小説『春雷』
小説『春雷』
〝Spring Thunder〟
前に書いた申請書のWordファイルをコピー&ペーストして複製してから、新しい文書名にある日付を今日に変えて開いた。
右上の日付が自動的に今日に更新された。
プリントアウトする。自動保存されたファイルを閉じると、キヤノンのプリンタから紙を取り出して、署名した。社内用なので、印鑑は要らない。
右手の書類を読みながら、狩野都 (かのうみやこ) が左手で右耳に触れた。
補聴器だ。
会社の福祉制度で補聴器の補助金が出る。全額とはいかないが、それでも七割近く助けてもらえるのはありがたかった。
補聴器の耐用年数は五年だが、三年毎に新しくしている。
香坂社長いわく「科学を使え」だ。
それでもかなり高い。
日常で使うにはかなり高価で、この会社にいなければこんなものを買う勇気はなかっただろう。
狩野が高級なレカロの椅子から立ち上がった。二十八歳。身長一六五センチメートル。容姿は自称まあまあ。振り向かれることはない、どこにでもいる顔だった。
香坂が提出された書類を見て、三年前の書類を取り出して二枚あわせると、天井の照明で透かせた。日付だけが違うと確認すると、サインした。
「どうぞ」
「ありがとうございます。翌檜 (あすなろ) 先生に書類を届けてから、午後から半休いただきます」
翌檜銀二 (あすなろぎんじ) 弁護士だ。障害者に理解があり、香坂が狩野の件を相談した結果、支給が決まった。税理士でもある翌檜が経費で落ちるよう指示してくれた。
「はい。気をつけて。車使っていいよ。僕は長藻 (ながも) さんと商談だから」
長藻の車で行くと聞いている。
「ナレキですね」
「そう……タマネギの一種らしい。打撲したところにスライスして貼るらしい。鎮痛効果があるそうだ」
「なんですかそれ。風邪を引いたら首にネギを巻くみたいな感じですか?」
「ナレキはどうか知らないが、ネギは効果あるらしい。殺菌効果でウイルスの繁殖を抑制するとかなんとか」
「それって本当ですか?」
「ヨソで言ってもイイそうだ」
問題ないらしい。
「……翌檜先生に何か言づてはありますか?」
「いやないかな。気をつけて」
*
会社がある地下駐車場は三台分契約しており、一番右に三代目BA7 Si Statesのジュネーブグリーンパールのプレリュードが置かれていた。リトラクタブル・ヘッドライトで美しいデザインだが、登録は一九九一年なので骨董品だ。同じ平成三年に、本田宗一郎は亡くなっている。
向かって左は来客用で、中央に初代アスコットがあった。マイナーチェンジ後のⅢ型の2.0FBT-iはエリック・クラプトンの「BAD LOVE」がCMで使われたのでクラプトンアスコットと言われている。
三十年以上も前の車をよく乗っているなと思って、狩野が香坂に質問したことがある。
「補聴器ひとつ満足に作れない世界が、まともに車が動くとは考えにくい」
科学を使うがまったく信頼していない香坂らしい返答だった。
あまり知られていないが、補聴器は電気で動いている。
聴覚障害は、単純に音を大きくすれば「聞こえる」というものではない。
音の高さ、強さ、音色という三つの要素があり、それらが適切であれば「聞こえる」ようになる。
ただし「聞こえた」としても、それが伝えたかった音なのかは分からない。
これは色に関しても同様で、同じ色の感覚をもつ人間は存在しない。だからこそ、色見本が必要になる。
キーで解錠してから、レカロのシートに腰を沈めた。ドイツでは腰痛の処方箋にレカロシートがある。腰痛持ちの香坂らしい判断だった。
エンジンを始動させると、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの交響曲第四十番ト短調K.550が流れた。
今どきありえないが、カセットテープだ。少しのびているらしく、ややゆるやかな演奏になっていた。
「ああ思い出した」
長藻にテープのダビングを頼んでいたのだ。
連絡しようかと迷ったが、長藻なら忘れないだろうと考えて、発進させた。
ゆるやかな坂を上り、表にでた。
雷にびっくりしてブレーキをはなしそうになった。
(危ない……)
「雷か……」
遠くで雷の音が聞こえたが、稲光も雨もない。ビルの向こう側に雲があるのだろう。
*
翌檜銀二の事務所は、神戸市中央区にある。三宮の駅前から神戸港に降りた中華街のまだ南にある。
近くのコインパーキングに入れると、書類ケース片手に狩野が歩き出した。
「セーフ」
定礎に「ビルヂング」と書かれた戦前のビルの正門横の潜り戸から中に入った。
とたんに雨が小さく降りだした。
「あ……」
傘を忘れていた。
気持ちを切り替えて、階段を上った。
エレベータがあるが、旧式なので狩野は使い方を知らなかった。それに速度があまりにも遅い。
今は三階にあって昇っていた。降りて上がるころには着いているだろう。
とはいえ、五階はつらかった。
階段運動は心肺に直結する。下手に歩くより強力だった。
「いらっしゃい、都 (みやこ) 。息があがっているわよ」
エレベータから声をかけたのは、ピンヒールにタイトスーツの美女だった。
「運動したら?」
「ふう……ふう。わたしはお淑 (しと) やかなんです。あなたと違って」
赤木南々子 (あかぎななこ) が軽く笑うと、事務所のドアを開いた。赤木は翌檜の美人秘書だ。
「帰りました、先生。都も来ています」
「お帰り。いらっしゃい、狩野さん」
「翌檜 (あすなろ) 先生、これを――」
「――ゆっくりしなさいよ。お茶飲むでしょう?」
「いやでも――」
「――めったに飲めないから飲んでいきなさい」
そう言われれば断れない。
なんでも階下の人から、台湾の高級茶をもらったらしい。
「下の人って?」
「ああ、長藻さん。今あなたの社長さんと商談に行っているわ」
「はあ……。ところで、ナレキって何なんですか?」
「さあ。東欧の秘宝らしいけれど」
「タマネギが?」
「パールオニオンみたいなものかな?」
翌檜の説明では、カクテルに使うものらしい。
「そんなものを輸入してどうするのかしら」
「打撲したところにスライスして貼ると痛みがやわらぐそうです」
「腰に貼るといいかもしれないな」
翌檜の意見に二人が同調した。
お茶は台湾の凍頂 (とうちょう) 烏龍茶だった。鼻腔いっぱいに香りが広がった。
雨音が大きくなった。窓の外の雨粒が見るまに大きくなった。
稲光。
春雷。




