第1章プロローグ
獣の唸り声が聞こえる。
ただの獣ではない。アレは己が遭遇した中で最も残虐で、凶悪。
その唸り声は人としての、いや生物としての遺伝子に刻まれた最も原始的な恐怖、喰われるという恐怖を思い出させる。
深い渓谷を見下ろす断崖絶壁で獣と対峙する少年は、油断すれば震え上がりそうな体と心を、強靭な意思で奮い立たせ剣を握る。
「いくぞ、化け物」
アレに言葉は通じないだろう。だが少年は己を鼓舞するためにあえて挑発をする。
負けるわけにはいかなかった。
記憶をなくし、何も持っていなかった自分にやっとできた大切な存在。それを守るためなら命すら惜しくない、それほどの覚悟でここまで来た。
だが獣はそんな覚悟を嘲笑う。
剣を何度も振るが傷ひとつつかない。
払われた前脚の一撃にこちらの骨が軋る。ただ身を捩っただけのような当身で地面に吹き飛ばされる。
遊ばれていると感じた。その気になればあの巨大な顎にひとかじりで命をうばれてしまうだろう。
敵としてすら認識されていない。その事実に怒りよりも先に絶望を覚えてしまった。
「クソッタレが!!」
恐怖をねじ伏せ、渾身の一撃を振るう。
だがその一撃すら待ったく通用せず、吹き飛ばされる。
地面にではない。そこすら見えないほど深い渓谷のある空中へと投げ出される。
そのまま少年は落ちていく。重力に逆らうこともできず、己の無力さを噛み締めることもできないまま。