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喋喋

 お茶を入れてくるはずの母は、なかなか戻って来なかった。

 階下のざわめきは大小の波を作り、ざわざわと落ち着かないうねりを絶えず繰り返している。野中の一軒家でもあるまいし、近所迷惑ではないかと紫桜は落ち着かない。子供の頃、近所の人に「お家の人は何か宗教でもやってるの?」と訊かれたことがある。親戚とはいえこうも人の出入りが多く、ことあるごとに集まる習性は、住宅地では異質の光景に映るのだろう。

「もう帰ろうよ」

 紫桜は琥太朗には申し訳ないと思いながらも、母の代わりにキッチンに顔を出し、お茶を用意する気にはなれなかった。鞄の中から飲みかけのミネラルウォーターを出して、琥太朗に「飲む?」と差し出す。

「紫桜はよっぽど嫌なんだね」

 ごくっ、ごくっ、と大きく二口飲んだ琥太朗は残りを紫桜に返してきた。もういいの? と視線で訊けば頷きが返される。

「琥太くんが行くって言わなければ近寄りたくなかったくらい嫌」

 ごくごく、と紫桜も二口飲んだ。生ぬるい水は温度も味も感じさせないまま、喉の奥へと落ちていく。

「そんなに縁談が頻繁にきたの?」

「なんで知ってるの?」

「いま下から聞こえてきたから」

「よく聞こえるね」

 紫桜の耳は個々の声を拾うことなく、ざわめきはうねりこそあれ平べったい。

「頻繁だったなんてもんじゃないから。もう寄ると触ると婿はどこそこの誰がいいって話ばっかり。完全に私の人権は無視されてた」

 普段は人権なんて考えることなく生きていられるのに、この家にいると人権について真剣に考えてしまう。

「俺、紫桜を他の誰にも渡す気ないけど」

 紫桜はまじまじと琥太朗を見た。琥太朗も負けじと紫桜を見返す。

「なに?」

「琥太くんもそういうこと言うんだなーって、ちょっとした感動?」

 紫桜はいま仕事が忙しく、疲れて帰って来るとおいしいご飯ができている幸せは、控え目に言っても最高だった。

 論文を書くために部屋にこもっている琥太朗に代わって紫桜が食事の支度をすることもある。琥太朗は紫桜の料理を文句も言わずに食べてくれる。文句も言わないかわりに、下手においしいと言わないところがいい。紫桜自身、時間を掛けた割にはひと味足りないような、神経を尖らせた割には火加減がいまいちな、がんばった割には盛り付けが不格好な、いつも何かが微妙な料理は、目にも舌にもおいしいとは言えない。どう考えても琥太朗がささっと作った料理の方が百倍もおいしい。そんな紫桜でもごく稀に、これは! と思うものが出来上がると、琥太朗はちゃんと気付いておいしいと言ってくれる。だから余計に、向かい合ってゆっくり会話しながら、自分の糧にするべく残さず食べてくれるだけで、最高の賛辞だと思えるのだ。

「琥太くんは、黙して語るタイプかと思ってた」

「俺紫桜に対してはかなりおしゃべりな方だと思うけど」

「でも、大事なことほど言葉にはしないでしょ」

「大事も過ぎると言葉にしたくなるんだよ」

 真顔の琥太朗が眩しく見えた。紫桜が口を開こうとしたとき、だだだだーっ、と階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきた。


「ねえちょっとちょっと」

 ノックもなく扉を開いた母の興奮した様子に、紫桜は「お母さん麦茶は?」と小さく突っ込んだ。

「それどころじゃないのよ。ねえちょっとこーたくん、こーたくんってどこかえらいところのご子息なの?」

「いえ。身寄りのないしがない大学講師です。紫桜に言わせると貧乏なダメ人間」

「私そこまで言ってな……言ったけど、悪口じゃないから」

 咎めるような母の視線に、紫桜は慌てて否定する。悪く言ったつもりはなくても改めて聞くと完全に悪口だ。ごめん、と琥太朗に謝ると、琥太朗も、俺もそういうつもりで言ったわけじゃないんだけど、と困惑していた。親しみから出た言葉であることをお互いにわかっているのが救いだ。他者に理解されずとも当事者間に理解があればそれでいい。

 母の胡乱な視線を無視して、紫桜は話の続きを促した。

「なんだかよくわからないんだけど、お母さん、こーたくんを紫桜に引き合わせたってことで、よくやったって大絶賛されたのよ。今もよくぞこーたくんを引き止めてるって気持ち悪いくらい持ち上げられてて……。普段から気持ち悪い人たちだけど、今日は輪をかけて気持ち悪いわ」

 容赦ない母の言い方に紫桜はいつも感心する。気持ちはわかるが、よくここまではっきりと口にできるものだ。ましてや、この家とは関係ない琥太朗の前で。

 母に言わせるとこの程度は序の口で、心の中ではそれ以上の罵詈雑言が飛び交っているらしい。

 女であり嫁である母は、天埜生まれの男たちの会話には加われない。加われないながらも母を始めとした嫁たちは男たちの話の端々を捉まえては持ち寄り、小さな欠片を組み合わせて何が起こっているのかを朧気に知る。時代錯誤であっても、それが天埜の家ではまかり通ってきた。

 これまで天埜に関することを直接訊ける機会のなかった母にとって、直接訊くことのできる旧知の琥太朗という存在は貴重なのだろう。母からはここで逃してなるものかという無言の圧のようなものを感じる。

「狭知の家は泉一族の総本家というか、直系というか、まあ、そんな感じです」

「泉一族?」

 紫桜は首を傾げる。一族という言葉に歴史や古めかしさを感じる一方で、今どき? という反発の方が大きいのは、今どき? と首を傾げたくなる家で育ったからか。

「大昔の祖先はミツチだったと言われている一族」

「ミツチ?」

「ミツチは、水の精って意味」

「水の精……うちの父が治水事業に関わっているのはそれと関係がある?」

「あると思うよ。天埜はミツチに仕える一族だから。天埜の天は天水、雨って意味で、埜は野原の野の旧字体。野にある水は雨からきてるだろ。天埜は雨乞いとか、引水とか、それこそ治水とか……」

「天って雨なの? 空とか天空とか、そういう宇宙っぽい意味だと思ってたのに……」

 がっかりだ。天埜という文字から受けるイメージは紫桜の中では壮大だったのに。

「空という意味でもあるけど、天埜の天は雨の意味だよ」

「琥太くんが民俗学を専攻したのって……」

「自分のルーツを知りたかったというのもある」

「も?」

「幽霊はわからないけど、幽霊とは違う何かの気配はなんとなくわかるんだよ。これがまあ便利っちゃ便利で、教授たちに目を掛けてもらってる」

「それって霊感みたいなもの? あ、幽霊じゃないから霊感じゃないか。え、何感?」

「普通に第六感でいいんじゃない?」

「ゆかりって、こーたくんの前だとよく喋るのね」

 それまで黙っていた母が急にぼそっと言った。

「そういえば子供の頃もこーたくんとだけはよく喋っていたような気がするけど……後にも先にも家に連れてきたお友達もこーたくんだけだったし、彼氏のかの字もなかったし……やだ、もしかしてそのときから付き合ってたの?」

「まさか。ちょっと前に偶然再会したの。それよりお母さん、こーたくんじゃなくて琥太くん。琥太朗だから、琥太くん」

「わかってるわよ、こーたくんでしょ」

 わかってないでしょ、と言おうとして、紫桜は直前で言葉をのみ込んだ。母の視線は琥太朗を見ているようで琥太朗を通り越していた。孝基。わずか三ヶ月しか呼べなかった兄の名前。こーき。こーた。

 ごめんね、の意味を込めて琥太朗を見れば、琥太朗は、気にするな、と視線を返してきた。

「で、こーたくんはそのミツチなの?」

「ちょっと人とは違う気配を感じるだけの人間ですけど、おそらくこの家の人たちにとってはミツチそのものなんでしょうね」

「気持ち悪い人たちはどこまでいっても気持ち悪いことしか考えないのよねえ。わかったわ。今日はこのままこっそり帰っちゃいなさい」

 母の中でどんな結論が出たのか、きっぱりと言い切ると部屋を出て、玄関から紫桜のスニーカーと琥太朗のミリタリーブーツを持ってきた。出迎えてもいないのに、よく二人の靴がわかったものだ。

「そこの窓から帰りなさい」

「お母さん、ここ二階だけど……」

「大丈夫よ、なんとかなるわ」母はやたらと自信たっぷりに言う。「それに、このままここにいたら、この場で子供作らされるような目に遭うわよ」

「なにそれ」

「気持ち悪い人たちが考えることなんてそんなものよ。今になって思えば美織さんはこのことを予感していたのかしら……だから、あんな家を紫桜に残したのかしら」

「あんな家?」

 思わずといったふうに琥太朗が訊き返した。

「そう、あんな家。だって私、相続のこと聞いてすぐにこっそり教わった住所に行ってみたんだけど、どうやってもたどり着けなかったのよ。ちゃんとスマホの地図見ながら行ったのによ。目の前にあるはずなのにないんだもの。ほらあの魔法少年の映画みたいに、家と家の間がががががーって動いたり、塀がパズルみたいに動いて家が現れるのかと本気で思ったくらいだから。周りのレンガやタイル押しまくっちゃって、あとで恥ずかしくなったわよ。それなのに紫桜はちゃんとそこに住んでるんでしょ? おまけにこーたくんも」

 紫桜が思わず母を見ると、彼女はどうだと言わんばかりに胸を張った。これはもう、観念するしかない。

「私、琥太くんと一緒に住んでるって言ったっけ?」

「言われてないけどわかるわよ。お母さんだもの」

 その妙な自信はどこから来るのか。

「あの家は、主に招かれない限り入れないようになっています」

「なるほどね、美織さんらしいわ」

「ねえお母さん、美織さんって何してた人なの?」

「表向きは作法の先生みたいなことをしてたけど、そうね、占い師っていうと胡散臭いけど、でもそんなことをしていたんだと思うわ。お母さんもはっきり聞いたわけじゃないけど。だって自分の死を悟ってたふうなんだもの。きっちり終活終えて、それで旅先でぽっくりなんてさすがに出来過ぎじゃない」

「旅先でぽっくり?」

 大叔母の最後を紫桜は知らない。なんだかんだで聞きそびれていた。

「そうよ。しかも自然死だっていうんだからお母さんびっくりしちゃって。自然死ってあれよ、老衰みたいなものよ、お父さんより少し上ってだけでそんな歳じゃなかったのに……」

「失礼ですけど、その美織さんという方は……その、本当に天埜の方ですか?」

 言いにくそうな琥太朗に、やりきれない顔をしていた母がぱっと目を輝かせる。

「そうなのよ! やっぱりこーたくんもそう思う? 私もずっと疑わしいなって思ってたんだけど……私の勘だとたぶん違うわ。少なくとも当主であるお父さんがあの人の言うことにはちゃんと耳をかたむけていたから。きっとこーたくんと同じような、どこかえらいところのお嬢さんを養女にしたんじゃないかしら。この家で女の地位が高いことなんて有り得ないでしょ。美織さんだけは特別な感じがしたもの。それこそ結婚もしないで自由でいられたのよ、特別扱いのなにものでもないわ」

「でも、よく言わない人もいるよね」

「気持ち悪い人たちは知らないんじゃないの? この家の本当のことはお祖父ちゃんとお父さんしか知らないって、だから気持ち悪い人たちの言うことに耳を貸さなくていいってお祖母ちゃんがよく言ってたから」

 そろそろ親戚のことを気持ち悪い人と呼ぶのはやめてほしい。琥太朗がそのたびに笑いを堪えている。

「お母さんとお父さんって、そういう、お見合いみたいなもので出会ったの?」

「違うわよ。ごく普通の運命の出会いよ」

 しれっと言い放つ母に紫桜は脱力しそうになる。小関といい母といい、運命の出会いが流行っているのか。

「だから、気持ち悪い人たちはお母さんのことよく言わないんじゃない。自分たちが選んだ嫁じゃなく、余所から連れてくるとは何事だーって」

 もしかして、美織さんは父と一緒になるはずだったのだろうか。そのために天埜の家に来たのだろうか。

「私も色々言われちゃうんだろうなあ」

 紫桜が溜め息と一緒に小さく吐き出すと、母はとんでもないとばかりに目の前で手を振った。わざとらしいほどその仕草が年寄りじみていて、紫桜は思わず顔をしかめる。

「言われるわけないわよ。相手がこーたくんだもの、気持ち悪い人たちは諸手を挙げて喜んでるわ」

「お父さんとお母さんは?」

「私たちは、ゆかりが選んだ人ならそれでいいって思ってるから。あっでもよっぽど変な人はダメよ。こーたくんならまあお母さんは反対しないけど。そうね、ちゃんと一人でも生きていけるなら、美織さんみたいに結婚しなくてもいいのかもしれないわね。お母さんはやっぱり一人より誰かと一緒に生きていく方がいいって思うけど、お父さんは余計なこと言うなって言うし……。ほら、お父さんもなんだかんだ言って長男だからって生活の不自由はなくても心の自由はなかったでしょ、色々思うところはあるんじゃないの?」

 家の中から一段と大きなざわめきが響いた。もしかして、だから父は転勤ばかりを繰り返してきたのだろうか。天埜の家から少しでも離れ、妻や娘を親戚たちから守るために。

「お母さん、今度来るときは連絡して。ちゃんと出迎えるから」

「いいのよ。きっとその家はゆかりのための家だから。必要があれば、ちゃんとお母さんもたどり着けるはずだもの。お母さんね、あの人のことは好きじゃなかったけど、でも、疑ってはいないのよね」

 そう母が言うと同時に、窓の外にハシゴがかかった。大叔母の家にあるような竹梯子ではなく、現代的なアルミのハシゴだ。それが妙にシュールだった。

 窓の外を見下ろせば、隣家との狭い隙間でおばの一人が周囲の様子を窺いながら、早く降りてこいと手を振っていた。


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