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後篇

「まあまあ、こんなに飲んでしまって」


 スナックの女将は酒を飲み潰れた男性をソファーに寝かせると、団扇で扇いで甲斐甲斐しく介抱した。


「本当にすみません。此方でタクシー拾って送りますんで」


 男は顔を赤く染めながら、羞恥と酔いで汗に濡らした頭を幾度も下げていた。


「気にしなくても良いのですよ。よくある事ですから」


 スナックの女将は濡らした手拭いで上司の額を拭うと、優しい笑みを浮かべた。上司を気遣い視線を落とすと、後ろから持ち上げた髪から伸びるスラリとした領が露になる。「女性的な思い遣りに惚れた」そう言い切ってしまえば、如何にも初な若気の至りと言えよう。三十路に満たない若者の眼には、その仕草の全てが妖しく艶やかに映ったという。


 それからというもの、男は女将を訪ねる為にスナックに通い詰めた。厭らしい気持ちが無かったと言えば嘘になるだろう。だが、女将と話をしている時間は時を忘れて素の自分を晒け出す事が出来たというのが事実であり、身体の関係を求めずにも、それだけで十分に満足だった。


 しかし、とある日から女将は彼を避けるようになった。男が丁度独立し、事業を立ち上げようとしていたその時であった。一人前の男として女将に自分の気持ちを伝える為に、どんなに辛くとも頑張ってきたというのに、それではあまりに不憫であった。


 男は女将に問い詰めると、「悪い女であるので、人生の門出には相応しくない」と言う。それでも男は構わずに気持ちを伝え続け、ようやく結ばれる結果となった。「事業が上手くいくかどうかは分からない。良い結果にならなかった時こそ支えて欲しい」そう伝えて掴んだ、十程歳の離れた淡い恋であった。


 程なくして男と女将は同棲を始めた。場所は調布市深大寺。多くの自然に囲まれるこの町は、男の学生時代の下宿先であり、長い間都心で仕事に勤しんだ二人にとってとても魅力的な場所であった。都会の喧騒から離れて二人穏やかに暮らしたいという願いと、縁結びに由来があるという事から、すぐに決定したという。


 二人は幸せではあったが、暫くしても男の事業は軌道に乗らず、苦しい日々が続いていた。そんなある雨の日に、女将が生まれて間もない仔猫を拾ってきた。南の野川に流れ込む水路の畔で震えながら鳴いていたらしい。天台宗の別格本山が近くにあるにも関わらず、小さな命を置き去りとは何とも罰当たりな所業である。けれども、女将は他とは違い「我々と同じで此処にしか居場所が無い」と言って、金も無いのに随分と良くしてくれたものだ。その時の仔猫というのが、何を隠そう私自身なのであった。




 苦節五年目にして、男の事業がようやく軌道に乗った。喜ぶ男とは裏腹に女将は不安の入り交じった少し悲しそうな顔をした。


 女将の不安を嘲笑うかの様に、七年目にはついに株式の上場にまで漕ぎ着けた。男にとっては千載一遇のチャンスである。事業が軌道に乗るにつれ、男の帰りは遅くなった。しかし、決して女将を蔑ろにしている訳ではなかった。記念日は必ず二人で過ごし、贈り物も欠かさなかった。


 男の成功に比例するように、女将の元には頻繁に妙な男から電話が掛かって来るようになった。私の知らない人間であったが、女将は相手をよく知っている様で、今にも泣き出しそうな顔をしながら受話器の前で何度も頭を下げていた。何だか悪い予感がした。


 ある朝、一枚の書き置きを残し、女将は姿を消した。書き置きには「探さないで下さい」とだけ書かれてあった。男はすぐに警察に届け出たが、籍を入れた妻ではなかった事もあり、まともに取り扱っては貰えなかった。


 一ヶ月後、女将は死体となって発見された。血液の付着した刃物を握りしめ、男性の死体の上に折り重なる様に倒れていたという。


 当初この事件は無理心中とされていたが、男はどうしても納得がいかなかった。男も積極的に捜査に協力した結果、女将が悪い男達から脅されていた事が次第に明らかになっていった。女将と一緒に骸になっていたのが黒幕であり、男の成功を何処かで聞き付け、甘い汁を吸おうとしていた様である。


 昔、女将は黒幕と情事を交わした仲であったと聞いたが、私達にとってそんな事はどうでもよかった。一日の大半を女将と過ごしていた私は男の為に深大寺に厄除け祈願に赴いていた事を知っていたし、男もまた自分の成功を素直に喜べなかった女将を誰よりも深く知っていたからである。


 ようやく今までの不可解な言動を理解出来たとしても、死んだ人間は帰って来ない。手の打ちようのない現実に打ちのめされ、男は深海のような冷たく重苦しい悲しみに暮れた。


 只、女将のいない今、全てを懸けてきたと言っても過言ではない事業を畳んでしまう訳にはいかなかった。私を友人であった主人に預けると、男は悲しみを振り払うかの如く、一心不乱に働いた。例え過労死してしまっても構わなかったのだろう。


 そうしてあれから五年、数多の商談を成立させ、多数の従業員を抱える立派な経営者となった。女将は只々男の身を案じて参拝していたのだろうが、私にとっては男の成功が何よりも喜ばしかった。




 何故私がこれ程までに事の経緯を知っているのかと、不思議に思う人間もいるであろう。男も女将も主人でさえも、私の事を撫でながら昔の事を何度も語らい合うものだから、嫌が上にも覚えてしまった。しかし、昔を懐かしむついでに他人の過去をとやかく詮索するとは下劣の極み。いやはや、私もまだまだ小僧という事か。


 私は一つ大きな欠伸をすると、再び丸くなり目を閉じた。カランという鈴の音と共に男は店を後にしたようである。「男とまた逢うのは一年後か」そう思うと、少し寂しい気分がしない訳でもなかった。


 上手くいかない事があっても想いは残る。光り輝く物の全てが美しい物とは限らないのだ。例え悲しい恋だとしても、彼の人生の彩りである事に間違いは無く、間違いだらけの世の中で正しく生きていくには十分な糧となっている事だろう。命懸けで人生を繋いで貰った以上、生きる事を諦めるのは許されない。やはり、義理を欠くと陸な事がないのである。


 これからも男は毎年やって来るだろう。来年も、再来年も。


 小洒落た酒場のカウンターで一人静かに佇む男性を見た時は、そっとしておいて貰いたい。彼にもまた、昔を懐かしみ、想いに耽りたい人がいるのかもしれないのだから。

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