焚き火を囲んで
「"火よ"」
師匠の短い言葉と共に、積み上げられた枯れ木に火がつく。
「相変わらず便利ですね、魔法ってやつは」
「私のこれはマッチ替りにしかならない。魔法と呼べるほどの代物ではないさ」
そう謙遜するが、少年には仕組みがさっぱりわからない。
初めて魔法を見たときは腰が抜けるほど驚いた。おかげで今でも酒の席のネタにされてしまっている。
師匠はなれた手つきで湯を沸かし、持参した茶葉を入れる。
「飲め、少しは落ち着くだろう」
渡された金属製のマグカップからは、心を穏やかにさせる香りが漂う。
だが少年にとっては、焼け石に水に近かった。
「…………なんです、アレは?」
マグカップを持つ手は震えていた。
昼間に遭遇した化け物。対峙したわけでもなく、こちらを認識されてすらいなかったが、少年に死をイメージさせるには十分だった。
「…………機械仕掛けの獣、生きた歯車、金属の捕食者、我々はあれを、ギアビーストと呼んでいる」
「……ギアビースト」
あの獣はゴブリンを生きたまま貪り喰っていた。
その光景を思い出し、背筋に冷たいものが走る。
「あいつらのことは正直よくわかっていない。今の文明よりも古い存在で、世界中の至る所で確認されている」
「……あんなのがそこら中にいるんですか」
「いや、数はそこまで多くない。昼間に見たアレは、しばらく前から双子山の山頂付近に住み着いているやつだ。どうやら縄張りを広げているらしい。ゴブリン共が村まで降りてきたのは、アレに追われたからだろうな」
その言葉に顔を上げる。
「ちょ、ちょっと待ってください。アレが村に降りてきたらどうするんです!? あ、あんな化け物が村を襲ったりしたら!」
「落ち着け、何も考えていないわけじゃない。とっくの昔に町のハンターに討伐依頼を出している」
あくまでも冷静さを崩さない師匠、それを見て幾分か落ち着きを取り戻す。
荒ぶった心を落ち着けるために、深呼吸を繰り返す。
「…………ハンターとは? 師匠みたいな狩人のことではないですよね?」
「ん? ああそうか、そこから説明しなければならないのか。ハンターというのは、そうだな、一言で説明するなら何でも屋だ」
「何でも屋?」
「そう、迷子のペット探しから魔物退治まで、どんな依頼も請け負うプロ連中のことだ。あいつらならあのギアビーストを討伐できるだろう」
「ハンター…………」
師匠の言葉を今更疑うはずがない、彼女が討伐できるというなら、ハンターはそれだけの実力を持っているのだろう。
だが、間に合うのか?
もしアレが何かの気まぐれで村まで降りてきた時、村はどうなる?
あの村でまともに戦えるのは師と少年ぐらいだ。
たった二人きりで村のみんなを、イオナを守り切れるのか?
最悪の想像に身震いする。
万が一の可能性すら残さないためにも、あの化け物はーー
「馬鹿なことを考えるなよ?」
「っ!」
師の、見透かすような言葉に肩をびくつかせる。
「昼間のアレを見ただろう。アレはお前がどうこうできる存在じゃない。ギアビーストってのは例外なくどいつもこいつも強力で、あらゆる生物に対して残虐なんだ。アレの相手ができるのは、化け物みたいな強さを持つプロのハンターだけだ」
「でも、師匠!」
「お前が村を思う気持ちは嬉しい、だからこそわかるだろう? お前に万が一のことがあったら…………イオナを泣かせる気か?」
「そんな! ……っ、わかりました……」
そこでイオナの名前はずるいと思う。
納得できたわけではない、だが彼女を泣かせることだけは絶対にできない。
「……飯にしよう。この話は終わりだ」
「……はい」
鞄からイベルタさんに渡された弁当箱を取り出す。
今日のメニューはグリルした猪肉と野菜を挟んだ大きなサンドイッチだ。
肉には甘めのソースがかかっており、みずみずしい野菜と少し硬めのパンとの相性は最高だ。
そしてデザートにはーー
「ジン、なんだそれは?」
「……多分クッキーです」
「…………私には炭にしか見えない」
おそらくイオナが作ったであろう黒い塊が、いっぱいに詰まっていた。
「っておい! まさか食うつもりか!」
「いえ、イオナも少しは成長してるんですよ」
ボリボリ、と噛み砕くと苦味の中に僅かな甘さが顔を覗かせる。
前までは中まで完全に炭だったからな、上達したもんだ。
「それよりハンターについてもう少し教えてください」
「え? あ、ああ、わかった…………そうだな、ハンターは全員ギルドと呼ばれる大きな民間組織に所属していて、そこから自分の能力にあった仕事を斡旋してもらう仕組みになっている。このギルドという組織の規模が凄まじくてな、世界中ほぼ全ての地域に支部が存在している」
「そんなにでかい組織なんですか?」
「ああ、斡旋される依頼には国からのもの、なんてこともある。最上位のハンターの力は凄まじいからな、国家レベルの揉め事を解決した話もあるぐらいだ」
「はー、でもそんな力を持つハンターなら国に直接雇われそうなもんですけどね? 民間の組織ってことは仲介に手数料がかかりますし、国とハンターにとってそんなの面倒なだけでしょう。お抱えの凄腕ってことにすれば双方にとってメリットしかなさそうですけどねえ」
すると、少年の話を聞いた師がポカンとした表情を浮かべる。
「ん? どうかしました?」
「いや、お前の言っていることはある意味正しいんだが…………よくそんなことがわかるな?」
「え? まあ普通わかるじゃないですか」
師匠は呆れたようにため息をつく。
「全くお前はよくわからんやつだ。子供でも知っている常識を知らなかったり、字も読めないと思えば、妙な知識だけある。確か算術もできただろう?」
「ええ、字が分からないので今のところ暗算だけですけど」
「その偏りようは一体なんだろうな。記憶をなくす前のお前は、一体なんだったんだろうな?」
「それは…………なんだったんでしょうかね?」
何度も、何度も考えた。
自分は一体何者なのか。どこからきたのか、何をやっていたのか、なぜ記憶を無くしたのか。
どれだけ自問しても見つからない答えに、不安が募っていた。
答えを知りたいという気持ちは、日に日に強くなっている。
「知りたくないのか?」
彼女の言いたいことはわかる。おそらく、このままでは記憶は一生戻らない。
確信にも似た予感。答えを見つけるためには、この村を出る必要がある。
だけど…………
「俺、思うんです。このまま記憶が戻らなくても、村のみんなと、イオナと一緒にいられればそれで幸せなんだって」
本心だった。
記憶が戻らない不安も、自分が何者かわからない焦燥感もある。
ただこうやって師匠と狩りをして、イベルタさんの料理を食べて、みんなと馬鹿騒ぎをして、その隣でイオナが笑っている。
これ以上の幸せはないんじゃないか、そう心から思う。
この幸せを捨ててまで記憶を取り戻す必要はあるのか、ジンにはわからなかった。
「そうか…………」
師匠はそれ以上何も言わず、二人で焚き火を囲む。
二人の間を沈黙が包むが、重苦しいものではなかった。
穏やかでどこか心地よい静けさの中、ジンはこの幸せが永遠に続くことを願った。
だがその願いが叶うことはなかった。
穏やかな日常を捨て、ジンの運命は動き出す。