4 未知との再会
* * *
心臓を抜き取られていたんだ。まさか自然死なわけがないよな。誰かがやったんだ。
快楽殺人ってのは、一件だけで終わるようなもんじゃない。人間の根源的欲求に根差した、言ってみれば食事みたいなもんだからな。一度、血の悦びを味わえば、もう引き返せない。死ぬか、牢につながれでもしない限りずっと。
なにせ時代が時代だ。若い男は誰も彼も徴兵されて、空からは焼夷弾の雨が降り注ぐ。そんな時代に、混沌を極めた時代に、まともな捜査なんて期待すべくもない。快楽殺人鬼には天国だろう。犯人は思うままに少女の心臓をつまみ食いできたはずだ。
尤も、戦後になって似たような事件が起きたって記録はない。なんでだろうな。犯人が徴兵でもされたのか、空爆で死んだのか、はたまた神託を受けて改心したのか。
真相は藪の中。神のみぞ知るってやつだ。
当時はきっと、そんな事件が腐るほどあったんだろうな。死体が見つかっただけましかもしれない。乱暴狼藉の果て山や野に打ち捨てられて、そのまま骨になった奴だっていくらでもいただろう。戦後になって掘り返されたのはそのごく一部。有名な小平事件だって本当は何人の犠牲者がいたのかわかりゃしない。
命の値段っていうのは相場制なんだろうな。戦争ともなれば紙切れほどの価値しかなくなる。
だけど――なあ、それで納得できるか? 受け入れられると思うか? 紙切れみたいに捨てられて、安らかに土に還れると思うか?
できやしないよな。自殺志願者でもない限り。
だから、終わらないんだ。この話は終わらない。
終わりにさせなかったんだ。
* * *
知佳の小学校時代のあだ名は「先生」だった。
それは何も勉強ができたからでも、動物図鑑の内容を暗記していたからでもない。知佳の「先生」は弁護士の「先生」だった。
知佳は記憶を信用しない。一日の最後には、メッセージカードに明日の自分に申し送りを書くし、付箋を持ち歩き、メモ代わりに使っては手帳や部屋の壁などあらゆるところに貼りつけた。
そして、誰かと約束するときは必ず書面に残した。
口約束はトラブルの元だ。言った、言わないで争いになるし、そうなれば声が大きい方が勝つ。知佳は体も小さければ、声も小さかった。守ってくれるのは明文化された言葉だけだ。
知佳は蒼衣との約束を書き残さなかった。両手がふさがっていたし、そうする暇がなかったからだ。
彼女はなんと言っていた?
――屋上の鍵はたぶん閉まってると思うけど、もし開いてても外には出ないで。ね? お姉さんとの約束。
たしか、そう言っていた。従うべきだろう。ほら、回れ右するといい。好奇心は猫をも殺す。青髭の花嫁はどうなった? 箱を開いたパンドラは?
かあさん ぼくのをかしましょか
きみ きみ このかさ さしたまえ
ピチピチ チャプチャプ ランランラン
知佳はドアノブに手をかけた。静電気でも流れれば怖じ気づいたかもしれない。しかし、ドアノブは慎ましく知佳の手を受け入れた。
鍵はかかっていない。ノブを右に回すと、ドアはすんなりと開いた。
外はまだ雨が降っている。知佳はドアに背中からもたれるようにしながら傘を開いた。
屋上側に向き直ると、瞬間、強い風が吹きつける。とっさに傘を前に傾け、風を逃した。借りた傘まで折るわけにはいかない。
誰だ?
鼻にかかった声が問いかけた。消え入りそうな声だが、おそらくは歌声の主と同一人物だろう。
傘を構えなおすと、開けた視界に小柄な影が飛び込んできた。
手すりに腰かけている。傘はさしていない。黄色いポンチョを頭からすっぽりとかぶっていた。
雨粒がまるで涙のように頬を濡らしている。物憂げな瞳が、知佳の全身を上から下まで舐めまわすのがわかった。
「あの――」
「ああ、なんだ。久しぶりだな」
見覚えのない少女がそう言った。
どこかで会ったっけ。そう口にするより早く、少女はビニールバッグを指差し言った。
「持ってきてくれたんだろ? お疲れ」か細い声で続ける。「小雨だしそこに置いといていいぞ」
「そこって」
「そこだよ」少女は顎で示すように言った。「祠に立てかけといてくれ」
では、幻覚ではなかったのだ。学校の屋上に祠が建っているというのは。
祠は屋上の中央からやや北側に位置していた。
街中で地蔵や道祖神が祀ってあるような、小さな木祠だ。
雨ざらしなのだろう、木材は傷み、朽ちかかっている。切妻屋根の下で観音開きの戸が開け放たれているが、中はよく見えない。三方の上に供えられたりんごが赤々と輝いているのがわかるだけ。
知佳はビニールバッグを手に祠まで近づいた。
これはいったいなんなのだろう?
テレビでオフィスビルの屋上に同じようなものがあるのを見たことがあるが、それは商売繁盛を祈願してのことだった。
ここは学校だから、天神様でも祀っているとでも?
それにしては、鳥居が見当たらないのが奇妙だ。街中の小さな神社だって、鳥居は必ずあるのに。
「間違ってたら悪いんだけど――」
知佳がビニールバッグを安置すると、少女から声がかかった。目が合って、しばらく見つめ合う格好になる。寝不足なのだろうか、瞼が少し重たげで、目の下にはうっすらと隈がある。
「ああ、やっぱりだ。髪、切ったんじゃないか?」
「わかるの?」
知佳は髪に手をやった。丸顔を包み込む、ひし形のショートボブ。生まれてはじめて、カラーも入れた。暗めのピンクブラウンだ。美容院に行ったのは、年末休業の少し前だった。
「そりゃあな」少女は何でもないことのように言った。「雰囲気変わったよな。似合ってんじゃん」
「あ、ありがとう?」
「ゆるふわって感じだよなあ。わかんないけど。ほら、名前忘れたけどあのタレントに似てるんじゃないか」
「それだけ言われてもちょっと……」
「ほら、あいつだって。アイドル上がりでドラマとか出てる」少女は意図を判じかねる手ぶりを交えながら言った。「なんかだいたい計算高くて鼻持ちならない役回りの奴だよ」
「……もっとほかの説明はないの?」
「そうそう、この前なんとかって動画チャンネルのなんとかって奴となんとかしたってスキャンダルがなんとかって雑誌ですっぱ抜かれて」
「ごめん。もう思い出さなくていいや」
「ん? そうか」少女は言った。「ニコと、若くしてあんな鼻持ちならない感じを出せる女優はそういないって話してたんだけどなあ。アヤは感情入れて見るから本気で嫌ってたけど」
「それはフォローのつもりなの?」
「ああ、そうだ」少女は聞こえなかったように、言った。「新年の挨拶がまだだったよな。あけおめ」
なぜか手を掲げてくる。ハイタッチの構えだ。
「あけおめ」
新年の挨拶ってこういうのだっけ。疑問に思いつつ接近し、手を振りかぶったが、少女は手が合わさる直前でひっこめた。知佳はそのままつんのめる格好になる。
「いや、考えてみるとハイタッチはおかしいよな」少女は首を傾げた。「悪い、ハルのノリが移った」
「そうだね。ホームラン打ったみたいになっちゃうね」どうにも調子が狂う。知佳は少女と少し距離を置き、話題を切り替えた。「それより、そんなとこに腰かけて何してたの」
「ああ、うん」少女ははぐらかすように言った。「海だよ」
「海?」
「ああ、言葉足らずだったか。うん。実はな、海、行ったことないんだ」少女は少し小声で言った。「ほら、ここ内陸だしな。直接この目で海を見たことがないし、潮の匂いも嗅いだことがない。波の音も――」
少女はそこで言葉を区切り、ポンチョの中をまさぐりはじめた。
「あれ、ないな」
「何が?」
「法螺貝だよ。耳に当てると、波の音が聞こえるんだ」
少女は諦めたらしく、手の動きを止めた。
「おかしいな。いちおう、人からもらったものだからなくすと困るんだけど」それから、不意に疑問に思ったらしく、「ところで、なんで波の音が聞こえるんだ?」
「えーっと、たしか自分の鼓動の音が貝の中で反響して波の音のように聞こえるらしいよ」
「そういうことだったのか」少女は感心したように言った。それから呟くように、「しかし、そうか、鼓動か」
「……で、けっきょく手すりに腰かけてる理由は?」
「うん? だからここに腰かけて海の音を――ってあれ今日は持ってないんだったな。じゃあ、なんでだ」
「わたしに訊かれても」
「まあ、習慣みたいなもんだからな」
そもそも、法螺貝と手すりの因果関係を訊いているのだが、もう追及する気も失せた。
「いつもそんなとこに座ってるの? 危ないんじゃない。雨で濡れてるし滑るよ」
手すりは屋上の縁より少し手前にあったが、体勢を崩せばそのまま下に落ちかねない。手すりの上のハンプティ・ダンプティ。落ちたら誰も元には戻せない。
「ああ、へーきへーき。こんなの慣れたもんなんだからさ」言いながら、両手を離して見せる。「な?」
「危ないって」
「心配しいだなあ。アヤじゃあるまいし――」
また「アヤ」だ。誰なのかと問いかけた瞬間、ふたたび強い風が吹いた。
向かい風だ。知佳は傘を前に傾けた。視界が塞がる。風が弱まるのを、知佳は傘の骨を数えながら待った。
一、二、三、四、五――
六まで数えたところでようやく風が弱まり、念を入れて八まで数えたところで傘を構え直した。
「え」思わずつぶやく。
知佳が傘の骨を数えている間に、少女は手すりの上から消えていた。