小説『タクシュン』
小説『タクシュン』
最初はエレイナが来たのかと思ったが、二週に一度の給料日(水曜)を間違える娘じゃあない。
今日は火曜日。施設に入って三年になるが、まだ衰えてはいない。
「ドクター・リーランドですか?」
来訪者に見覚えはなかった。
「まだその名前を覚えている人がいるとは思わなかったわ」
最初の夫の姓名で、論文の発表ではその名のほうが有名だった。
「初めまして。僕は、タクシュンです」
白人だが東アジア系でもあるのだろう。天使のような童顔で、年齢は不明だった。
「タクシュン?」
「ええ。英語でアダプト・ファルコン。漢字で『巧みな隼』と書きます」
「熟練したハヤブサ……。どうりで受付を抜けてきたことだけはあるようね」
どうやって許可されたか知らないけれど、この施設のセキュリティより有能らしい。
「質問があるようね。わたし個人でなければ答えられないような」
「はい、ドクター・リーランド」
「いいわ。どうせ長くない。ただし、ここではミセス・スミスと呼んでくださるかしら。ミスター……?」
「タクシュンとお呼びください、ミセス・スミス。それと、中庭のほうが話しやすいでしょう」
人目が多い。少なくとも暗殺を目的にしたのではないのだろう。
タクシュンのゆっくりした歩みに合わせて、車椅子が自動運転で隣に並ぶ。
米国軍人指定の施設だけに通路は広く、戦車一台分の幅がある。
「漢字、ということは中国人?」
「日本人です、ミセス・スミス」
「それはごめんなさい。日本はいい国だと聞いています」
「懐かしいですか?」
「行ったことはないのよ、タクシュン」
「当時の沖縄は米国でしたからね」
沖縄の復帰は、一九七二年(昭和四十七年)五月十五日。それまで沖縄は米国の占領下にあった。
「……タクシュン。わたしは基地から出たことがないのよ」
「いえ、一度だけ。一度だけ、夜の歓楽街で遊んだはずです。その時、事件が起きた」
「何のことかしら?」
中庭に到着すると、天井の樹脂ガラスから自然光が降り注いだ。
「海兵隊一等兵三名が少女を暴行しました」
目を細めたわたしには、隣のタクシュンの表情が見えなかった。
「あなたはその場にいました」
「いいえ。わたしはそこにいなかった。当時、沖縄にはいて、その事件があったのも知っているけれど、わたしは無関係よ」
「そうですか。では、ミスター・リーランドと離婚した原因は何でしょう?」
「タクシュン、質問は合計で何個あるのかしら?」
「あと二つか三つです」
笑顔を見せた。あの少女のようだったが、そもそもわたしに区別はできない。パピヨンを猫だと答えるような人間だ。
「……DVよ。殴られたから殴り返した。そうしたら顔が変わるまで殴られた」
「そうですか。では、ミスター・スミスが自殺した原因は何でしょう?」
「統合失調症による発作的な自殺と報告されています」
「妻としてのご意見はどうでしょう、ミセス・スミス」
「報告に同意するわ。少なくともわたしが教唆したり、幇助した事実はありません」
「お子さんは何人ですか?」
「娘がひとりだけ。エレイナはわたしの命よ」
「最後の質問です。ミスター・リーランドの死について、何かご存知ですか?」
「……そう亡くなったの。ドラッグを使わなければイイ人だったのに……。死因は何? コカインによる中毒死?」
「轢き逃げです。犯人は捕まっていません」
「そう……残念ね。質問は終わり?」
「ええそうです。ミセス・スミス」
「タクシュン、あなた前にどこかで会ったかしら?」
わたしは興味深くタクシュンの顔を見た。
「いいえ。今回が初めてです。そして、もう会うこともありません」
タクシュンが、わたしの車椅子に自室に戻るように指示を出した。
*
モニタを見ていたタクシュン医師が、振り返った。
「ドクター・ボーダー。すべての治験が終了しました」
妙齢の女性のIDに「Dr. エレイナ・ボーダー」とある。
「これ以上は無理そうね」
エレイナが溜息をついた。
「兄が不名誉除隊になったことも、元夫にDVを加えたことも、前夫を死に追いやったことも忘れている」
「ミスター・リーランドを殺害したのも彼女でしょうか?」
タクシュンが仮説を立てた。
「実行犯は兄のスウェインでしょうね。スウェインが亡くなった今、彼女が教唆した証拠は消えてしまった」
エレイナがコーヒーを口にした。冷めている。
「では、刑期はこのままですね」
エレイナの背後にいた仮釈放委員会の一人が尋ねた。
「反省の色はなく、仮出所は認められない」
不許可と審査された書類には、複数の第一級謀殺により刑期は合計一五〇年とある。
彼女が生きて、睡眠刑から醒めることはなくなった。
「それにしても、自分が腹を痛めた子供のことを忘れるとは……」
「それより現実に戻って、子供たちを殺めたのが自分だと知るほうが辛くないですか? 年を経った自分には」
タクシュンの言葉に、誰も答えなかった。