メインシナリオ#3 スマホ画面の向こう側の世界
ラビリンスは、あらゆる願いを叶えてくれる――たとえ、どんな願いでも。
厳かな女性の声がどこか聞き覚えのあるキャッチコピーを読み上げた気がして、黎太の意識は覚醒した。すかさず、何度も右頬をペチペチと叩かれている感触が強まってくる。
「黎太? おーい、黎太~」
その声は、アニメでもゲームでも聞いた、空埜未果の声だった。
目を開くと、視界いっぱいに広がっている未果の顔。アニメともゲームとも違う、本当の人間のようにそこにいる。
「なっ…は!?」
無意識に身体を起こそうとして、右手が布団の感触を押す。未果がすっと身体を引いた。黎太は、胸までかかっていた布団ごと、身体を起こす。布団がめくれて足にかかる感触。
「大丈夫? なんだか、すごいうなされてたけど」
明るいジーンズのパンツと白いパーカーという、見たことのない私服姿の未果に言われ、黎太はハッと右手を見た。
「そうだ、右手!」
黎太の右手人差し指がスマホの中へと沈んでいったのは憶えている。しかし、今はちゃんと存在していた。実際、布団を押した感触にも違和感はない。
「右手?」
「ああ、いや、俺もちょっとよくわかってないんだけ」
黎太は突然むせかえった。なにかが気管に詰まったような感覚に襲われる。なにも飲んでいないのに、だ。
おまけに、なぜか自分の発した声がいつもと違う感じがあった。
不安そうに未果が見守る中、黎太はゆっくりと呼吸を整える。
気持ちを落ち着けると、今度は未果とどうやって接すればいいのかがわからなくなった。まさかゲームのキャラクターと直接話せるとは思ってもみなかったのだ。
「えっと、空埜さん」
「え、なにいきなりそんな改まって」
顔を青くして引かれ、黎太はようやく自分の身体がどっちのものなのかを確認しようと思い至る。
両手はリアル黎太のものではなさそうだ。サイズ、指の長さ、爪の雰囲気、すべてに微妙な違和感がある。
パジャマの左袖を捲りあげれば、肘の近くにあるはずのほくろがない――これは雲海のラビリンス主人公の身体だろう。
「マジかよ…! 俺、本当に雲海のラビリンスの世界」
にきちまったのか――という声が出るより前に、またしても、息が詰まる。
「がはっ、がはっ!?」
「ちょ、本当にどうしちゃったの!?」
大丈夫、と掌を向けて、黎太は部屋の中を見回した。六畳の部屋に、青いカーテンの閉まった窓、明るい緑色の勉強机、キャスターのついた回転椅子、三段のカラーボックス、クローゼット……これはこっちの世界の黎太の部屋だ。
「マジで俺、こっちの黎太になっちゃったのかよ?」
「こっちのもなにもないでしょ。変な夢でも見た?」
「夢なわけないだろ! 小路黎太は小路黎太でも、俺」
今度はむせかえらなかったが、また言葉が詰まった。俺は君の幼馴染の小路黎太じゃないんだ、と、言いたいことははっきりしていたのに。意地を張って言い直せば、今度はちゃんと言えた。
「俺は君の知っている小路黎太じゃないんだ」
「えー…? 突然なにを言い出すの?」
「本当なんだって! 始まったばかりのソシャゲなん」
まただ。また、言葉の続きが出なくなる。
さっきからなんなんだ、と苛立つ黎太に、未果が怪訝そうな視線を向けていた。
「ソシャゲ…? 今日は本当にどうしたの?」
熱でもあるんじゃ……、と、未果の手が黎太の額にかざされる。
「うーん、熱はないみたいだけど…病院行く?」
未果の手には人肌の温度があった。元の世界ではソシャゲのキャラでも、この世界では生きた人間なのだと、黎太は改めて実感する。
「喉の病院って内科? 外科じゃないよね」
「耳鼻科だろ。耳鼻咽喉科って言うし」
「あ、そっか。でも今は普通に喋れたね」
たしかに、と黎太は顎に手を添えた。短ければ言いきることができるらしい。
いったいなにがどうなっているというのだろう。理不尽だ、不条理だと思いながらも、そんな言葉で現状を受け入れられるはずもなく、黎太は必死に考える。
なぜ長いとダメなのか、と考えたところで、すっと脳裏にソシャゲの画面がよぎった。
思い出すのは、☆5キャラを選ぶ場面で未果を連続タップしていた時の画面下部。
『(空埜未果)
か、からかわないの! ほら、選んで!』
セリフを表示する吹き出しがあったのだ。思い返せば、ストーリーモードでも横長の枠があって、そこに発話者の名前が(だれそれ)と表記され、三行くらいのスペースがあった。
ソシャゲ好きな友人が、このセリフやナレーションが表示されるエリアのことを、テキストボックスと言っていたことを思い出す。
「まさか、テキストボックスに収まる文字数しか喋れ」
ないのかよ、とすら続けられない。
これではろくに会話もできない。しかし、黎太の顔から悲観の気色はすっかりなくなっていた。
「ね、ねえ…よくわからないけど、病院行く?」
「いや、もう大丈夫だ」
心配してくれる未果に、黎太はぎこちなくも笑顔を返す。
「どうすればいいか、わかったからな」