小説『長藻秋詠の憂鬱な午後』(2)「散り菊——線香花火」
小説『長藻秋詠の憂鬱な午後』(2)「散り菊——線香花火」
“Senko Hanabi”
浴衣の若い美女が車から降りると、運転手に会釈して黄昏の神戸の坂をのぼっていった。歩むたびに右の義足から金属音がした。それも下駄の音に消えてしまう。
振り返り見下ろすと右の須磨に夕焼けが、左に大阪の灯りがあった。襟を気遣い微笑んだ。
洋館のあいまに二階建ての日本家屋があった。その昔ギリシア生まれのアイルランド人が帰化したときに造らせたらしい。今は東山耕平 (とうやまこうへい) という実業家が一人で住んでいた。
門を開けた女は玄関を素通りして、裏にまわった。六甲の水源を利用した水琴窟 (すいきんくつ) が夏の暑さをやわらげた。
「やあ……」
水をはったバケツを手に耕平が女性に声をかけた。
「こんばんは」
「こんばんは。何か飲むかい?」
「いいえ。大丈夫です」
「そう。ちょっと待ってね。蝋燭……蝋燭っと。あっライター」
「どうぞ」
女が巾着から出していたマッチを渡した。バー〈アヴァロン〉の洒落た意匠が目に残る。
「ありがとう」
耕平が不器用に火をつけた。煙草を嗜まないらしい。
風に火が揺れるので、女が風上に移動して屈んだ。耕平が長手の線香花火に火をつけて、女に手渡した。すこし触れ、女が微笑んだ。
耕平は溜息をつき、ゆっくり息を吸いながら、自分の花火に蝋燭から火をつけた。
はじめは和紙が燃えているだけだが、火薬が燃焼すると緩から急へと変化する。蕾が大きくなり、揺れる。やがて牡丹が咲き、煌めく。勢いは増し、松葉のような火花が目に残る。そして、散り菊。菊の一花瓣がしおれるように消えていった。
消えた花火を女から受け取ると、耕平がバケツに入れた。
「もう一回、いいかな?」
「どうぞ」
夜が深くなった。
美しい女が浴衣姿になると、下着姿の耕平が封筒をテーブルに置いた。二階の洋間から夜景が見えた。
「何も聞かないんだね」
「聞いてほしいの? でもたぶん知っているから」
耕平の問いに、金を数える女が視線を動かさずに答えた。
「聞いたの?」
「いいえ。知らないものは答えようがないけれど、知っていることは答えられるというだけ。それはたぶんあなたの過去に関することで、私の姿——外見に関することということだけ。もう一度会いたいの?」
「それは叶わない。もう亡くなったからね。前の震災で」
「調べたの?」
「戸籍謄本や死亡診断書も確かめた。生きていたとしてもおれと同い歳だからイイ歳のおばさんだろうけれど」
「違法じゃあないの?」
「それだけ必至だったんだよ」
「想像力がないのね。……もし、生きていたらどうしたい?」
「会いたい。ずっといっしょにいたい。あの日あの時おれは……」
ベッドに腰掛けた耕平が俯いた。泣いているのは見なくても分かる。
「新しい恋でもしたら?」
女は気にかけず、数え終えた封筒を巾着に入れた。
「それができていれば、幻影を追ったりしないよ」
女のスマートフォンにメッセージが届いた。
「では、さようなら」
「また会える?」
「今日の倍なら」
通りを下ったところに、クラプトン・アスコットが止まっていた。女が助手席に乗り込んだ。
「えっ、長藻 (ながも) さん? 森さんは?」
「レイさんと打ち合わせ」
女が長藻のスーツの匂いをかいで、西施のように顰に皺をよせた。
「飲んでないよ」
「素面の長藻さんは初めてみた」
正面を向くと夜の街を人が行き来していた。
「いつも酔っている訳じゃないから。食事? それとも?」
「今はいっぱい。アレは手に入った?」
「買っておいた」
親指で後席の紙袋を示した。
「では、行きましょう。発進」
須磨海岸は火気の使用は禁止されているが、線香花火に限って六時から二十一時まで花火ができる。
「なぜに革靴?」
「デッキシューズだから問題ないよ」
バケツに線香花火セットを入れた長藻が答えた。そもそもデュバリーは海用だ。
「暑くないの?」
ウェストコートの長藻を気遣う女だったが……。
「どうしてパンツ穿いてないんだよ」
質問を質問で返した。長藻は高橋慶太郎の『ヨルムンガンド』のチナツを思い出していた。
「浴衣ってそういうものでしょう?」
裾をひらひらさせた。
「セクシャルハラスメントだぞ」
「どうせ女の身体なんて見慣れているでしょうに。この女衒 (人でなし) が」
「自分で身売りして言うかしら。で、どうだったの?」
「どうして聞くのよ。プライベートなことでしょう?」
「レイさんと賭けている」
ミスター・レイ・クックマン。本名、蒲沼励 (かばぬまれい) 。灘の生一本、金雨酒造株式会社専務取締役。関西の財界人でも特に著名な人物だ。
「これだから男は……。耕ちゃんも耕ちゃんよ。思い出しなさいよ、あなたが愛した女はわたしだってーのに」
あたりに人がいないのを確かめて、バケツを横に置いた。
耕平が用意した長手ではなく、スボ手と呼ばれる三百年以上前からある線香花火だった。和紙ではなく藁の先に火薬がある。藁が豊富にあった関西と違って、関東では米作りが少なく紙漉が盛んだったので紙で代用したらしい。それが全国に広がり一般化した。
風上を背に先を斜め上に傾けて、女から借りたマッチで火をつけた。女に渡す。昔は線香のように立てて鑑賞していたのでこの名があるらしい。
「違うよ。これは上に向けるんだ。そうそれくらいの角度」
「えっもう終わり?」
長手に比べるとスボ手は時間が短い。
「……ああコレだわ」
「国内では福岡の一社しか残っていないらしい」
筒井時正玩具花火製造所の線香花火だった。
「あっけない。……もう一回いい?」
寺田寅彦の『備忘録』に線香花火の話がある。寺田の母が「散り菊」と言い聞かせたらしい。幼時の追懐だ。
二人で十五本楽しむと、海岸を後にした。
「ああ、忘れないうちにコレ」
女が巾着を渡した。
「数えないの?」
「数えられないんだよ」
長藻はディスレクシアで数の認識が甘い。深い夜の底で数えるのは悪魔の数と相場は決まっている。
「それに前金ももらったし?」
女が茶化した。
「長藻さんの勝ちだとレイさんに伝えて。——あっ!」
森がいない訳を知る女だった。
ホテル・コーサウェイ神戸に着いた女にスタッフが「お帰りなさい」と声をかけた。会釈したあと、二人はエレベータに乗った。長藻が十二階の釦を押した。
「十七階」
女が告げた。長藻たちは上海料理〈Amaranth〉 (アマランス) で宴会らしい。もちろん、女が出席することはない。恋路をネタに楽しむのは応援した人たちだけの特権だ。
女が意味深に笑った。
(了)




