03:天野香織。①
いつものように授業を最低限しか行かない奏多は、昨日の深夜に仕事があったため一限目があるにもかかわらず惰眠を貪っていた。
お日様が出ている時に眠るという大罪を犯している感覚を味わっている奏多は、気持ちよさそうに眠っていたが、そんな時に古臭いインターホンの音で不機嫌そうに目を覚まして上半身を起こした。
「クソが……」
このアパートの、それもこの部屋に来るのはたった一人しか思いつかなかった。幼馴染である神山麻代のニヤ付いた顔が奏多の脳裏に思い浮かんでいた。
「……寝よ」
授業に行っていたと理由がつけられると考えて奏多は再び上半身を倒して眠ろうとする。
『あ、あれ? いないのかな……?』
だが外から微かに奏多の耳にそう聞こえてきたことで、麻代ではないことを理解した。どこかで聞いたことがあるような声だなと考えている内に、奏多の瞼は落ちて行った。
奏多が意識を落としてから十五分くらいで、再び古臭いインターホンが鳴り響いた。だが今回は奏多は目覚めずに気持ちよく寝ていた。
さらに十五分が経過した頃に、古臭いインターホンが連打されたことで奏多は一層不機嫌そうに目を覚まして立ち上がった。
「……はい」
寝起きや不機嫌ということもあり、とても低い声音で奏多は扉の前に立って返事をした。こんなことをするのは麻代しかいないと感じていたことも一端を担っている。
「ご、ごめんなさい! こんなにピンポンを鳴らして! 突然伺ったこともごめんなさい!」
奏多は麻代ではないことに驚きながらも、どこかで聞いたことのある声だと思った瞬間にその人物か誰かと思い出してすぐに扉をゆっくりと開けた。
「こ、こんにちはっ!」
「……どうも」
そこには誰かとデートするのかというくらいに張り切った可愛いお洋服を着ている凜乃の姿があった。凜乃はどういうわけか顔を真っ赤にしている。
「……江見さん? どうしてここに?」
「あの、その……、せ、先日のお礼をしたくて、来ましたっ!」
「あー、あれか。別にそんなことをしなくてもいいよ。……というか」
奏多は麻代がいるのではないかと周りを見渡したがそれらしい影は一切なかった。
「麻代は来ていないのか?」
「は、はい、今回は私だけで来ました」
「そうか……、とりあえず上がるか?」
「あ、ありがとうございますっ」
立ち話するのはどうかと思い、奏多は凜乃を家にあげた。奏多の家は特に隠すものもなく、奏多は布団を隅に畳んで追いやってから冷蔵庫を開けた。
「お茶と水と紅茶とコーラ、何がいい? ペットボトル飲料だがな」
「い、いえ、お構いなく」
「そう言うのが一番困る。何か選んでおいてくれ」
「……じゃあ、紅茶で」
「はいよ」
奏多は冷蔵庫からペットボトルの紅茶と水を取り出して丸い座卓に紅茶を置き、その対面に座って未開封のペットボトルを開けて飲んだ。
「し、失礼しまーす」
紅茶が置かれている前に緊張しながら凜乃は座った。凜乃はそわそわとしており、その様子は奏多からも理解することができた。
「それで、前に除霊をしたお礼のことだったな」
「……はい、そうです」
「もう一回言うが、別にあれは気にしなくて良い。お礼を言うのなら俺を動かした麻代にでも言ってくれ」
「それは、もう言いました。何ならお礼を強要されました」
「……友達は、選んだ方が良いぞ?」
容易にお礼をねだる麻代の姿を想像できた奏多は凜乃が可哀そうに思えてそう口にした。
「確かに、そういう一面だけ見ればヤバい人間かもしれません。でも、麻代ちゃんは私を救ってくれた友達なので苦ではありません。……土御門さんも、そうでしょう?」
「あれは八割がたヤバさが詰まっているが、……それを帳消しにするくらいの行動力はあるだろうな」
凜乃が麻代の奔放さに救われた人間だと理解できた奏多はそれ以上それについて何も言うことはなかった。
「これ、受け取ってください」
「別にいいと言っているのに……」
凜乃は持ってきた紙袋から取り出した物を座卓の上に置いて奏多の方に寄せた。奏多が置かれたものを見ると、それは今とても人気で手に入れることが困難とされるチョコ商品を専門としているお店のロゴが入っていた。
「こんなものじゃ私のお礼の気持ちは足りませんが、受け取ってください」
「……あぁ、ありがとう」
微笑んできた凜乃の顔を見て、奏多はそれを受け取ることにした。チョコは奏多の好物であったため、奏多は表情には出さないがとても嬉しかった。
奏多がお礼を見ていた時に、シャッターを切る音が聞こえて奏多が顔を上げると奏多にスマホを向けている凜乃の姿があった。
「……何を、しているんだ?」
「ご、ごめんなさいっ。……麻代ちゃんに言われて」
「前回もそうだが、あんたは本当にお礼をする気があるのか? とてもそうには見えないが」
前回の麻代と奏多がイチャついていてたことをカメラに収めている件を含めて、奏多は凜乃がどんなことがあっても麻代側に付いていることにため息が出そうになる。
「ご、ごめんなさい。で、でも、麻代ちゃんのお願いは本能的に断れないというか……」
「あぁ、もういい。……あんたが変なことに巻き込まれないことが心配だよ」
麻代至上主義みたいなことを言っている凜乃を止めて諦めることにした。何より彼女とはもう接点がないわけだから、彼女がどうなろうが奏多の知ったことではないからだ。
「あの、それでですね……」
何かモジモジしながら奏多のことを見ている凜乃に奏多はトイレかと思ったが、さすがにそれはないと考えた奏多は凜乃の言葉を待つことにした。
「連絡先、交換しませんか?」
「……なんでだ?」
奏多は待っていた言葉がまさか連絡先の交換だとは思っていなかった。彼の連絡先は家族以外なら陰陽寮関係と麻代、占い師の老婆以外に持っていない。
「あの、今日みたいな時に予定を伺えると思ったので……ダメ、ですか?」
上目遣いで聞いてくる凜乃にドキリとしながらも、奏多はどうせ断っても麻代に手を回されると考えて頷くことにした。
さっきまでもう出会うことがないと思っていた奏多だが、麻代がいる時点で接点を無理やり作られることを忘れていた。
「あぁ、良いぞ」
「やったっ……!」
奏多が承諾したことで凜乃は小さくガッツポーズとして嬉しそうな表情を浮かべた。
「このメッセージアプリは持ってますか?」
「あぁ、麻代に無理やりインストールされたからな。これで良いのか?」
「はいっ」
スマホを持っていれば使っている人がいないメッセージアプリで奏多と凜乃はフレンドになった。それを見た凜乃は頬が緩むのが抑えきれずにニヤニヤしていた。
一方の奏多は凜乃でフレンドが三人になったは良いが、一人目と二人目は毎日毎日メッセージを送ってくるため少し嫌なイメージを持っていた。
これで凜乃からもおびただしい量のメッセージが来ればアンインストールしようかと思っているところに、凜乃からメッセージが届いた。
『これからよろしくお願いします!』
奏多はそれを見て凜乃の方を見ると、スマホに顔を向けながら上目遣いで奏多のことを見ていたが奏多と目が合って恥ずかしそうにスマホに視線を戻した。
凜乃のその仕草を見た奏多は、これまで出会った女性の中で初めての部類で癒されるなと感じ、初めて麻代に感謝した。
『これからよろしく』
凜乃のメッセージに奏多はそう返信してスマホを座卓の上に置いた。これから何も話すことはないから沈黙が訪れると思っていた奏多だが、人見知りそうな雰囲気の凜乃から話題提供を受けた。
「そう言えば、悪霊除霊の依頼ってどうやってするものなんですか?」
「神主さんとか、そういう手の知り合いがいる人なら、陰陽寮に依頼を出すようになっているな」
「一般人は出せないんですか?」
「出せないな。そもそも陰陽師という存在が本当にいるとか思っていなかったら陰陽師に頼るという思考にはならないだろう」
「それなら、私が依頼を出そうとすれば出せるんですか?」
凜乃のその言葉に奏多は訝しげな顔を凜乃に向けた。また何か面倒ごとに巻き込まれに言ったのかと考えたからだ。
「……江見さんが望めば、陰陽寮のホームページを教えることができる。そこで個人情報を登録して、依頼内容と報酬を設定すれば依頼は出せる」
「へぇ~、そうなんですね」
「……もしかして、また何かやってるのか?」
「ち、違いますよっ! ただどうやってするのかって気になっただけですっ! もうあんな怖い想いはこりごりです!」
「それは良かった。下手に変なところに行けば取り返しのつかないところになるから、気を付けておくといい」
凜乃の方は十分に分かっていて奏多はホッとした。問題はもう一方の人間だと、奏多は思った。例のあの人は怖い思いをしても、次の日にはそれに挑もうとする思考回路がバグっている人間であることは、昔から奏多は知っていた。
「そういう人たち以外の依頼はあるのですか? 例えば、陰陽寮とかから」
「あるぞ。陰陽寮でも陰陽師の調査員がいて、行方不明とか死者とか出ていたら調査に向かってガチ物だったら等級を付けて依頼を出す。そういう時は大抵上級か特級だから、お金稼ぎには丁度いいな」
「なら先日行ったあの曰く付き物件は……」
「あれは陰陽寮が出した依頼だ。それくらいに注意する必要があった物件だったということだ」
その話題が出て、凜乃は前回のことを思い出して少しだけ身震いをしたが頭を振って頭の中からその思い出を思考から追いやった。
「それなら依頼が出ていない悪霊を祓っても、何も報酬は出ないということですか?」
「いや、出る。等級ごとに申請すれば報酬は入ってくるけど、まぁ依頼の方が額は高い。だから危険性があっても放置する陰陽師がいる」
「そんな陰陽師がいるんですね。陰陽師の風上にも置けません!」
「そ、ソウダネ」
凜乃の言葉に奏多は悟られないようにする。まさか目の前に放置する陰陽師がいるとは思わないだろう。
奏多はそんなに金にならない悪霊は祓わないようにしていたが、今度からは危険性があれば祓おう、そう心に決めた奏多であった。
「あっ、麻代ちゃんから写真が送られてきた」
内心バクバクしながら、奏多は凜乃の方を向いた。
「……『心霊スポットナウ』」
「……だと思った」
凜乃は一瞬だけ黙り込んだがすぐに写真と共に送られてきたメッセージを口に出した。もはや麻代を知っている凜乃と奏多からすれば、麻代は平常運転だった。
「写真、見ますか?」
「あぁ、一応見せてもらおうか」
心霊スポットとは言ってもなんちゃって心霊スポットも一応存在しているため、その確認を込めて奏多は凜乃からスマホ画面を見せてもらうことにした。
「……なるほど」
「どうしたんですか? もしかして何かいるんですか?」
「あー、いや、何と説明したらいいんだろうか……」
凜乃から見せてもらっている写真は麻代が左側にいて、右側には優しそうなお姉さんみたいなウェービーロングヘアの女性、そして背後にはどこかのトンネルが見えていた。
「もしかして、この右側の人が前に祓った時に話していた一緒にいた友達か?」
「はい、よく分かりましたねっ! 私と麻代ちゃん、それに香織ちゃんの三人でよく心霊スポットに行っています」
「三人で行ったって聞いた時に、麻代はともかく江見さんだけが憑かれていたことに疑問を覚えていたが、……そういうことだったのか」
「どういうことですか⁉ お、教えてくださいよぉ~」
奏多だけが納得しているが、それについて知りたい凜乃は無意識に甘ったるい声を出して奏多にお願いする。
「この心霊スポットはマジものだ。後ろに中級悪霊が見えている」
「……何も見えないです」
「それはそうだ。鏡ならともかく、写真では幽霊を見ることはほとんどできない」
凜乃が再び自身のスマホを見るが、奏多の言っている悪霊は見ることができなかった。集中して見ている凜乃に、奏多は話を続ける。
「それだけならまだ良いが、その香織という人も、憑かれているぞ」
「……えっ?」
「特別にやべぇ―奴がな」
奏多の目には、麻代と香織が写っている写真の背後にトンネルの前で人間以上のタヌキの悪霊が歴戦の戦士のようにボロボロな甲冑を着た西洋の騎士に斬りつけられている光景が目に入っていた。
奏多はそのタヌキが騎士によって喰われただろうと考えた。そして一目見ただけでその西洋の騎士がヤバいものだと感じたが、今は心配する様子は奏多になかった。
「は、早く祓わないといけないじゃないですか……ッ!」
「憑かれていると言ってもこの人のは守護霊だな」
「……守護霊って、悪霊とかから守ってくれるあの守護霊ですか?」
「あぁ、その守護霊だな」
「そ、それなら良かったぁ~……」
安心して一息つく凜乃であったが、奏多の表情は硬いものであった。
守護霊とは力を持つ霊、もしくは悪霊が憑いた相手を守ることを行動原理としている。その理由で多いのは、その子が生前で好きだったとか好みであったからというものだ。
その他にも代々引き継がれる守護霊もいるが、一番質が悪いのは無理やり守ってやる代わりに何かを貰うということをしている守護霊擬きだ。
一方的な契約にもかかわらず、通常ならできないことを憑かれている人物にすることができる。行動を操る、生霊とする、他の人間を殺すなどプレーンの悪霊ではできないことをできるようになる。
このヤバい守護霊が、この守護霊擬きに当たるのではないかと奏多は考えていた。実際に会って見なければ分からないと思った。
「ど、どうしたんですか……?」
「いや、何でもない。この香織という人が心霊スポットで写っている写真は他にないのか?」
「えっ、あ、ありますけど、どうしたんですか?」
「ちょっとした確認だ」
そう言った奏多に、凜乃の思考はまさか香織ちゃんが好きなんじゃないの⁉ とぐるぐると思考が回っていたが奏多に心霊スポットの写真を集めたフォルダーを開いてスマホを渡した。
「は、はい、どうぞ」
「ありがとう」
スマホを渡された奏多は横にスワイプして写真をどんどんと切り替えていく。そして次第に奏多の表情は険しくなってきたことで、普通ではないことを凜乃も悟った。
「これは……、何でもないな」
「えっ?」
「すまない気のせいだったほら俺はこれから用事があるから江見さんは帰るといい」
「ちょ、ちょっとぉっ⁉」
さっきまでの険しい表情を消した奏多はスマホを凜乃に返して一息ですべてを言って凜乃を追い返そうとする。
絶対に何かあったと奏多の表情とこの行動を見て確信した凜乃はどうにかしてもらおうと行儀が悪いが居座ろうとした。だが奏多の力であっけなく玄関まで押されてあえなく追い出されてしまった。
「あれは何もない写真だったなー」
扉越しに聞こえる奏多の棒読みの声に、安倍晴明以上の力を持つ土御門さんでもダメなら無理じゃない? と凜乃は考えた。
とりあえず凜乃は友達を救うために麻代に電話しながら麻代に会うために奏多がいるアパートから離れることにした。
「……帰ったか」
凜乃が玄関からいなくなったことを確認した奏多は、絶対に麻代が来てしまうと考えてどこかホテルに逃げ込むことを考えた。それも陰陽師の仕事中なら奏多の祖母も何も言えない。
「あんなもの遭遇したら絶対に祓わないといけないだろ……」
奏多が西洋の騎士を祓えない、というわけではない。だが特級に分類されると写真を見て確信した奏多は、面倒で祓わないように逃げるのだ。
香織が写っている色々な心霊スポットの写真とその日付を見た奏多には、あの西洋の騎士が特級に分類されるものだと考えていた。
本来、悪霊が成長するには他の魂と時間が必要であるが、あの西洋の騎士は少しの悪霊だけで一日経てば通常の悪霊よりもかなり成長していた。
「成長の速度は厄介だな……」
次に自身が会う時には、凄まじい悪霊になっていると想像した奏多であるが、関係ないからどうでも良いかと思い、遠出する準備をする奏多であった。