小説『花火』
『花火』
如実不確かなものに、幽霊がある。もちろん科学では実在を認められていないが、心情にあまりある事象といえるだろう。同じように、恋も不確かで危うい。こちらは心理学で語られているが、心の熱病といったほうがすっきりする。あるいは依存症か。
花火祭りのあと、吉岡が訪ねてきて杯を重ねるに「妹が懸想しているので困っている」と愚痴をこぼした。
わたしが「お相手はどなたかしら?」と訊ねると「しらばっくれるな」と返された。
友人の妹だからおいそれと手をだす訳にもいかず、それでいてうっとり見つめられては話もできない。
困っているのはわたしなのだが、それを妹の心配だと考える吉岡の自己中心的な考えは嫌いではない。それだけ妹が好きなのだろう。
吉岡に浮いた話はなく、シスターコンプレックスと考えるのが妥当だ。なお、日本には兄弟姉妹が互いに愛する禁忌を罰する刑法はない。あくまで私の罪であり、国家が罰する公の罪ではない。
わたしとしては私事にうとましいのは遠慮がちだ。執着がすぎる女は嫉妬も深い。
以来、花火をみていない。
距離をおいて幾年か過ぎた。
旅先に電報があり急ぎ帰ると、吉岡から封書が届いていた。
読むと、妹が花火の物怪に取り憑かれているとのことだった。
物怪とは、人に取り憑く悪霊のことだ。死霊が多いが、生霊や妖怪の類もある。だが、花火とは。
「恋路は闇か……」
一灯に魅かれる蝶蛾のようだ。何らかの怪に喰われているのかもしれない。なお、フランスでは蝶と蛾を区別しない。牛のホルモンであるハラミは肉に分類される。美味だ。
夜行列車から下りて駅前の花屋で切り花を買って病院に向ったが、面会時間が過ぎていた。
夜更けに一人、花束を持って歩いているのは滑稽だった。
街の明かり誘われるように橋を渡ると、見知らぬ女性が川の流れを見ていた。白のワンピース。
「こんばんは」
やさしく言うと、顔を向けた。美しい鬢が顔にかかり、薬指でといた。
「……こんばんは」
「こちらをどうぞ」
「……まあ美しい」
水無月は白く華やかだ。
「……彼女に振られましたか? わたしは振られました」
「そうでしたか。送りましょうか?」
「今は……今はもうすこしこのままで……月が溺れるのを待ちます」
水面の月が揺れていた。上弦の月は夜半に沈む。
「では、また会いましょう」
会釈して踵を返した。
「もう二度と会えないのに?」
女性が頭をかがめて問うた。
「それはどうでしょう」
それだけ言うと、軽くなった手に指をからめた。
川の流れだけが背に聞こえていた。
翌昼前、蕎麦屋〈よし乃〉(よしの)の座敷で冷や一合で板わさを食べていると、吉岡がやってきた。
「呼び出してすまない。――同じものをって昼間っから酒を飲んでいるのか? ああいやそうだな、ざるを一枚」
「もりにしておけ。――もりを二枚頼みます」
不服そうな吉岡だが、客人の言うに従った。どうせ金を出すのは吉岡だが、もりよりざるのほうが高級だ。海苔が付く。それに二番出しのもりと違い一番出しで味醂を多く使って甘く仕上げている。砂糖が高級品だったころの名残だ。今でも卵焼きに砂糖を入れる風習がある地域がある。
今日は甘味は要らない。
「まあ飲め」
伏せていた盃を返し、酒を注いだ。
「お前……」
「飲め」
空いた徳利を揺らすと、若い女中が「はあい」と声をかけた。よく見ている。
一口飲んだ吉岡が、顔を歪めた。胃を焼いたらしい。何も食べていなかったのだろう。目の下に隈がある。
「……那由子が」
女中が「お待たせしました」と出汁巻きと徳利をおいた。
空いた盃に注ぎ、手酌で盃を満たした。
「通夜は?」
「……明晩だ」
「そうか……」
奥においていた盆から、袱紗を手にとり広げて香典袋を手渡した。
「不謹慎すぎるだろう」
「金は要る。それだけのこと」
箸を割らない吉岡をそとに、出汁巻きを食べた。
あまり不幸になると、人は味覚を無くすという。まったく酔わず味もなかった。
二本目を空け、味のしないもりを食べたあと、朧げな吉岡を宅に届けた。
旧家らしく、仏間まで襖をはずした畳間が続いていた。縁起物の欄間の意匠。嵩がある座布団の房が幾重にも連なっている。盥の氷柱が地蔵のようだ。
険しい顔をした家令の志村が事を仕切っていた。女中がせわしなく働いている。こうした場合、男親族は酒を飲むことしかできない。女連中の支度を害しては死んでも噂されるだろう。
志村が男たちに命じて、吉岡を上座に寝かせた。
「お手間をおかけしました」
志村が一礼した。わたしを嫌っているが礼儀はある。志村から電報で、吉岡を眠らせるように頼まれていた。
吉岡の胸に香典袋を入れてあると伝えて、後にした。
身分を分ける家に長居するものではない。
吉岡と会うこともないだろう。たまさか顔を合わせたとしても、前の立場に戻れない。
不幸も祭りの一つなのだろう。吉岡の家紋と矢印が電柱にまで貼られていた。
病院に向い、橋を渡った。
すると、若い女性が対岸で待っていた。
昨夜とは違い、黒喪服を着付けていた。巻き上げた髪と項。
黒のワンピースの婦人が、細い目で二人を見ながら行きすぎた。
「お帰りですか?」
「礼はしたからね。――あなたが彼女のお相手かしら」
「まさか。弟よ。……弟は彼女に憑かれていた」
「『憑かれていた』とは?」
「言葉そのままに。彼女に恋していた。恋なんて熱病のようなもの三年で醒めるというけれど、醒めなかった。弟は祭りの夜の花火に憑かれてしまった」
「花火の物怪?」
「それは彼女も同じ。二人して花火になってしまった」
「『なってしまった』とは?」
「遠雷のように、遠く遅れて鳴っていたそうよ」
「あなたも聞いたのですか?」
「わたしは憑かれていない。いっそそうであればと思ったけれど、そうはならなかった。そうはならなかった」
「弟は花火を聞き、彼女は花火を見ていた。そして、火傷をした」
「そうでしたか」
「聞いていないのですか?」
「亡くなった事実だけで十分でしたので」
「聞かないというのは美徳なのでしょうね」
「多く知り過ぎると、何もできなくなりますから」
「……昨夜、弟の訃報が届きました」
事実だけを述べた。
「大砲で木端微塵になりました。幸い、片目だけ残っていました。ああこんなことなら……」
娘婿にふさわしくない人物を最前線に送ることなど吉岡の父には容易かっただろう。
「同じ日に、彼女は火傷をしました。けれど、片耳だけ残りました。不思議ですね。それが縁なのでしょうね。見えてはいるけれど聞こえない花火と、聞こえるけれど見えない花火……」
「どうなさいます?」
「片目だけでもいっしょにさせてくださらない? そのあと警察に」
*原案――高橋葉介『夢幻紳士 怪奇編2』「第十四夜 花火」(朝日ソノラマ)