小説『A遺物』
小説『A遺物』
〝Relics of A〟
春先の雨にうたれながら駅に向かう人の傘が揺れていた。
まだ週の半ばだというのに誰もが疲れた顔をしている。ここ神戸でもそれは同じ。
風間広一もその一人だった。昨日までは。
「泉」
スーツのネクタイをなおすと笑顔で、若い女性に声をかけた。
淡い紫のワンピースの美しい女性は傘を斜めに通り過ぎた。
「泉」
もう一度名前を言うが無視されたので、後ろから女性の腕を掴んだ。揺れた傘から落ちた雨水が二人の腕を濡らした。
「待ってくれよ」
振り返った女性が、広一の顔を見て、腕に視線をやった。銀の眼鏡が一重瞼の印象をやわらかくしていた。強い視線を別にすればどこにでもいるような女性だ。
「ごめん」
広一が手を放すと、女性が腕の雫を払って、踵を返した。
「泉!」
腕を掴もうとするが、女性がかわしながら振り返った。
「触るな」
「泉だろ? ――風間広一だよ。高校のときにいっしょだった――ああごめん名前が変わったんだ。あの時は三島だった。三島広一」
吊るしのダークスーツだが真新しい。紺のネクタイもそう。今日の昼休みに買ったのだろう。
「どなたかとお間違えでは?」
低い声で相手の過ちを指摘した。
「あはっ、見間違う訳はないよ。泉だろ? 泉明日香、誕生日は――」
「言うな」
強い口調で女性が返した。
「個人情報を、公の場で言うな」
広一が瞬きした。
「うっ……ごめん」
「謝るなら最初からするな。考えなしに行動するな」
小さな声で明日香が感想を述べたあと、ゆっくりと深呼吸した。
「いやあの……昨日見かけたから」
「どこで? ああ……」
自分で質問しておいて先に答えを考えついたらしい。ここで、同じ時間に見かけたに決まっている。
「あのう……よかったら食事でも……」
明日香が遠くを見た。目をつむり、もう一度深呼吸したあとゆっくり眼鏡を正した。福井は鯖江の高級眼鏡だ。
「仕事中。……待って」
明日香が目を大きくしながら腕時計を確認した。セイコーの自動巻メカニカル。宝石はついていないが、広一の給与の三か月分くらいはするだろう。
「確認するわ」
そう言うと、道路脇に移動した。バーバリーのコートから出したスマートフォンに左手でフリック入力した。
「泉はいま何の仕事を――」
右手で黙っていろのサイン。
スマートフォンの振動。
「休暇をもらった。――レストランは予約しているんでしょうね?」
明日香が傘の柄に頭を傾けた。微笑む。
「えっ」
広一も幸運な予定は考えていたが、急すぎてついていけないらしい。
「アレルギーは? 嫌いなものは?」
「蕎麦がダメ。蕎麦アレルギー。茄子は食べ物じゃあない」
「美味しいのに……。私が予約するわね」
スマートフォンで検索して電話をかけた。
「わたくし、鰭﨑(ひれざき)音響事務所の長藻と申しますが――」
二十五分後に、コーサウェイ神戸十二階の上海料理〈アマランス〉に予約した。
タクシー待ちの長い列を通り過ぎ、止まっていたホテルのシャトルバスに乗車した。
傘入れに濡れた傘が二本あった。三宮で降車したのだろう。
初めて乗る広一が窓側に座った。雨がきつくなる。
「泉は――」
「長藻。名前が変わった」
「……ごめん。知らなくて」
「謝らなくていい。あなたは悪くない」
明日香がスマートフォンでフリック入力を続けながら、気遣った。
「何をしてるの?」
「申し送り」
引き継ぎ事項だ。
「あと、先に言っておくけれど、食事中に連絡が入ったら席を外すのでよろしく」
「うん、いいよ」
笑顔だった広一が、明日香の顔を見ると外を気にしていた。
「あっ席、こっちのほうがよかった?」
ふつうは女性を奥にする。レストランでもそうだ。淑女が壁側になる。
「いい。もう着く」
コーサウェイ神戸の正面部は、美しいゴシック調で統一されていた。
バスが横づけされると、背の高いドアガールが胸を揺らしながら自動ドアを開けた。
回転ドアもあるが、雨の日は使えない。
「いらっしゃいませ。長藻さま」
「ありがとう、ソフィ」
アフリカ系フランス人らしく、名札には複合名で「マリー=ソフィ・シャトレ」とある。
エレベータで十二階。他に人はいない。
「馴染の店?」
「仕事でよく利用しているだけ」
「音響事務所って?」
「うーん……。コンサートホールの音作り? 遮音とか?」
「それだったら、うちの会社で――」
「――着いたわ」
「明日香、久しぶり」
支配人の劉桃が出迎えた。五十を過ぎているはずだが、彫刻のように美しい。
「ようこそ」
広一にも笑顔で挨拶する。
「個室のほうがいいでしょう?」
十人部屋に通された。
「他にお客さんが来られたら移動しますので、太太から声をかけてくださいね」※太太は婦人の敬称。cf. 刀自。
明日香の笑顔を、見蕩れている広一だった。
「雨の水曜日ですもの。たぶん大丈夫よ。――どうぞ」
太太が椅子を押して、明日香を座らせた。広一も女性スタッフに椅子を押されて、振り向いた。微笑む太太が明日香の隣に座った。
「太太、こちらは高校の同級生の風間広一君。生駒市出身、年齢はまだ二十五歳。甲南大学経済学部卒業。山田栄建設総務部。――広一、こちらは太太。この店の美しいオーナー」
「どうしてそんなに知っているの? えっあっ、あの風間広一です」
「劉桃です。オーナーは大げさ。ただの女中よ女中。ゆっくりしていってね。お腹は……空いているわね。広一君は好きな料理はある?」
「蕎麦がダメです。蕎麦アレルギーなので。あとは茄子が食べられません」
「それは伝えたわ。好、き、な、料、理」
「えっ好きな料理? カレー?」
頭が真っ白になっているらしい。
「えっいえあっ、中華料理にカレーはないですよね」
「あるわよ」
一刀両断だった。
太太が手を横にすると、スタッフがメニューの該当ページを開いて渡した。
「カレー味の春巻があるわ。それにしましょう。お酒はワインでいいかしら?」
スタッフが注文をメモした。
「何でも……でもまずビールをいただけると、ありがたいです」
「はい。じゃあメニューはおいていくので、選んでおいてね」
太太がしなやかに前菜のページを開いた。
「ごゆっくり」
太太が明日香にウインクした。




