表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/70

小説『事件の印象』-1

小説『事件の印象』-1


事件は解決したが、被害は続いている。

亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、みなさまのご健康を祈ります。


【Caution!】

※この小説は虚構 (フィクション) であり、実在の登場人物・組織・団体などとは一切関係ありません。


*****


〈松本サリン事件〉1994年 (平成6年) 6月27日

仕事から帰ると、妻がTVニュースを詳細に私に話した。


「ソマンだろう」


「何それ?」


怪訝な顔で見返した。初めて聞く名前だったのだろう。


「毒ガスの一種。タブン・サリン・ソマン。毒性の弱いタブンはたぶん使わないだろうから——」


「——タブンはたぶん使わない?」


ジャケットをハンガーにかけながら笑いながら聞いた。ジョークだと思ったらしい。苦笑しながら話をつづけた。


「タブンはたぶん使わない。残りは、サリンとソマン。毒性が強いほうを犯人は選ぶだろうから、たぶんソマンだよ」


「どうして知っているの?」


冷蔵庫から冷えた瓶ビールと前菜をだし、ラップフィルムをはがしながら聞いた。


「国家社会主義ドイツ労働者党——NSDAPは第二次世界大戦中に、サリンを大量に保有してたんだ。もっとも、アドルフ・ヒトラーが第一次世界大戦で毒ガスで負傷したから結局使わなかった」


「ヒトラー……ナチス……」


私がグラスをひっくり返すと、妻がビールを注いでくれた。


「ありがとう。……ナチスの亡霊かもな。けど、日本の松本に生き残りがいるとは思えない。いるとしたらアルゼンチンだ」


「アルゼンチン?」


「アイヒマンはアルゼンチンで捕まっている。凡庸な悪アドルフ・アイヒマン——アーレントの話くらい聞いたことがあるだろう?」


ハンナ・アーレントだ。酒が不味くなる。


「ああ、『夜と霧』といっしょに習った」


ヴィクトール・フランクルの名著だ。短大で必須だったらしい。賢明な大学だ。


「アーレントはカール・ヤスパースとの書簡が残されている。……当時のアルゼンチンはナチスの逃亡者を匿えるくらい裕福だったんだ」


愛情は皮肉なものだ。アイヒマンは結婚記念日に花を買ったために捕まった。



「サリンですって」


夜遅く疲れて帰ってきた私に、妻が脈略なく言った。


「サリン。ソマンじゃあなくて」


「ああ」


「でもよく知っているわね」


「強制収容所 (Konzentrationslager) のことを調べていて……ああ、アンネ・フランクからだよ」


アンネは、ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のガス室で亡くなったのではなく (収容はされていたが) 、移送先のドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスで亡くなっている。


「Lager (ラーガー) ……」


「ラーゲリだとロシア語だね……。サリンだって?」


「そうサリン。無臭の」


「それでか。ソマンは混ぜると異臭がするからサリンね……。でもどうしてあんな不安定なものを作ったのかしら」


「揮発性が高いんですって」


(どうせならVXガスだろう……。)


サリンを作れるなら、より簡単な方法を選ぶ。高い知能がありながら、悪意を行うのに、短時間で加水分解するような不安定なものを選ばない。


「こわい世の中ね」


「いつだって人間は恐いものさ」



「容疑者が分かったわよ」


「何人? 大捕物だっただろう」


「えっ一人だけよ」


「いや、一人じゃできないよ」


「だって、庭で作ったらしいわよ。農薬から」


「庭では、できないよ」


「大きな庭ですって」


「うん……化学工場なみの施設がいるんだよ (どんな庭だよ、兼六園じゃあるまいし) 。……それにわざわざサリンを作る意味が解らない」


「警察が農薬から作ったって」


私は飲んでいたビールを吹き出しそうになった。


「農薬からサリンはできる訳がないよ。個人が自宅でできたら天才だよ。それに……」


「それに?」


「被害が少なすぎる」


「えっ? だって8名も亡くなっているし、いっぱい負傷者がいるのよ?」


「サリンは化学兵器だよ。ホロコースト——大量虐殺を実行したNSDAPが保有していたくらいの兵器だよ。規模が小さすぎる……そうか……そういうことか」


「何?」


「たぶんこれは予行演習。どこかに施設があって、本番で万単位の死傷者を出すことになる……」


「恐いことを言わないでよ」


「ラジコンヘリの音は知っている?」


「何を急に……」


「屋外でヘリコプタの音が聞こえたら逃げろ。それに、大阪市内や、東京、名古屋……」


「何を言っているの?」


「福岡、札幌、広島、新潟、宮城。大都市の官公庁に近づくな」


「え?」


「いいか、絶対に政府施設に近づくな。もし薬品がかかってしまったら、水で流せ。硫酸アトロピンやPAM——」

※プラリドキシムヨウ化メチル


「そんなことになる訳ないじゃあない」


「起こったときには全部遅い。……たぶん住友 (製薬) が作っていたはずだから大阪に在庫があるはず」


「あなた何を言っているの? まるで……」


「まるで?」


「あなたがテロリストに思えるわ」


*****


〈次回〉

小説『事件の印象』-2

〈地下鉄サリン事件 (地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件) 〉1995年 (平成7年) 3月20日



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ