焦り
ゴブリンという魔物がいる。
人間の子供ほどの背丈に緑色の肌、その顔つきは醜悪で生理的な嫌悪感を抱かせる。
枯れ木の様に細い手は見た目より力があるが脆い。足は遅く、知能もそこまで高くはない。
単体で見ればそれほど強い魔物ではない。多少腕力に自信のある者であれば殴り殺せる程度の戦闘力しか持っていないだろう。
しかし彼らの厄介なところはその数の多さにある。
異常な生命力と繁殖力の持ち主であるゴブリンはどこであろうと子を産み落とす。たとえそこが草木の一本も生えないような砂漠であろうと、やむことのなく荒れ狂う吹雪に覆われた雪山であろうとも。
どの様な環境であっても住みつき、木の根だろうと腐った獣の死骸だろうと貪り、子孫を残していく彼らの群れは世界中どこにだって存在する。
それはもちろん王都であっても変わらない。王都周辺にはいくつものゴブリンの巣があり、壁外の農園などが多数の被害を被っていた。
過去に騎士団が大規模な殲滅作戦を決行し、一度は王都周辺のゴブリンを全滅に追いやったと思われた。しかし時間が経つにつれゴブリンの数は少し、また少しと増えていった。どうやら仕留め損ねた数匹が数を増やしたようだった。
結局王国はゴブリンの殲滅を諦め、定期的に間引くという手段を取らざるをえなかった。
そのためギルドではゴブリンの討伐依頼が常に張り出されており、油断さえしなければそれほどの危険性のないゴブリン狩りはルーキーにとっていい小遣い稼ぎとして重宝されていた。
ジンにとってもゴブリンの討伐は何度も経験しており、ゴブリンなんて今更なんの脅威にもならない。
ーーはずだった。
「こんのクソッタレどもがっ!」
ゴブリンの集団のど真ん中に立ち、大剣を振り回す。
「ジン! 後ろ!!」
妖精の叫び声に反応し振り向くと、牙を剥き出しにして少年の喉笛を食いちぎろうとするゴブリンがいた。
咄嗟に左手を突き出す。直後、魔物の牙が少年の肌を突き破る。
「舐めんな!」
腕に食らいついたままのゴブリンをそのまま地面に叩きつける。ゴブリンの頭が果実のように潰れたが、その衝撃で腕に激痛が走る。
「ぐうっ」
肉を切り裂く痛みに顔を歪める。体が硬直したその瞬間を狙い、別の個体が錆だらけのナイフを突き出してくる。
「“火よ!“」
ナイフが少年を貫く寸前に火でできた矢が魔物の頭を撃ち抜く。
「ジン、前に出過ぎです! 一度下がってください!」
「…………わかってる」
苦々しい思いと共に、ゴブリン狩りは続いた。
「どうしたんです? あなたが今更ゴブリンに遅れをとるなんて」
「…………」
視線を逸らす。
らしくないと、自分でも思う。
「ここ最近変ですよ。何か悩み事ですか?」
「…………なんでもない」
嘘だ。ここ数日胸にもやもやとした何かがあり、集中できていないことを自覚していた。
「ジン! それよりもその腕治療しないと!」
「……いい、ほっときゃ治る」
「ジン!」
アリアが少年のポーチから容器を取り出し、中の軟膏をその小さな手ですくう。
「わかった、わかった! おまえの手じゃ日が暮れちまうよ」
妖精の手から容器を奪い取り、薬臭い軟膏を傷口に塗り付け、その上から包帯を巻く。
「……ねえ、ジン」
「なんだ?」
片手で巻く包帯の勝手がわからず、苦労しながら返事をする。
「何を焦ってるの?」
「…………っ」
妖精の質問に答えられなかった。
気づかなかったからだ。この苛立ちにも似た感情が焦りだと、妖精に言われるまで。
原因はおそらく、武人ボルデンとの会話だ。
あの男の生き方は少年にとって理解できないものだった。だがどうしようもなく羨ましく思えた。
それは、少年にはできない生き方だから。記憶のない少年にとって、記憶を取り戻すことだけが今の自分にできる唯一の生き方だから。
ジンは過去の自分がどの様な人間であったか知らない。今とは全く違う生き方、全く違う性格をしていたかもしれない。
わからない、自分が何者なのか。
思う。もし過去の自分と今の自分が全く違うのであれば、今の自分は偽物なんじゃないかと。
馬鹿馬鹿しい考えだと思う。だけど、偽物の自分には自分らしい生き方なんて到底できそうにない。
あの男との会話で再認識させられた、今の自分には何もないと言うことを。
だからこそ、焦る。
早く記憶を取り戻したい、そうしなければ前に進めないから。だけどどうしようもない。
何もできず足踏みしている様な感覚。
不安だった、怖かった。
だけど不器用な少年は、そのことを誰かに打ち明けることができなかった。
「…………なんでもないって言っただろ。帰るぞ、午後からは魔術学院に行かなきゃならねえんだから」
今日、ジンは魔術学院へ訪れる予定だ。
目的は自信の魔法を使えないと言う奇妙な体質を調べるため。
記憶を取り戻す手がかりになると、期待を寄せていた。




