とともに愛らしい顔文字が添えられていた。

「うん、行ってきます」

 誰も返事なんてしてくれないとわかってはいたが、携帯に向かって言ってみる。

 そのままバスに揺られて一晩を過ごし、朝早くに到着した。雑誌を片手にあたりを適当にうろつく。何度も道に迷い、バスは間違えた。くたびれて宿に行けば、蜂の巣のようにみっちりと、カーテン付きのベッドが配置されていた。

 お風呂とトイレは離れにあり、冷蔵庫まですべて共用。こんな場所が宿泊地としてあることに驚愕した。

 ほかの宿泊者がまだ来ていなかったから、部屋の中をうろうろとしてみた。

 天井が低いな、なんて考えながら見上げてみると、黒い布地のテープが貼られた天井が目についた。一部、水でもたまったかのように膨らんでいたところがあった。

 指で押してみると、天井が少し持ち上がった。梅雨時ということもあり、あいにくの雨。豪雨になったら、天井が抜けるかもしれないな、なんて考えていた。

 しかし豪雨にも見舞われず、二日目に関しては、晴れ渡った青い空の下で、活動を終えることができた。

 帰りのバスに乗る前に駅の中を通過していると、千景が話していたお土産が目についた。

「上品なこしあんで包まれたお餅がおいしいんだけど、日持ちしないんだ」と、肘をつき、ため息をつきながら、こぼしていた。

 インクの匂いが微かにする上品な包装紙。その見た目に納得してしまうような金額に戦慄して、箱を戻そうとした。だが、売り場にはこの一箱しか残っていなかった。

「ありやとーございやしたー」

 空気と混じってしまいそうな、気の抜けた挨拶。買ってしまった。

 途中バス停を間違え帰れなくなりそうになったが、無事乗車できた。一晩バスに揺られ、またいつもの日常が戻ってきてしまった。

 月曜日二限。千景はあの日以降、私の隣に座って、講義を受けるようになった。以前一緒にいた友だちと座らなくていいのか、と聞いたことがある。すると、すんっとした顔で、もともと向こうから絡んできて、発言に対しても思うところがあったからいいのだと言われた。

 人間なんてそんなもんだろう。

 講義を受け、互いにノートをとる。そして、講義終わりに千景が私のノートを見て、足りない部分を書き込んでいく。

 月曜日は千景とお昼を食べることが当然となってきた。一人で過ごしていた時には、お金がないという点から学食には近づかなかった。しかし、「お昼をおごる」というありがたい提案により、学内の様々なランチを堪能できている。今日は購買のパンだ。

「これ、前話してたお菓子」

 リュックから箱を取り出すと、千景が私の顔と箱をちらちらと見比べている。上下に大きく開いた眼が猫みたい。

「うわー。久々に食べる」

 千景は、「緑茶が一番あう!」なんて言いながら、学内の自販機に走っていった。律儀に二本買ってきてくれた。

 京都でのお土産話をしつつ、餅をつつく。たまに写真を見せ、彼の幼少期の思い出と、土地を重ね合わせていく。

 京都のことも話し終えれば、他の講義の話に花を咲かせる。

「えー、あんたあれとってんの?」

「そんなに難しいの?」

 それぞれのやるべきことをこなしながら、合間に喋る。だからこそ、たまに会話に絶妙な間が生じる。

「難しいってか、課題多いじゃん」

 すみちゃんとはまた違った存在だった。すみちゃんといる時の私は、少しだけ背伸びをしている。すみちゃんの隣に立っても見劣りしないように。

 千景とは、軽口をたたいたり、口調だって悪くなったりもする。自分の中に「東京の私」と「福岡のあたし」がいる。

「別に課題こなせばいいから楽じゃん」

 まだ話したいけど、もう話す内容がつきかけたとき、最近同じ話ばかりしてしまう。バイトの愚痴だった。

「てかさ、聞いてよ」

 この一言から始まって、先輩の私への当たりのキツさや、職場で飛び交う暴言。最初の頃は共感を示してくれていた千景も、最近では軽い相槌だけくれる。

 私自身も、誰にも話すことができず、かといって自分で消化もできない毒素を、体外に出そうとしているだけだ。 

 自分の中で答えは出ていても、話すことがなくなることが怖くて、話していたらどんどん楽しくなって、聞いていていい気分のしない話をずっと続けるのだ。

 いつも話し終えた後、千景の少し陰った表情を見て、罪悪感に苛まれる。許してほしくて、「ごめん」と言う。

「あんたって、基本的に人を寄せ付けないのに、一度気を許した人間に依存する対応なんだね」

 そうかもしれない。でも、どちらかというと。

「寄せ付けないってより、離れられるのが怖いから、私から近づかないだけかも」

「なるほど」と、名探偵のように、手を顎に当てた千景が言う。初対面の時は鼻についた、彼の芝居がかった行動も、見慣れてくると感情が分かりやくて楽だ。

「巷で有名なDV彼氏ってやつじゃん」

 一人で喋って、一人でツボっている。そんな彼をよそ眼に、私の中で〝DV彼氏〟という単語がずっと渦巻いているのだ。

「私、千景とちょっと距離置くことにする」

 私は今、千景に依存していて、きっとすみちゃんにも依存している。だって、すみちゃんが私以外の名前を口に出すと、なんだか体に力が入る。

 幼少期の私が得られなかったものを、空いてしまった何かを、今、自分の周囲の人を利用して埋めようとしているのだ。

「そこまで深刻にならなくても」

 千景は明るく笑い飛ばしてくれるが、私の顔を見て黙り込んでしまった。

「私は結構千景のこと好きなんだと思う。だからさ、ちょっとだけ時間を頂戴」

「これからもノートは貸すけど、お昼は一緒に食べられない」とだけ言って、荷物をまとめてその場を離れる。

 勢いよく立ち上がった私に手を、千景が両手で引っ張った。こんな時ですら、可愛いと思ってしまう。

「変にまじめだよね。確かにあんたには思うところはいくつかあるけど、それでも他人に対する思いやりがないとか、そんなわけじゃないから!」

 千景はゆっくりと波を立てる、海みたいな子だ。そんな千景が、こんなにも感情的になっているところは初めて見た。私の手を握る彼の手にどんどん力がこもっていく。

 でも、私が離してとくれと、空いた手で軽く触れると、ゆっくりと解けていく。砂糖いっぱいの鍋で煮たリンゴみたいに、美しくて、甘い。

「別に今生の別れってわけでもないからさ」

 ゆっくりと距離をとって、そのまま背を向ける。


 四、膿


 あの出来事以来、私たちは必要最低限の会話のみかわす。私がそうしてくれと頼んだからだ。昼食も別だ。もやしってこんなにおいしくなかったっけ?

 もう少ししたらテスト、レポート期間が迫ってくる。

 千景と距離をとるようになってからも、すみちゃんとの女子会は続いていた。京都から帰った週には、すみちゃんと久しぶりに会うことができた。

 それまで一切シフトが被っていなかったことが、嘘かのように。以前のように、休憩時間と退勤時間が揃えば、他愛もないことを話す。ただ、最近はすみちゃんに対しても、身構えてしまう。

「最近なにかあったの?」

 変わらず、ゆるゆると笑いかけてくれるすみちゃんに、全部話してしまいたかった。でも、私なんかが汚していいわけない。

「最近友だちできたんだ。綺麗でかわいい男の子なんだけど」

 嘘は言ってない。すみちゃんは、「前にいってた子?」と聞いてくる。私はすみちゃんに千景のことを話したっけ?

「前に、入学式の話してた時に教えてくれたよ」

 点と点が、線でつながるなんて言葉があるが、今回は点と点だけが存在している。

「『男の子なのに、身ぎれいにしてる子から肌白いって

 褒められたことある』って言ってたよー」

 言われてみると、だった。何なら、その時の格好まで主出してしまった。

 赤い爪と唇。口元にある小さな黒子が、セクシーだなんて思って見惚れていたら、声をかけられた。周りの人は既製品のスーツに埋もれているなかで、彼がひとりだけスポットライトを当たったようだった。

 もしかしたら恋に発展するかも、なんて舞い上がっているすみちゃん。正直にいうと、千景は男性だけど、そういう対象ではない。

 それぞれとりとめもないことを話題として提供し、頃合いになるまで話す。

「もう少ししたらテスト期間に入るから当分入れないんだ」

 しょぼくれているすみちゃんを励ましながら、互いに鼓舞しあう。

 もう少ししたら、レポート、テストに背中をどつかれるような生活をおくる羽目になるのだが。私はやってしまった。

「てかさ、みっちゃんもテスト期間同じくらいの時期だったよね?」

「シフトすごい入ってたけど大丈夫?」と問われて、言葉に詰まってしまう。アップルパイを幸せそうに頬張るすみちゃんをよそに、私はがっくりと項垂れる。

 夏季休暇の時期からして、テスト期間はあと一週間先だと思い込んでいた。しかし、先生によっては規定回数の講義を開講すれば、少し早く講義を終了することもある。

 すなわち、テストやレポートも早まるわけだ。大変まずい。

 それからというもの、昼は学校、夜はバイト。零時を回ってから家につき、賄いのドリンクを片手に勉強をする。寝るというよりも、仮眠のような生活を続けると、日常生活にも弊害が表れた。

「最近ちゃんと寝てないでしょ」

 講義終わりに千景に話しかけられた。答える気力もなくて、適当に手だけ降って、いつものベンチまで行く。おにぎりを片手に、参考文献になりそうな本をパラパラめくる。

 襲ってくる睡魔と、霞む文字。三十分だけ寝ることにした。ベンチで行列を作っていた蟻を手で払い、寝そべる。

 子どもがお昼寝をしたら、起きたときにはアナログ時計が六時を指しており、朝と間違えるなんてことがある。

 ぼんやりとした頭で体を起こすと、ちょうどチャイムが鳴り響いた。

「やばい四限!」

 書き途中のレポートが折れ曲がってしまうことも気にせずに、そのままリュックに入れようとした。

「大丈夫だから。今から三限が始まるとこ」

 ここ最近耳馴染みのなかった声。体の温度が上昇する。

 隣では、千景が分厚い教科書とにらめっこしていた。いつもならば手入れに余念のない千景のおでこには、赤い点が鎮座している。

「ニキビ……」

 私の言葉に反応したのか、油切れのロボットのようにガタガタとこちらを向く。「みーたーなー」なんて、どこぞの幽霊が言いそうなセリフを、初めて聞いた。

 勉強のせいで、自分の手入れに回す時間が足りないそうだ。完璧な千景にも、俗世間的な部分があるのか。

 寝たりないのか、思考に霧がかかったままだ。頭が重力に負けて上下する。しまいには、お腹から、くー、と間抜けな音まで鳴る。

「これ食べな。あんた、顔色悪いよ」

 そう言って差し出されたのは、少し硬めのパンにジャーマンポテトと、マヨネーズがトッピングされたものだ。呆けた頭で、パンの袋をカリカリと書いていると、綺麗な赤が飛び出してきた。

 仕方ないなんて、呆れながらも、ご丁寧にパンの袋を開けてくれた。ありがたく頂戴し、ちょっとずつ齧っていく。

「最近何食べてんの」

 問いかけるというよりも、お母さんに怒られる前触れのような感じだ。

「スーパ―のスティックパン」

 千景ががっくりと項垂れた。私が食べている間、なんか言っていた気がするが、記憶にない。ぼーっとしたまま過ごしていると、いつの間にか一日は終わっていた。バイトから帰って、リュックを開けると、塩飴と、スポーツドリンクが入っていた。

 それからの日々はどうやって暮らしていたのだろう。私の記憶に残っているのは、この日が最後だった。

 目が覚めたときは、病院のベッドの上だった。病院だと理解したのは、自分の腕に点滴の針が刺されていたからだ。

 テストはどうなったのだろう。単位を落しては、意味がない。生きている意味がない。掛布団に頭をうずめる。

 病室を隔てるカーテンが開いた。

「やっと起きたんだ。相変わらずネガティブしてるね」

 慣れた手つきでパイプ椅子に座り、ナースコールを押す千景。

「テストとレポートに関しては大丈夫。あんたが倒れたの、前期の最後の講義が終わった後だから」

 自販機で買ってきたであろう缶コーヒーを飲みながら告げられた。「レポートの完成度も、そこら辺の奴らとは比べ物にもならなかったよ」なんて言われて、胸をなでおろす。すると、鋭い視線に刺される。

「栄養失調と脱水、睡眠不足だって」

 思い当たるところしかない。居たたまれなくなって、体から熱が抜け去っていく。

 そのあとで登場した看護師さんにも、こってりと絞られた。千景は私が倒れたことを聞きつけ、各所に連絡をしてくれたらしい。お母さんも駆けつけてくれていたらしいが、お金だけ大家さんに預けて、福岡に帰ってしまった。

「あんたって意外と愛されてんじゃん」

 千景は、私の携帯に登録されている、すべての番号に連絡してくれた。

 帰ってしまった母の代わりに、大家さんが退院につき追ってくれるそうだ。私が倒れている間のシフトはすみちゃんが変わってくれた。

 病室には千景の声と、鼻をすする音が響いた。少しずつ明かされていく、誰かの優しさがゆっくりと身体中に染み渡っていく。

 私は二、三日寝ていたそうだ。途中意識が戻ったこともあったが、すぐに眠ってしまったと伝えられた

 積もる話もあるから、今度どこかで話そう、と約束を交わし、千景は家に帰っていった。

 千景の言っていた通り、田渕さんたちが迎えに来てくれて、母から預かったお金で会計まで済ませてくれていた。ようこさんは私を優しく抱きしめてくれて、その日の晩は二人と一緒に過ごした。

 大事をとって二日ほど休み、社会復帰する運びになった。久しぶりに出勤すると、スタッフ一覧から、すみちゃんの写真と名前が消えていた。

 一瞬と気が止まったような感覚に陥る。そうだ、スケジュール表。全員分のシフトが乗っていることを思い出し、ファイルのページをめくっていく。すみちゃんはいつも、土日のどちらかで出勤していた。

「あっ」

 すみちゃんお名前はボールペンで塗りつぶされ、代打がたてられていた。

 今すぐすみちゃんに電話をかけたかった。「辞めてないよね? 体調が悪いだけだよね?」って。

 その日は一日中そのことで頭がいっぱいだった。その日初めて、私は客席フォローに配置された。

「体調悪かったって聞いたけど大丈夫?」

 優し気に聞かれた。この間の謝罪と、お礼だけ言って、客席の清掃に入る。

 この女性はどんな人とでも打ち解けて、ここでは母のようなポジションだが、私は少し苦手だった。

 だって、優しく話を聞いてくれ、笑顔を向けてくれてるのに、当人がいないところでキツイことを言うのだ。どれだけ親しい人であろうが、変わりない。なんでわかるかって?

「善家ちゃんでよかったー。すみれさんもまじめでいい子なんやけど、動作が遅いんだよね」

 ほら。業務上の相談や注意を装って、言葉の刃を向ける。すみちゃんの前では、「いつもニコニコしてて、こっちが元気になる」なんて言っていた。

 いや、きっとどちらもこの人からすれば本心なんだと思う。でも、自分に優しくしてくれる人から向けられる悪意のほうが、鋭いものだ。

「本当は善家ちゃんがよかったんだけどね。すみれさんは他のポジションだとね……」

 それから三時間、ずっとチクチクと、心を針で刺され続けた。私とすみちゃんの仲が良いことを、知っているだろうに。

 すみちゃんの悪口を聞かされて気分が悪いはずなのに。自分の評価が、想像よりも悪くなかったことで、背が伸びたような気分だった。私は嫌な奴だ。

 休憩の時に、なんですみちゃんが辞めたのか、知ることができた。私のせいだった。

「北島さんはもともと、親御さんと週に一回しかはいらないって、約束してたの」

 私のシフトを変わったから、すみちゃんはお家の人に、辞めさせられたんだ。私たちは、未成年だから。

 すみちゃんには、電話もメールも、つながらなかった。


 お金を稼がなくてはならない。

 夏休みに入ったことで、いろいろな時間で、シフトを出していた。毎日毎日、バイト先と家の往復。代り映えのない。

 すると、今まで以上に勤務時間が増えたことで、ミスも増えた。勿論、怒られる。


「善家、お前自分の日本語が〝変〟って自覚ある」

「考えればわかるだろ」

「いいよね。クレーム受けるのはこっちなんだからさ。

 真面目にしてくれない?」


 蝉の声が煩わしくて、汗ばんだ肌が気持ち悪い。どうしてこんな思いをして、怒られてまで、働いているのだろう。

 最初は些細な忘れものからだった。制服のズボン、次は帽子。私は、次第にゴミを捨てられなくなり、お風呂に入れなくなった。何にもする気もなくて、布団に潜り、携帯が鳴り響くのを、耐えていた。そのうち携帯は鳴らなくなった。

 冷蔵庫や戸棚の中から、どんどん食べ物が消えていく。

 抜け殻のように、二週間くらい過ごしていると、扉がノックされた。コンコンと鳴った後、少しの間をおいて、ドンドンと叩かれる。

 どうせ宗教の勧誘とかだろう。痒い頭を搔きむしると、頭皮の油が指に纏わりつく。酸っぱい臭いと、酸化した油の臭いが、自分からする。

 このまま死ぬのかな。なんてぼんやりと考えていると、急に蝉の音が大きくなった。

 玄関のほうに目をやると、白いワンピースに身を包んだ、すみちゃんがいた。

「すみちゃん……。すみちゃんがいる……」

 フラフラと、振り子のように揺れながら歩いていくと、すみちゃんが駆け寄ってきた。花のような、甘く柔らかな匂いがする。

 すみちゃんは、汚れるのも気にしないで、私のことを抱きしめてくれた。すべすべの肌には、玉のような汗が浮いていた。すみちゃんの肩と胸は上下に揺れていて、息は荒かった。

「心配、したんだよ」

 私の肩のあたりに、生暖かさが伝わってきた。すみちゃんは私のために、怒って、涙を流してくれている。

 私の目頭も温かくなって、鼻先が湿ってくる。二人して,よくわからない言語を話しながら、嗚咽をこぼしていた。

 確定していた勤務を終えて以来、シフトの連絡がつかなくなり、マネージャーがすみちゃんに電話をしたらしい。

 すみちゃんに促されて、充電がなくなった携帯を充電し、起動してみる。今まで見たこともないほどの着信履歴。中には、すみちゃんや千景の名もあった。

「助けに来たよ」

 ちょうど日が当たって、すみちゃんのふわふわした髪の毛に反射する。どんなことでも受け止めてくれそうな、慈愛に満ちた顔には、力強さも交じっていた。

 すみちゃんは、お風呂を沸かし、溜めた洗い物、洗濯物を片付けていってくれた。途中、いくつか断りを入れながらも、どんどん部屋を片付けていってくれる。

「ごめんね。こんなに汚いのに、嫌だよね」

 お風呂が沸いたよ、と私にタオルと衣類を抱えさせ、お風呂場まで背中を押してくれる。

「みっちゃんの部屋は汚くなんてないよ。ちょっと散らかってるだけ。水回りの掃除も、ゴミの分別だってちゃんとしてたよ」

「ゆっくり温まってきて」、と言ってくれたすみちゃんの顔が穏やかで、泣きそうになった。

 すみちゃんは、私の一人暮らしの愚痴を、いつも楽しそうに聞いてくれた。私の当たり前は、すみちゃんの特別だったみたい。

 洗濯も、掃除も、ご飯も作ったことがないって、言ってたよね。

 お風呂から上がると、ドライヤーを持ったすみちゃんが待ってくれていた。すみちゃんの背後で、干されている洗濯物は、布と布がくっついていて、乾きづらそうだった。

「何から何までごめんね」

 ドライヤーにかき消されて、何を言ってもきっと届かない。

「どんなみっちゃんも好きだけど、〝ありがとう〟のほうが嬉しい!」

 そうだったね。すみちゃんは、いつだって、私の忘れ物を拾ってくれていたもんね。

 家事なんてやったことがないから、と恥ずかしそうなすみちゃん。

 仲良くくっついている洗濯物も、びちゃびちゃに濡れたシンクも、全部愛おしかった。

 二人で馬鹿なことを話しながら、一緒に片づけた。隣の人に壁を叩かれるくらいには、盛り上がりを見せていた。

「私が辞めたの、みっちゃんが原因じゃないよー」

 そう言われて安心したのとは別に、すみちゃんが辞める要因に思い当たる節がなかった。

「私って世間知らずでしょう。テンポ間も合わないし」

 確かにすみちゃんはゆっくりとしている。でも、怠けているとかそういうのではなく、品の良さや優美さに繋がっている。

「でもそれって、すみちゃんの良さじゃん。私憧れる」

 私はどちらかというとせっかちで、優美さなんて微塵もない。すみちゃんは畳の上に寝転んで、私を手招きした。私も寝転ぶ。

「みっちゃんはさ、ずっとカウンターしか任されないのは、自分がそれ以外できないからって思ってたでしょ?」

 なんでわかるんだ。「ほら、顔」とすみちゃんに言われ、自分の顔を触ってみる。すみちゃんの目が細まって、眉が下がる。へにょって感じ。

「みっちゃんは、レジ打つのすごく早いんだよ。でね、素直だから、お客さんとの会話で零れる笑顔が、素敵なんだよ」

 そんなこと誰にも言われたことない。「すみちゃんが買いかぶってるだけだよ」と告げれば、私の目を捕らえて、「嘘なんかじゃないよ」と言う。

「私が辞めたのは、あそこで上手く関係を築けなかったからだよ」

 すみちゃんは一切気にしていなかったが、すみちゃんのバイト先での話を聞いた親御さんが、怒ったらしい。当然だ。

「どんな時でも笑顔でいてくれるすみちゃんを辞めさせるなんて、馬鹿だな」

 次はどんなバイトにしようか、なんて話し出す。いつの間にか日が沈んでいた。

 今夜は泊ってくれるらしい。

 外に干していた布団を取り込みながら、「親御さんは納得したの?」と聞けば、「納得させた」と返ってきた。

「私ね、みっちゃんのおかげで、お父さんたちと、一線を引くことにしたの。ここままじゃダメだって思った」

 そう言うすみちゃんの手には、何枚かの宅配ピザのチラシが握られていた。

「ハーフ&ハーフって何?」

「二個の味を半分ずつ食べられるの」

 すみちゃんが電話をかける瞬間を隣で見つめ、言葉に詰まったら、小声でヒントをおくる。

 二人して、ピザのチーズがどこまで伸びるのか競った。

 扇風機しかない部屋では、寝苦しい夜を過ごした。枕元に熱中症対策のお茶を置いて、何度も寝がえりをうった。

「私たち、職場でしか会ったことなかったよね。これからは、ピクニックに行ったり、一緒に勉強したりしよう」

 額に張り付いた髪を払いのけ、頷く。


 あの日以来、私は今まで通りの生活に戻った。適度に距離をとりながら、お金を稼ぐために働く。変わったことと言えば、たまにすみちゃんと外で会うようになった。

 今日は千景と会う。

 千景はどんな時でも余念はない。今日だっておしゃれだ。

「いろいろ大変だったんだって?」

 首を傾けながら、サングラスを外す姿も様になっている。

「公園か図書館に行こう」と言えば、快気祝いだと、おしゃれなカフェに案内された。

 よくわからないから、千景に好みだけ伝えて、注文してもらう。

 入院事件以降の話をすれば。千景は腹を抱えて笑い始めた。ムカつきはするものの、ここの代金と、この間のことがあるため、拳を握りしめる。

「てかさ、あんたの親ってほんとに変だったね」

 いきなり家族の話をされ、顔から表情が抜け落ちていく。

 千景が電話した次の日に母と会ったらしい。

 少し話をしていると、たまたま父から電話がかかってきた。その電話の内容は、「未季穂が重篤でないなら、ご飯を作りに帰ってこい」というものだった。

 私から聞いた夢のような話が、目の前で繰り広げられ、やっと異常性を理解したらしい。そして、なぜお金に拘るのかも。

「あんたは、俺が何でこんな格好するのか聞かないよね」

 運ばれてきたパンケーキに舌鼓を打っていると、千景が爪の確認をしながら、私の顔色を伺ってきた。

「人に迷惑さえかけなければ自由じゃない?」

 そうだけど、そうじゃないとでも言いたげな面持ち。

「あんたのことばっかじゃ、ずるいかなって思ってさ」

 肩を少し上げ、上目遣いの千景は確かに狡い。私は彼に見つめられると、時が止まったかのように、一瞬体を動かせなくなる。

「俺の母親はさ、女の子が欲しかったんだって」

 千景の母親は女の子を、我が子として望んでいたらしい。性別こそ男であったが、千景はとても愛らしく、女の子と言われても信じてしまう。

 千景の子育てに関し、意見が合わなくなった両親は小学校に上がる前に離婚した。そして、東京に来たらしい。

 千景は中学校に上がるまで髪を切ることも、ズボンをはくことも許されなかった。

「子どもにとっての親ってさ、暗闇に存在する灯台だと思うの」

 千景の顔には、彼の母に対する憐れみと、呆れが浮かんでいた。ただ、こんなにも心地よさそうに話す千景は、初めて見た。

「俺は母親に、可愛いことがすべてって教え込まれてきた。だから常に可愛くしてるの」

 肘をつき、その手を組み直す度に、綺麗な黒髪が、ゆらゆらと、揺れ動く。

「常に愛されるために」

 千景は、自嘲気味に笑った。私は、いつの間にか彼の手を握っていた。

 どうしても、「あなたはちゃんとここにいるよ」って、伝えなきゃいけない気がした。

 さっぱりとしたアイスティーで口を潤わせ、彼の目を捕らえる。

「愛は呪いだよ。それを毒とするのか、良薬とするのかは本人次第」

 大きな目がどんどん揺れ動き、最後は視線をテーブルに落としてしまった。私は千景の旋毛を見つめた。

「千景が好きでしてるんなら、いいやん」

 千景の顔を下から覗き込む。「不細工だから見んなよ」と言う千景の手からは、少しずつ力が抜けていった。

「あなたはどんな時だって、可愛いよ。私は、千景の存在が愛おしくて、たまらない」

 思っていた言葉を、雨が降るように、千景に振りかける。

 千景はゆっくりと、私に視線を向けた。その面持ちが、なんとも晴れ渡っていた。演出された可愛らしさ の下には、幼子のような屈託のない微笑みがいた。彼のまろい頬を撫でると、「メイクが崩れる」と怒られた。


 五、ルーツ


 荒稼ぎし、二人の友人と過ごしていたら、休暇も終わっていた。バイトに行っていたおかげで、生活リズムが大きく崩れることはなかった。

 しかし、シフトを出しすぎてしまう悪癖も得た。倒れたという前科があるため、千景に見てもらいながらシフトを組んでいた。

「前期の成績どう?」

「三・八」

 あり得ないものでも見るように、私を見てくる。

 後期はいくつか同じ科目を履修した。新入生のみで構成される講義がある。それは通年でクラスが変わらない。

 驚くことに、私たちは隣のクラスだった。

「あんた隣のクラスだったのに認識してなかったわけ?」

 この講義は学問を深めるというよりも、新入生に必要な知識を授けるというようなものだった。

 グループに分かれ、先生が与えたその時の題材について議論し、発表したりもする。関わりのない学生とは一切接点がなかった。

 特に、入学当初の私は精神的に追い詰められており、周囲の人を気にする余裕なんてなかった。

 想い出してみると、私が倒れたのはこの講義の後だった。

 お昼は一緒に食べようなんて言って、各々の教室に入っていく。

「ねえねえ、村上君と仲いいの?」

 接点のない女子が私の周りを包囲した。話す程度だと答えれば、彼女たちはキャーキャー騒ぎ出した。

 そういえば千景は、イケメンだったっけ。彼も大変だな、なんて考えながらも、適当に彼女たちの相手をする。

 チャイムが鳴り、先生が入室すれば、蜘蛛の子を散らすように、どこかへ行ってしまった。

 私はこの講義は比較的好きだった。参加して、適度に発言したら単位を貰えるから。

 学生たちの生活リズムの心配の話から始まり、先生がその日気になることを、議題として提供する。

「僕この前、通勤ラッシュの時に誤って女性専用車両に乗ってしまいまして」

 東京に初めて来たときに驚いたのは、女性専用車両だった。私はもっぱら自転車生活だから、電車のお世話になることは少ない。

 彼曰はく、その時の女性たちから浴びせられた、非難の視線が痛くて仕方なかった、と。

 この大学は、男子学生の割合のほうが多い。男子の話に耳を傾ければ、罰ゲームで、わざと女性専用車両に乗ったことがあると、楽しげに話していた。

 何が面白いのだろう。不愉快だ。

 話は、どんどん熱を含んで、発展していく。化粧もしていないブスに痴漢と勘違いされたことがある。間違っても触らない。

 そう言えば、以前バイト先で、男性のお客様が、女性スタッフ(わたしたち)の話をしていた。あの子は軽そう。あいつは論外。

 なぜ彼らは、男が女を選ぶ立場として、話を展開しているのだろう。

 収拾がつかないまま、講義は終わった。でも、膨れ上がった熱はなかなか収まらないようで、周囲の目なんて気にせずに、話し続けていた。

 教室を出ると、心配げな千景が立っていた。女子学生たちは、千景がいることに気がついても、静かに去っていく。

「顔やばいよ」

 今口を開いたら、千景に当たってしまう気がした。口に力が籠る。なんとか頭を冷やすために、建物から離れた。

 興奮した彼らの声は、隣の教室まで届いていた。デリケートな話題であるから、私から話し始めるのを待っている。

「東京って、女が女を求められない場所だと思ってた」

 私は前髪をかきあげ、額に手を当てる。そのまま頭を抱え、机に突っ伏した。

 東京の男は、器用に自身の加害性を隠している。いや、もともと潜在意識に備わっているのかもしれない。それが、自身のプライドを傷つけられると、牙を剝くのだ。

 千景はその日一日、私に触れようとしなかった。


 あの日以来、何となく、地元のことを思い出してしまう。

 一人で暮らしていると、父への恨みも、薄れてきた。でも、忘れちゃいけない絶対に許しちゃいけない。

 私はずっと憎しみ続け、走り続けなくてはならない。じゃないと、報われない。

「そんなに嫌いなら、忘れちゃえばいいのに」

 千景に言われた。

 軽々しく言わないでくれ。

 でも、そうだ。段々と薄れてきたのなら、本来必要のないものなのかもしれない。

 あいつについて考えれば考えるほど、自分が嫌いになっていく。今使っている布団も、家具も、家から持って来たものはすべて、あいつの金だ。父親の金を食って、ここまで育ってきたようなものだ。

 気づいてしまうと、受け入れられなくなる。

 私は自分から、家に、父に、縛られようとしている。わかってはいるけど、じゃあ、今までの私を誰が尊重してくれるの。

 学校に行って、バイトに行って、空いた時間は常に思考を巡らせてしまう。自分という存在が汚くて、全身を掻きむしる。

 どうしようもなくなって、いっそ死のうかな、なんて考え始めた。

 そんな時、すみちゃんからメールが来た。

「久しぶり。私は今、お花育てサークルに参加しているの。今度の学祭で、育てた花を使って催しをするから、来て欲しいな」

 すみちゃんの真似をして、読んでみる。全然似てないや。

 ふっと声が漏れて、そのまま笑い転げてしまった。

 最後まで読んでいくと、「ちあきさんにも会ってみたいな」と添えられていた。

 次の日、お昼を食べている時に、それとなく聞いてみた。

「お茶大の学祭?」

 他の大学に行く機会なんて滅多にないし、と二つ返事だった。

 すみちゃんに、お誘いの返事を書かなきゃ。

 携帯の画面を見つめる私に、一人の視線が突き刺さる。千景がドリンクを飲みながら、じっとこちらを見ている。

「なによ」

 そっぽを向いた千景に、「俺と話してる時より楽しそうなんだけど」と言われた。

 確かに、すみちゃんと話している時は、ふんわりとした女の子になる。千景といるときは、母親に甘えるような感覚だ。猫をかぶっているというより、どちらも私の素だ。

「よくさ、女の子は男子と遊ぶ時より、女子と遊ぶほうがメイクに力を入れるって、言うじゃん」

 なんていうのが正解かわからないが、感覚でいうとそんなものだ。しかし、言葉を口から発した後で気がついた。

「まって、別に千景が男だからってわけじゃないから!」

 私は性別で、二人を線引きした。生まれ持った特性で役割を決めることの非道さを、私は身をもって知っているはずなのに。

 私は、ベンチからずるずると体を落し、両手で顔を覆う。

「あんたって本当に面倒くさいね。その素直さが良いとこでもあり、悪いとこでもあるけど」

 指と指の隙間から千景の顔色を伺う。呆れたように笑う姿は、母親みたいだった。

「まま……」

 つい、そう呟いてしまった。千景は猫みたいな大きな眼を見開いて、「はぁ?」と言った。これは、恥ずかしさと、怒りが混ざっている時の顔だ。

「あんた、自分の母親のこと〝ママ〟って呼んでないでしょ」

 唇を尖らせる千景。

 ああ、千景とすみちゃんがいない世界なんて、耐えられない。二人に会うために私は、今を生きている。


 学祭に行く日、服を着て鏡の前に立つと、自信がなくなる。やっぱりこれじゃない。いろいろ着てみたが、なかなかぴんと来ない。

 時計をちらちらと確認していると、ハンガーにかけられた服が目に留まった。これは京都に行くために千景に選んでもらったもので、今の時期だと少し肌寒い。

 でも、つい手が伸びていて、いつの間にか家を出ていた 

 天気には恵まれ、暖かな陽ざしが降り注いでくる。しかし、冷気を孕んだ風が私の肌を撫でつけてきて、つい身をかがめてしまう。

 国立駅で待ち合わせをし、そこから電車で行くことになった。あって早々に、千景が着ていたカーディガンを渡された。

 開口一番に、「鳥肌立ってんじゃん」と言われた。口では否定しながらも、自販機でコンポタを買ってもらった。

「お茶大行くのにこんなにお金と時間かかるんだね」

 三分間隔で来る電車にも、慣れてしまった。のんびりと電車に揺られ、車窓から眺める景色に気を惹かれていた。二人して乗り過ごしそうになったことは、すみちゃんには内緒だ。

「すみちゃんってどんな子なの?」

「ほわほわしてて、めっちゃ可愛い。生クリームみたい」

 普段物怖じしない千景が、珍しく身をかがめ、腕をさすっていた。いくつかのブースを通り過ぎ、花特有の匂いがうっすらとしてきた。

 そのまま歩いていくと、私たちに気がついたすみちゃんが駆け寄ってきた。両手には花が握られており、声をかける間もなく、ウェルカムフラワーを髪に花を添えられる。

「生ちあきさんだ。北島すみれと申します」

 すみちゃんはスカートを翻しながら、「よろしく」と手を差し出した。千景もその挨拶を受け、すみちゃんの手を取る。

 ブラックダイヤモンドのような、磨かれた美しさを持つ千景。向日葵のような、堂々とした自然な美しさを持つすみちゃん。

 系統は違うけれど、二人が並ぶと、とても絵になる。二人が何を話しているかはわからないが、気後れしてしまう。

「みっちゃん、今日のお化粧とっても素敵。千景さんと選んだって、言っていたもの?」

 いきなり声をかけられて、「あ」だとか、「う」しか出てこない。私の代わりに千景が答えてくれた。

 すみちゃんにアテンドしてもらいながら、気になったブースに寄ってみる。いつの間にか手には、チョコバナナや、たこ焼き、チュロスが握られていた

 食べ物以外にも、個人の留学記が展示されているなど、学祭という名を冠するだけあった。

 私を中心に、話の輪が広がっていく。いつも、何かに思考の片隅を乗っ取られていた。今日は、何も考えられない。そんな隙がないほど、瞬く間に幸せが押し寄せてくる。

 三人で話していると、劈くような声が辺りの空気を支配した。

「女はいいよな、どうせ馬鹿にしてんだろ?」

「何とか言えよ!」と、男の怒声が響き渡る。事態を聞きつけた大学職員が、私たちの後ろから飛び出してきた。

 すみちゃんは「たまにあるんだよね」と教えてくれた。

 私は、急に怖くなった。あの男の衝動が、暴力に変容することが。

 千景が、私とすみちゃんを隠すように、守るように、前に立つ。その日は、たった一人の男のせいで、学祭は重い空気を纏ったまま終わった。

 すみちゃんは、眉一つ動かさなかった。打って変わって、千景は、唇を噛みしめ、心配そうに周囲を見回していた。

 すみちゃんは、前もバイト先でセクハラを受けたことがある。お釣りを渡す際に、男から強く手を握られた。

 私じゃどうしようもなくて、マネージャーに言って、すみちゃんを休憩室に連れて行った。

 すみちゃんは、「嫌ではあるけど、私はあの人を裁くことはできないから」と言っていた。

 でも、もし私がそんな目にあったら、絶対に許さない、と力強く告げられた。

 すみちゃんの中には揺るぎない軸があって、自分を信じることができるからこそ、自身のことには鈍感だった。動じないということは、彼女にとって、一種の美学なのかもしれない。

 冷たいとか、そういうわけではない。

 だって、女の子が職員さんに保護された姿を見届けるまで、その場から離れるそぶりを見せなかった。彼女は、あの子を「かわいそうな被害者(女の子)」にしなかった。

 千景はきっと、私の性別のことで悩んでいたから、より意識していたのだと思う。

 私は、男が女を攻撃したから許せないのかな。いや、そんなことはない。千景が男に同じことを言われても、私は歯がゆいと思う。

 あの男は、彼女の〝性〟を、尊厳を踏みにじる際に用いた。本人の意思で選択することのできない、〝女の性〟を。


 バイト先の男女で区別された制服。女だけに、社会から義務付けられた、ストッキング、踵の高い靴の着用。化粧。

 女の発言を、権利を奪うことで発展してきた地元。

 そして、そんな世の中で生まれ、育ったために、〝女〟は〝男〟よりも劣っている存在で、何をしても良いと勘違いしている男。

 私は別に、男性が憎いわけでない。

 私が今まで抱いていたものの正体はきっと――


 女という存在が、社会を動かす為の潤滑剤として扱われていたことに対する、主張(クレーム)だ。


 そんな簡単なことだったのか。ずっと悩んでいたのが馬鹿らしい。私はただ、こう言えばよいのだ。「〝女〟が踏みにじられることが受け入れられない」と。


 私は、社会でいうところのフェミニストの一員になった。

 このことを二人に伝えてみた。二人とも、「他の人を傷つけないならいいんじゃない」と言ってくれた。

 私は、学歴という観点から、この大学に進学すること選択した。専門的に学びたいことも、夢もなかった。

「あたし、弁護士になる」

 学食でラーメンをすすっている千景が咽た。

「あんたって本当突拍子もないね」とだけ言って、否定も肯定もしなかった。すみちゃんは、法科大学院に進むことを知ったら、奨学金の資料を、たくさん集めてくれた。

 田渕さんにも、あと六年間はここに住むことを匂わせた。ようこさんは、私が法科大学院に進学することを決めたと知るやいなや、新しいリュックを贈ってくれた。

 そして、父親との関係であるが、私は親からもらった身体に傷をつけるという形で解決させた。

 耳元で聞こえる、肉を引き裂く音が、脳からアドレナリンを放出させる。

 ハンバーガーショップを辞め、コンビニバイトを始めた。ピアスを開けた勢いで髪を切り、バイトを辞め、求人に応募した。

 平日の夜にピアスを開けたものだから、次の日も普通に大学はあった。この耳をお披露目した時の千景は、大変愉快だった。

 何と言ってよいのかわからず、「最高にかわいいよ」という言葉しかくれない。

 泣きそうになり、目頭を押さえている姿なんて母そのもの。千景は、合計八個開けたピアスの箇所を一か所一か所確認し、肩を落とす。

「あんたバイトはどうするの?」

 日頃から私が、お金の心配をしていることを知っている千景。コンビニでバイトすることを話せば、「またとんでもないところに行くね」と、呆れられた。

「私ってさ、食べることが、生きること、が好きだったみたい」

 それだけ言って、真ん中にちょこんとジャムが添えられたパンを頬張る。

 すみちゃんにも、ピアスを見せた。その次に会ったとき、すみちゃんから小さな紙袋を渡された。持ち手のリボンに施された香水の匂いが、紙袋の中身への期待を高める。

 なかにはアンテナショップのものから、高そうなものまで、幅広いジャンルのピアスが入っていた。

 こんなに高価なものは受け取れない。紙袋をすみちゃんに返そうとした。

「ピアスって可愛いけど、私は開けることはできないから、みっちゃんの耳を借りることにするの」

 だから受け取って、と言われれば、黙って受け取ることしかできない。

 笑顔の中に、有無を言わせないような、圧がある。圧と言っても、委縮してしまうようなものではない。品があるヤンキーみたいな、圧倒的なものを感じる時がある。

 私の中で最近、すみちゃんの印象が変わった。すみちゃんは、ジンジャーブレッドのような、パンチのある女の子だった。


 六、協立


「あの、善家先生はいらっしゃいますか?」

 以前連絡をくれた女性が事務所に来た。揺れる瞳が、緊張していると、主張している。

「私が善家ですよ」

 そういうと、耳に視線を持っていたのち、気まずそうに眼をそらされた。自分の耳を摘み、気になりますよねといって、相談者をソファーへ誘導する。

「これは私にとって、戦化粧のようなものですが、裁判の際にはすべて外します」

 私は何があっても、貴方の味方です。そういって微笑み、依頼主を勝たせるために日々奮闘している。

 私は運よく司法試験に一発合格し、そのまま大手の事務所に所属することができた。ある程度ノウハウを得たら、独立する予定だ。

 私より先に学生生活を終了した二人も、社会人として頑張っている。千景は美容部員から始まり、メイクアップアーティストになった。すみちゃんは、花の流通に関する会社に入社し、営業として走り回っている。

 田渕さん夫妻はアパートを取り壊し、ホーム暮らしを満喫している。たまに顔を見せると、お饅頭を握らせてくれる。

 実家とは完全に縁が切れた。感動的別れを遂げた母とも疎遠気味。母は私のことを好きだったが、それ以上に父を愛していたのだと思う。結局離婚していないから。

 母のことは可哀想な人だと思っていたが、本人は文句を言いながらも、納得しているのだろう。

 月日が経つとだんだん冷静になってくるもので、父のことは人間としていまだに嫌いである。この感情は私を奮い立たせてくれるので、適度に利用している。

 心に余裕が生まれた折に、いつから嫌いになったのか考えてみた。結論として言えば、幼少期の私にとって身近な母が、父の悪口ばかり言っていたからだ。

 子どもにとって世界の中心は、一番側にいる時間の長い人間だ。その人間が言うことを真に受け、その人を守ろうとする。

 父の問題と、女という性に関する問題は、関係はしていたが、別物だったみたい。


 傷があることは恥ずべきことではないが、なくても悪くはないと思う。生きていることはえらいが、死ぬことは不正解ではないと思う。

 近年、自分を受け入れることや、ありのままの姿を美化する傾向がある。しかし、自分だろうが嫌いな部分は嫌い。見せたくないものは隠してしまえばいい。

 自分を受け入れられないことを、受け入れればいいと、教えてもらえたから。

 すべて〝女のセイ〟にしても良かったけど、それじゃ、納得がいかないから、闘う。


とある俳優さんが関係している文学賞に出すために書きました。ここに投下しているということからお分かりいただけるかもしれませんが、間に合いませんでした。

ワードは嫌いです。なぜあんなにも書式設定とは面倒くさいのでしょう。

約一週間程度で書き上げたことには自分ながらに賞賛を与えたいですね。あと十分あればよかったのに。

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