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提案

「あっ、紫桜。えっ? 紫桜?」

 帰りがけに、初めて琥太朗とばったり鉢合わせた。紫桜は最寄り駅から、琥太朗はすぐそこのバス停から。

 相変わらず全身真っ黒なシルエットは冬の早い宵闇に際立つ。マフラーまで黒いせいでひと昔前の犯罪者みたいだ。リュックの肩に付いた反射テープが身の潔白を訴えるように白く光っている。

 冬の空気は日を増すごとに少しずつ透明度を増していく。

「髪……えっ、髪切ったの?」

 驚愕という言葉が顔に張り付いている琥太朗に、紫桜は、にっ、と笑って見せた。

「そう、会社でカットしてもらったの」

 紫桜の勤める会社では社が扱っているサービスを月に一度無料で受けられる、社員に大人気の福利厚生がある。家事や介護の代行や紫桜たちが行っている美理容サービスまで、社で扱っているサービスであればなんでも受けられるので、紫桜もふた月に一度は社員にヘアカットをお願いしている。

 紫桜はこの半年ほどは忙しすぎて利用する機会がなかなかなかった。その場合、社員同士間であれば融通し合える。ただし、翌月に繰り越しはできない。紫桜は普段から利用しない月は小関に譲っている。小関は家事代行サービスを利用しているそうで、家の掃除から買い物の代行、食事の用意、果ては子供のお迎えまで、三時間以内かつ規定範囲内なら何でもしてくれる、子育て社員には大人気のサービスだ。実際に社員同士が利用することでサービスの改善もでき、細かなところにまで目が行き届く。

「ちょっと短くない?」

「そう? 琥太くんと同じくらいだよ」

 しばらくロブだった反動でショートボブにした。社員に無料でやってもらえるのはカットのみで、カラーやパーマはなし。今日は直前でキャンセルが入り、三島と紫桜の時間が空いたこともあって、急遽カットし合えたのだ。ちゃっかり小関と社長もカットしている。基本的に小関のカットは紫桜、社長のカットは三島がしている。社長と小関、三島は高校の同級生で、スタートアップメンバーでもあり、仲がいい。

「もしかして琥太くん、長い方が好きとか?」

「そんなことないんだけど……ずっとおかっぱのイメージしかなかったからびっくりした。物凄く新鮮。すごいな、紫桜なのに紫桜じゃないみたいだ」

 琥太朗が紫桜の周りをぐるぐる回りながら、へーえ、ほーお、と声を上げている。周囲の視線が恥ずかしい。ついつい早足になると、急ぐと転ぶよ、と琥太朗に手を取られた。

「紫桜かわいい! すごくいい!」

 なぜか片言のような発音で琥太朗がえくぼを見せる。子供のような手放しの感想に、紫桜は戸惑いと恥ずかしさであわあわしてしまう。

「ちょっ、琥太くん、どうかした?」

「いやさ、ついこないだも俺また切ってもらったでしょ」

 紫桜は月に一度は琥太朗の髪をカットをしている。琥太朗の長めの髪はマメにカットしないとあっという間にもっさり成分が増えて見栄えが悪くなる。もっさり過多になる前に毎月少しずつスタイルを変えながらカットしているので、そのたびに琥太朗は目を輝かせ、純粋な感動を見せる。それがここ最近意識し始めた紫桜の自信にも繋がっている。

「あのときも紫桜、俺のことかっこいいって何回も言ってたでしょ、前に切ったときも、見せびらかしたいって言ってたでしょ、あの気持ち、今すごくわかった。紫桜かわいい。俺も見せびらかしたい」

 琥太朗がかなり恥ずかしい人になっているせいで、紫桜は逆に冷静になる。

「とりあえず落ち着こっか。声高めだし、ちょっと大きい」

「叫んでもいい?」

「他人のフリするけどいい?」

 手を繋いでいて他人のフリもないのに、琥太朗はぐっと言葉を詰まらせ、跳ね上がっていたテンションをみるみる下げていった。

「紫桜さぁ、結婚する?」

「は? なんで?」

「他人じゃなくなるから」

 思わずぽかんと紫桜の口が開いた。え? 頭打ったとか?

「今、頭大丈夫って思ったでしょ」

「思った。よくわかるね。ミツチだから?」

「ミツチじゃなくてもわかるよ」

 家に着いた。琥太朗が開けた門を紫桜が先にくぐる。いつもそう。琥太朗のこのレディーファーストは誰に教わったのだろう。

 琥太朗にこれまで彼女がいなかったことは、琥太朗自身が証明している。紫桜にこれまで彼氏がいなかったことも同様に。演技や誤魔化しができるほどの余裕もなかったのはお互い承知しているので、疑う余地もない。

 そういえば、琥太朗は子供の頃からそうだった。

「琥太くんってさ、階段上るときはいつも私の後ろにいるし、下りるときは前にいるよね」

「万が一足滑らせたら危ないだろ。子供の頃に何回も足滑らせてただろ。紫桜はそれでなくてもよく転んでたし」

 だから、歩くときに手を繋ぐのか……。そういえばさっきも言われたような。

「ドア開けてくれるのは?」

「ん? ドア? ああ、紫桜って非力だったから自分でドアの開け閉めできなかったよね」

 レディーファーストではなく介助だった。

 ん? と琥太朗が首を傾げながら、ただいま、と声をかけて玄関の引き戸を開ける。当たり前のように紫桜を先に通し、自分が後から入って戸締まりをする。一緒に出掛けるときはいつもそうだ。

「ただいまー。レディーファーストなのかと思ったから」

 おざきくんと黒狐が仲良く並んで出迎えてくれた。

「紫桜、レディーファーストの意味わかってる?」

「女の人をエスコートすることじゃないの?」

「昔は女性の地位が低かっただろ、女性が先に入って危険がないか確かめてたんだよ。いわゆる淑女教育の名残がフェミニズムによってねじ曲げられてるって主張する専門家もいる。子供や女性を守るのは騎士道や紳士のマナーであってレディファーストではないってこと」

「私を先に通すのも盾にしてるってこと?」

「まさか。開けたときにちゃんと中確かめてるよ。そもそも紫桜以外にはやらないからマナーでもないし」

 たしかに、琥太朗はいつも紫桜の前に立って引き戸を開けてから脇にずれて紫桜を通すか、扉を開けて自分が一歩先に入ってから、扉を押さえたまま紫桜を通す。開けるのも閉めるのも琥太朗だ。

 じわじわと嬉しさと恥ずかしさが込み上げてきて、紫桜はにやけそうになるのを必死に堪えた。


「で、結婚しない?」

「なんで急に? さっき他人のフリするって言ったから?」

 朝のうちに研いで冷蔵庫の野菜室で浸水させておいたお米を、水ごとざーっと厚手の鍋に移して中火にかけ、沸騰したら極弱火で十二、三分。火を止めたら十分から十五分蒸らして出来上がり。一合くらいのお米なら鍋で炊いた方がおいしい。

 このやり方は琥太朗に教わった。じっくり時間をかけて浸水しているうえ、水が冷えている分ゆっくり沸騰するのでお米の甘味が増しておいしく炊き上がる。

 帰ってきたらまず炊飯。ご飯が炊き上がる間に琥太朗がぱぱっとメインのおかずを作ってくれる。紫桜は付け合わせや汁物担当。

「そうじゃなくてさ。もし何かあったら、例えば急病になったりしたときに、同じ籍じゃないって弱いなーって」

 それは紫桜の頭の隅にもあることだ。どれほど若くても命に関わる病気にはなるし、急逝することもある。事故でも事件でも。そんなニュースばかりがヘッドラインに並んでいる。

「それに、結婚って二人の関係を周りに公認してもらえるわけでしょ」

 母と同じ思考回路……。これが一般的な考え方なのか。紫桜は自分の眉間にシワが入っているのを感じて、慌てて顔の力を抜く。危ない危ない。縦皺ができてしまう。

「なんでそんな難しい顔? やっぱ結婚は嫌とか?」

「結婚って、名義変更とか面倒なイメージしかなくて。だから結婚が嫌ってわけじゃなくて手続きが面倒ってだけなんだけど……」

 小関が結婚したとき、名義変更がとにかく面倒だったことを紫桜は目の前で見ている。

「だけなんだけど?」

「うちの母も同じこと言ってたなーって」

「え、なんて?」

「この人は私の夫ですって宣言するために結婚したって」

 一瞬真顔になった琥太朗が、次の瞬間には野菜をカットしながら笑い出した。今日は肉野菜炒めだ。紫桜は琥太朗の作るしゃきっとした野菜炒めが好きで、今日も朝のうちにリクエストしておいた。

「みんな同じこと考えるんだな」

「みんなじゃなくて、琥太くんとうちの母だけだけど」

「いや、俺も今日同じこと言われたんだよ。結婚が決まった職員がいてさ、なんで結婚しようって思ったんだって周りに訊かれて、同じこと言ってた。奥さんがモテるらしくて、誰にもとられたくなかったんだって」

「うわ、うちの母も同じこと言ってた。どう見てもうちの父はモテそうにないのに」

「そうかなあ。天埜家の当主ともなれば少なくとも泉系からはモテると思うよ」

「なんかそれ、ちょっと嫌な感じ」

 琥太朗のカットした野菜を少々拝借して中華スープを作る。今日は味噌汁よりも中華スープの気分だ。

「まあね。そういう意味では紫桜だって見合いの話が引っ切りなしにくるってことはモテるってことだろ」

「それモテるって言う?」

「言うんじゃないの?」

「えー、じゃあ琥太くんは? 狭知家当主だよ?」

「俺みたいに変に力があると逆に引かれるんだよ」

「モテなかったんだ」

「モテなかったねえ。かわいそうだろ?」

「別に。モテてほしくないし」

 炊き上がったご飯を茶碗によそう。

 急に機嫌よくフライパンから肉野菜炒めをお皿に盛り付けていた琥太朗が、はっとしたように紫桜を振り返った。

「もしかして、それっぽい演出でプロポーズしないとダメだった?」

 大袈裟なほど悲愴な声を出した琥太朗に、紫桜は間髪入れず返す。

「全く」

「だよね、紫桜ってそんな感じだよね」

 琥太朗が胸を撫で下ろすように息をつく。もし琥太朗がドラマのような演出でポロポーズをしてきたら、紫桜は即座に断っていた気がする。何より本人に似合わない。誰かの入れ知恵だろうと邪推する。

「誰かに何か言われた?」

「言われたわけじゃないんだけど、その同僚、彼女にOKもらうまで四回もプロポーズのやり直しをさせられたらしい」

 食いしん坊のおざきくんが足に纏わり付く。今日のおざきくんのご飯は週に一度の高級猫缶だ。もうそわそわしっぱなし。

 食事をしない黒狐は少し離れた位置にお座りして、小首を傾げてみんなの様子を眺めている。

「五回目でやっと?」

「そう。駄目出しされた本人はようやくなんですよってしみじみ喜んでた」

「なんか、すごいね」

 正直に言えば、紫桜にはこれっぽっちも理解できない。入籍しませんか? という提案をそれほど大々的に行わなければならない意味がわからない。断らせない手段なのか、もったいぶりたいだけなのか、思い出作りなのか。

 紫桜はふと不安になった。結婚に対する憧れのような思いがないからそんなふうに考えてしまうのか。もしかしてこれは特殊な思考なのではないか。

 紫桜は漠然とした不安を琥太朗に打ち明けた。

「俺も似たようなこと考えてたんだよ。もし俺が駄目出しされたら、あーじゃあ別にいいやってなりそうだなって。それってたぶん少数意見なんだろうなーって」

 食事の用意が調う。おざきくんは涎を垂らす勢いで自分の器を覗き込んでいる。

「もし派手な演出でプロポーズされたら、私たぶん、どんなに好きな人でも他人のフリするかも。いただきます」

「いただきます。でもさあ、世の中的にはプロポーズって一大イベントだろ?」

 二人のいただきますを聞いたあと、おざきくんも、にゃっ、と鳴いてから食べ始めた。おざきくんはわりとがつがつ食べる方だ。

「そうだけど、なんとなく自然にって方がいいかなあ。んー……単に時期の問題なのかな。手続きが面倒でなければいつでもいいんだけど……」

 満面の笑みを見せる琥太朗を見ているうちに、紫桜はなんだか恥ずかしくなってきた。今の言い方だと結婚を承諾したも同じだ。

「あっ! そういえば、一大イベントで思い出した。もうすぐクリスマスなんだけど……」

「急に話変わったね」

 紫桜が話を逸らしたことなどバレバレなのに、琥太朗はご機嫌なままだ。

「うちの母が二人で新潟までおいでって。クリスマスは妙に張り切るんだよね。そういう世代なのかな。なんか父も毎年張り切るし。でね、こっちは絶対にホワイトクリスマスだからって言い張ってる。新潟だってまだ雪降らないと思うのに」

「降るんじゃないの? 日本海側って冬は常に雪があるイメージだなあ」

「でもそのためにわざわざ新潟まで行く?」

 今日の野菜炒めもしゃきっとしておいしい。紫桜が作るとどうしてもくたっとなる。何が違うのか。火加減か。野菜の切り方か。琥太朗が作るとちゃんと火が通っているのにしゃきっとしている。

「新米送ってもらったし」

 お父さんが「この田んぼの水はいいなあ」ってやたらと感心してたから、お母さんその農家さんにお願いして直接お米を売ってもらったのよ、こーたくん、ご飯好きだったでしょ、と母が送ってきたコシヒカリは今まで食べたお米の中でもダントツにおいしい。このお米になってから琥太朗は軽くおかわりするようになった。黒狐も炊きたてならほんのちょっと口にする。魚大好きなおざきくんも二口くらいは食べる。座敷ぼっこの木皿はあっという間に空になっている。みんな新米が好きだ。

「で、なんだかんだで新年も天埜の家に行くことが決まっちゃうってパターンになりそうじゃない?」

 濁った「あー」を吐き出した琥太朗は、ふと思い出したように、そういえば、と言った。

「ちょうどその頃毎年日本橋の骨董屋に目利きに行くんだよ」

「目利き? 鑑定ってこと?」

「そう。それを理由に断ろう。紫桜は俺の助手ってことで」


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