小説『長藻秋詠の憂鬱な午後』(1)
小説『長藻秋詠の憂鬱な午後』(1)
雨音が聞こえない二重窓のブラインドを閉めると、長藻秋詠 (ながもあきえい) が溜息をついた。すぐに深呼吸にかえるが、茶泉 (さいずみ) 学院大学の研究室の書架は煩雑で百年を経た古書にも答えはなかった。
キッチンからティーカップが割れる音がした。
「大丈夫?」
長藻秋詠が美声で気遣った。
「ごめんなさい。割っちゃいました……」
昨年まで高校生だった咋十佳 (たちまちとおか) が謝罪した。
「怪我は?」
「ありません。……これどうしたら?」
「ああ、さわらないで。磁器はガラスより鋭利なんだ」
今日の英字新聞を広げると、長藻秋詠が割れたカップを置いた。
「足りないな」
元の映像を記憶している長藻秋詠には不足分が分かるらしい。
「しばらく使わないで」
「本当にごめんなさい。弁償します」
「いいよ。別に。それに、学生が簡単に弁償しますとか言わないの。一生払うことになるかもしれないのに」
「えっ?」
「ジョークだよ。ん……賠償責任保険には入っておいたほうがいいかも」
元保険募集人だった長藻秋詠が提案した。
「あっそれ入っています……たしか奨学金を借りるときにいっしょに契約したはずです」
「ああ……」
奨学金とセットするように、理事長に提案したのを長藻秋詠は思い出した。
「そういえば『カップを割ってしまった』という表現は日本語にしかないらしい」
長藻秋詠が話題を変え、テーブルに手で案内した。
「じゃあ他の言葉だとどう言うんですか?」
咋十佳がつづく。
「まず調べてみたら? そして仮説を」
質問されたことを即答しても教育にはならない。とはいえ、長藻秋詠は教官でも何でもない。研究室の清掃にきている掃除屋である。
「調べるって、どうやって?」
「そこからですか。珠子 (たまこ) さんが悩むはずだ」
若くて美しい理事長だ。米国出身の心臓外科医。正真正銘の天才で、唯一の欠点といえば、茶泉家の遺伝から背が150センチメールを切っていることくらいかしら。同性愛者 (ゲイ) の茶泉珠子 (さいずみたまこ) は公私混同はしない人間だが、お気に入りを大切にすることはある。その一人が、咋十佳 (たちまちとおか) だ。身長は163センチメートル。スリーサイズは上から92、62、88。18歳。大学一回生 (B1) 。
応接のテーブルにまで落ちてきそうな書架のなかから長藻秋詠は何冊か選び、ゆっくり目を閉じ、開き、それを戻した。
「金田一春彦の著書にある。貸し出されていなければ図書館にあるから探してごらん」
「何冊あるんですか? 一冊二冊じゃあないですよね?」
イイ勘をしている。直感は天才に起因する。長藻秋詠にはない才能だった。
「司書に聞けばすぐに教えてくれるよ」
「クスクス。いつものように、この世界の常識ですか? ふうーう。どれだけ読まなきゃいけないのやら」
「最低5千冊読めば、普通に暮らせるかと。せっかくの文学部なんだから1万? 10万? かしら」
ディスレクシアで数字に甘い長藻秋詠に数を聞いても無意味だった。
「もう……『これだけ読めば大丈夫』みたいな本はないんですか? 好きだから読みますけれど、先が思いやられます」
それは茶泉珠子の台詞だろう。投資した金額に見合う成果がでていないことから、長藻秋詠のところに行かせたのだから。
「『幾何学に王道無し』」
プトレマイオス1世が「『原論』よりも幾何学を学ぶ近道はないのか」とエウクレイデスに聞いたところ「幾何学に王道はありません」と答えたという。もっとも、メナイクモスとアレクサンドロス3世の逸話と似ているので疑問があるらしい。
「あーもう、聞いたことはありますけれど、どうしていつもいつも引用ばかりなんです? 自分の言葉で話すとかないんですか?」
「はっきり言うけれど、ヒトという生物はあまり考えていないよ」
「そんなことはないでしょう? だって……」
「だって?」
「うーん。考えるって何ですか?」
「ようやく学問らしくなってきた。少し考えてみましょうか」
(鳴海 (ナルミ) のカップ、実費のような気がするけれど気のせいかしら)




