前編
カラリと音をたてると、その氷片は琥珀色の水面に沈んだ。
「大して酒も強くないのに、格好をつけて飲んで噎せたウィスキーの味を今でも思い出すよ」
そう言いながら沁々とグラスを見つめると、男は寂しそうに笑った。
私のよく知る男である。一緒に住んでいた事もあった。あの時と比べると随分と風貌は変わってしまったが、歳を取ったのはお互い様である。
そんな彼も一年に一度会うだけの間柄になってしまった。男にも生活があるから仕方の無い事だが、年に一度の特別な日には決まって現れ、店を貸切りにした。左手の薬指から指輪を外してカウンターに置き、いつもの銘柄のウィスキーをオンザロックで嗜むのである。
「コイツももう年なんだし、いつまでも会える訳じゃないんだから、もう少し来てやったらどうだい」
そう言うと、豊かな髭を蓄えたもう一人の男が私の頭を優しく撫でた。私は彼を主人と呼んでいる。今は彼の家にご厄介になっており、主人はカウンターのみの狭いながらも小洒落た酒場を営んでいた。
「毎日貸し切りじゃ、この店が潰れてしまうだろう?」
男は主人を指差すと、下顎を突き出して悪態をついた。どうやら勘違いをしている様で、私が店に立つ時は貸切りの時だけだと思っているようである。確かに私が男の元から此処へやって来て暫くの間は店に立つ事は許されてはいなかったのだから、無理も無い事なのだけれど。
「随分と羽振りが良くなったみたいだし、その分を払ってくれれば問題無いよ」
主人は何処か嬉しそうに笑うと、私の尻尾に手をやった。私が尻尾を振り、主人の手を撫でる。我々特有のコミュニケーションである。
「それにコイツは意外と人気もあるんだよ」
主人に褒められ、大変気分が良い。信頼とは勝ち得るものだ。私は胸を張り、得意気に男を見上げた。
「へえ、そいつは知らなかった。客には向かないって、一回断った癖に」
男はわざと口を曲げて意地悪を言うと、やや薄くなったグラスの中身を飲み干した。
シュッという音と共に銀色のライターが火花を散らし、男の煙草に灯が点る。深く吐き出された煙を嗅ぐと、私は過去を思い出さずにはいられなかった。ああ、この臭い。あの頃と同じである。私は身体を丸くすると目を瞑った。他人の人生をどうこう言う程に悪趣味ではないが、男の過去を知る者にとっては気にならない方が不自然であった。
「いつまで続けるんだい?」
「動ける限りは」
「所帯を持って、少しは変わると思ったんだがね」
「義理を欠くと陸な事がない」
「確かに」
「それに、さっきはもっと来いと言っていたじゃないか」
主人の問いに淡々と応える男。やや不満そうに思える。とはいえ、所帯を持つ男がフラフラと飲み歩くというのは一般的に褒められたものではない。小言の一つや二つ言われても当然であろう。
「普通に飲んで不満を吐き出しているだけなら幾らでも良いのだけれど、見ている此方も辛くてね」
そう言うと、主人は苦笑した。
事の顛末を纏めて説明すると、男にとっての特別な日というのは昔同棲していたある女性の命日なのである。毎年この日にこの酒場をを貸切りにしては過去を懐かしむのが恒例なのだ。
あの頃、男はまだ若かった。女性との出合いは上司に連れ添い足を踏み入れたスナックだと聞いた。たかだか男と女、雄と雌の事情。ここ調布市深大寺という土地柄、縁結びに纏わる話には事欠かないが、そうやって端に追いやるにはやや複雑で、そして悲しい物語であった。