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小説『爪の下の糸』

『爪の下の糸』


 女がシベリアの遺跡から戻ったのが二日前だから、傷みは48時間以上つづいていた。言いだしたらきかない女だからとしても例の遺跡を「どうしても観たい」と言われたとき、一人で送り出したぼくがいけなかったのだろう。興味がないとはいえ、ぼくが注意していれば病気(?)をもらうこともなかっただろう。


 右手の人差指の爪の下に何か白い糸くずのようなものがあった。朝夕、ロキソニン60ミリグラムを2錠服用したが、傷みはおさまらず(女が嫌いな)病院に行くことになった。


 茶泉記念病院の石田医師の所見では「爪甲白斑」(そうこうはくはん)で、他に真菌などもなく外傷――傷みをおったことがないのかを聞いたが、女は「そんなことはない」の一言で終わってしまった。


 たとえば、ドアに指をはさんでしまったときに爪の生成が阻害され白くなることはある。実際そうしたことで白くなった覚えもぼくにはあった。爪が伸び、切ればどうということはない。


 けれど、継続的な傷みはない。


 それとは別に、妊娠していると告げられた。たぶんあの日だろう。女もショックはない。


 血液検査することになった。ままその間は様子見ということでもあるのだろう。鎮痛剤はカロナールを処方された。アセトアミノフェンのほうが安全性が高い。保険で安く買えたのはありがたかったが、女の痛がりかたは尋常じゃあなかった。


「指を落としてほしい」


 そう言えるほどの傷みらしい。しかし、原因も分からず切ったところで、もし仮に精神的なものであれば、幻肢痛として残ってしまう可能性も否定できない。現代医学は巨人の肩の上にあるとはいえ、いまだ人体実験の域をでていない。


 旅行から帰ったあとも例の伝染病で自宅待機だったが、そのあいだ女は指先が白くなるまで冷やしていた。挙上しつつ血行をゆるやかにすれば傷みは楽になるはずだが、それでも傷みはやわらがないらしい。


 週明けの月曜日の検査でも異常はなく、女が包丁をだしてきた。


 糸の量は増え、もう真っ白になっている。


「分かった」


 ぼくが答えた。いくらなんでも女に自分の指を落とさせる訳にはいかない。


 書架の奥にしまっていた蜜蜂のマークのソムリエナイフを手にした。


 ナイフをアルコールで消毒したあと、痛がる女の指を拭こうとしたとき、指先から糸が出ていた。


「冗談」


 と、女が左手でつまむと、それが僕の指にからまった。米国の異星人映画のように人差指でタッチする。


「うっ!」


 強い衝撃とともに激痛が指先から心臓に走った。


(これは!)


 ゆれる視界と、女が見ているはずの僕が、網膜に重なり、女の思考が脳に心象として蓄積されていく。



 極寒の遺跡で美少年が白い指を女に差し出していた。女が口にする。



 女の指先から糸車が回るように糸がつむぎだされ、女をおおっていく。


まゆか?」


 ぼく自身も指先の糸にからまり、動けなくなる。


 糸は玄関にまで伸び、扉の隙間から外にでた。ぼくの視線はその糸の先にあった。マンションのフロア一面を敷きつめたあと、それぞれの家の玄関に入っていく。


 隣は、マーゴ・ヘミングウェイに似た女性で昼間からシャトー・マルゴーの栓を抜いていた。バカラのグラスの糸くずをナプキンで拭きとるが、またついてしまう。天井を見上げると、蜘蛛の巣のように糸がはられていた。ボルドーワインのボトルが倒れ、カーペットを染めるがにじむよりはやく白くおおわれてしまう。


 キッチンから哺乳瓶の温度を頬で確かめる母が一瞬立ち止まり、ベビーベッドに駆けよるが乳児はすでに繭になっている。狂乱した母が糸を取ろうとするが、その手に糸がからまり包まれていく。


 階段をすべり落ちていく糸の束。


 アスファルト。電柱。排水溝。暗渠あんきょ



 繭をやぶった全裸の女はその背中に蝶の羽根があった。


 糸は意図を知るように窓を破り、女が羽根を広げた。10メートル……20メートル……。すっかり広げると、陽光でかわかすと羽ばたいた。


 女の腹のふくれは妊娠初期とは思えないが、しぼんでいく。空中で産み落とされた白い指が太陽の光で糸に窯変して空をおおっていった。


 強く光輝くその糸が経糸たていと緯糸よこいととなり美しく織り上げられていく。

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