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小説『二の前』

小説『まえ


 就業三十分前には到着した伊東いとうだったが、案内されたフロアに誰もいなかった。


 廊下を抜ける。


「おおっとっと!」


 両手に珈琲コーヒーカップを持った青年とぶつかりそうになった。


「ああごめんなさい。大丈夫ですか?」


「いや。床にこぼしただけ。……見かけない顔ですね?」


 首から吊るした名札に〈971宮内(KUNAI)〉とあった。


「すみません宮内くないさん、派遣の伊東なのですが、私の配属先をご存知ありませんか?」


「派遣のイトウさん?」


 宮内が頭を斜にした。


「聞いてないなあ……ええっと、何番です?」


「何番?」


「ああ、社員番号です。しも三桁が日本の神戸こうべ支社――KB1の社員番号です」


 見ると、宮内の名札の下に〈B00K2GC4I8KB1971〉と書かれていた。


「派遣だとdispatched employeeなんで、KB1じゃあなくて、KBDEで残りの二桁がその番号……番号がない?」


「ええ。あっはい。そうです」


「マンゴーがないなんておかしい……」


「マンゴー? 果物くだものの?」


「マンゴー? あーまたバグってる――number――ナンバー。番号」


「あっはい」


 宮内が伊東の持っていた紙を見た。ゼロが三つ〈000〉と記されていた。


(ゼロ)? それじゃあ何もないってことになると思う」


「いえあの私ここに来るように言われたんですが」


「誰に?」


「案内係の人にです」


「ヒト? 案内はAIだから人じゃあないんだけど……ここの番号を聞いたんですよね?」


「いいえ」


「じゃあまず、案内係に番号を聞かなくちゃあならないですね。戻って聞いたらイイです」


「はい分りました」


 伊東がていねいに頭を下げた。


「じゃあね」


 カップを持ったまま、右の第二指と第三指を立てて軽く敬礼した。


「あのお……」


 立ち去ろうとした宮内に伊東が声をかけた。


「うん、なに?」


「どうやって戻ったらいいんでしょうか?」


「何番の案内係かしら? いやあ、このビルディング広くて……番号、聞くの忘れました? じゃあ戻ることもできないなあ……」


「どうしたの? 珈琲が冷めるよ?」


 ドアロックを解除して廊下に出てきた青年が宮内に苦言を呈した。目を細める。


「サボってませんよ。迷い人です」


「派遣の伊東です」


 お辞儀をした。オートロックの施錠音。たぶん上司だろう。タグに〈710内藤(NAITO)〉とある。


 顔を歪ませる内藤ないとうに、宮内が簡単に説明した。


「何をバカなことを言っているんです? 数字が分からないなんてことはないでしょ? 今どき学習障害ディスレクシアでもAIが支援してくれているんだし……」


「そういうのとは別じゃあないですか? ただ本人は番号が分からないと言ってるだけです」


 カップを渡す宮内が擁護した。


「それがそもそも問題です。社員番号がなければこのフロア自体に入ることすらできない。必ずあるはずです」


「でもそれがない、または分からない、あるいは忘れた?」


「聞いていません」


 伊東が聞き忘れを否定した。


「では、こちらの落ち度でしょう。――ゲスト用の名札もないとは……」


「すみません内藤さん」


「それはそうとして、イトウさんは韓国のひとかしら?」


「だからどうしたっていうんです? 内藤」


「いや、祖父の時代に帰化したんでつい」


「プライベートな話は親しくなってからにしてください。内藤」


「すまない。イトウさんにも……申し訳ありませんでした」


 内藤が深く頭を下げた。


「どうぞ、顔を上げてください」


 両手を前に、伊東が一歩近づいた。内藤が頭を上げると、すぐに距離を戻した。感染症防止行動が身についている。


「イトウさん、この会社のように多くの外資系はそうした部分に寛容じゃあないんです。内藤は私の上司ですが、700番代なので課長クラスです。役職付ですから、その番号に敬意が入っています」


「そうなんですか……」


「偉そうに言っていますが、ボクは900番代でも下の971です」


「サボるから追い越されるんです」


ひらが一番楽しんだよ。――おっと、イトウさんだ」


「どうせ八代やしろがミスったのでしょう。案内に聞くといい」


 たぶん〈846八代(YASHIRO)〉という役職なのだろう。


「その番号を知りたいって話です」


「Hey Lethey!」


『はい、レティ=レティシアです』


 内藤の声に、女性型AIが反応した。


「Call ext. 171 please. ――宮内、あとは任せます」


 珈琲を一口飲んだ内藤が内線「171」を呼び出すと、二指の敬礼で立ち去った。宮内がぞんざいに返礼する。


 コンピュータ相手に「プリーズ」は不要だが、上司なりの皮肉だろう。人間ヒト相手では遠回しな命令口調になる。ツンデレの「やってくれないと困るんだからね!」に近い。もっともSな内藤はツンしかないが。なお、日本では外線「171」は災害用伝言ダイヤルに接続される。


『はい171、案内です。どうなさいましたか?』


 航空機の男性機長が話すような低音でゆっくりとした声でたずねた。


「ナンバーレスが一人いるので、確かめてほしい」


『音声認証――確認、971。――宮内くない、そのかたに意識はありますか?』


「ある」


『意志疎通、会話はできますか?』


「できる」


 宮内は仕事にそつがない。てきぱきと答えていく。


 それに応じて廊下の黒壁に、内容が緑色の小塚明朝こづかみんちょうで表示された。宮内が壁をタップして言語を橙色のFuturaフツーラに切り替えた。サンセリフ書体の英語のほうが読みやすいらしい。


「日本語で会話している」


 宮内の応答から、図書館で使われている日本十進分類法(NDC)のような項目から細かく分類されていった。同時に〝Cargo 200〟など急を要するけれど該当しない項目がリストから減っていく。


(貨物200便か……)


 伊東がロシア連邦によるウクライナ侵攻を思い出した。


 旧ソビエト連邦構成共和国の暗号「カーゴ200」が意味する「遺体が納められた棺」から遺体をさす。


 文字記録は英語だったが、音声が日本語なのは伊東を不安にさせない宮内のやさしさなのだろう。またそうした効率を無視した、いらぬ事が低い評価の原因なのかもしれない。


 ふつう生体情報以外では体内IDチップか、古い時代では携帯しているIDカードをかざすだけでデータを読み取ることができるが、伊東が迷い込んだ階層フロアはセキュリティレベル4だった。


 レベル3の業務エリアであれば物理接触することもできるが、社内でも特定の関係者のみが利用するフロアでは非接触であろうとデータが感染する恐れがあった。人工網膜から微弱な光線を出してビル全体を落とした例もある。


(あの時は「空裂眼刺驚スペースリパー・スティンギーアイズかよ」と話題になったなあ……)


 cf.『ジョジョの奇妙な冒険』


「Thank you. ――伊東いとうさん、ご家族のかたがお迎えに来られるそうです」


 宮内がエレベータを手で案内した。


「妻が?」


「ええ。とても心配しておられます」


 下ボタンを押す宮内が、やわらかく微笑んだ。


「何か……手違いがあったようですね。申し訳ありませんでした」


「こちらのミスでしょう。伊東さんがお気になさる必要はありません」


 開いたドアに先に乗った宮内が「Ground floor.」を指定した。セキュリティレベル4のフロアから移動するには同じレベルの人物が必要になる。


 英国式ビルディングの一階にあたるグランドフロアに到着すると、ワンピース姿の機械人形オートマタが一体待っていた。


「宮内、申し訳ありませんでした」


 女性型らしくヒトの血がかよう、やさしい声が印象的だった。首から吊った機械人形オートマタを示すIDがなければ、分解して骨髄検査するしか〝ヒトでないこと〟を証明できない。


「どういたしまして。――どうぞ、伊東さん」


「あなた、帰りましょう」


 妻のやわらかい手が、伊東の腕をつかんだ。


 振り返ると、妻と同じ年式の宮内が手を振っていた。






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