関長明日葉の話①
わたしの中の青見桜希に関する一番古い記憶、それは小学四年生の時のこと。
少年野球の試合、打席に立ったわたしは、投手の横を抜ける痛烈な当たりを放った。
絶対ヒットになると思った。ただ、それは桜希によって阻まれた。後ろで一本に束ねた黒髪をなびかせ、華麗に足を運び、流れるような送球を見せ、わたしの一本のヒットを奪った。
桜希は、わたしの目指す形になった。
その次の記憶は小学五年生の時、野球をやっている小学生の女子が集まった練習会の一幕。
「あ、青見さん」
わたしは前を歩く、ユニフォーム姿の桜希に声を掛けた。あんまり言いたくはないけど、仲良くなりたかった。
「はい?」
振り返った桜希は、わたしを見下ろした。背が高くて、とても綺麗で、大人びて見えた。同い年とは思えなかった。
「な、なんでもない……」
わたしが言うと、いぶかしげな表情を浮かべ、去っていく。桜希はわたしを見ていなかった。視界に捉えていただけだった。
そして、次に会ったのは、高校生になってからである。
福知山済美高校との練習試合から数日が経った。その二試合目、盗塁時にボールを足に受けたわたしは、未だ練習に復帰することが出来ないでいた。
今はティーバッティングのトスを上げている。わたしがボールをトスし、バッターが前に立てられたネットに向け、ボールを打つ。それを何度も繰り返す。
正直言って、かなり退屈だった。やっぱり早く野球がしたい。体を動かしたい。だいぶ痛みも引いてきたので、復帰できる日も近いと思う。
早く復帰して、ここ数日の浮ついた気持ちをどこか彼方へ吹っ飛ばしてしまいたい。どうも、この前からふわふわしてて、自分が自分ではないような感じがする。
原因は分かりきっている。あいつのせいだ。
ティーバッティングの間は、リズムよく金属音が鳴り続ける。
ボールをバッターに打ちやすいように、ふわっとトスする。ボールは先輩のバットに打たれ、ネットに吸い込まれる。
この先輩の番が終わった。一回立ち上がって、背筋を伸ばす。
グラウンドに目を転じると、フリーバッティングが行われている。部員たちはバッティングをするもの、守備をするものというように、いくつかのグループに分かれて、練習を進めている。
桜希は今、守備をしていた。桜希の姿を見ると、数日前の自分を思い出してしまい、鋭利な羞恥に襲われる。
どうしてあんなこと言ってしまったのだろう。
あいつの前では、なにも気にしていない、って顔を取り繕ってはいるものの、どうにも最近の自分は情緒不安定だ。
わたしは彼女に近づいてはいけない、自分が壊れてしまうから、そうわかっていた。だから、嫌われてしまおうぐらいに思っていたのに。
こんな腑抜けた自分じゃなかったはずなのに。青見桜希は、とてつもなく厄介な存在だった。
そして、厄介と言えば、もう一人。
「よろしくね、明日葉ちゃん」
「……よろしく」
次にティーを打ちに来たのは、末広乃愛、この人はある意味、桜希以上に厄介だった。
トスを上げるのを繰り返し、テンポよく末広さんがボールを打ち込んでいく。
こう間近で見てみると、流石のバッティングである。スイングはとても柔らかい。最後までゆっくりとボールを追い、ここというポイントで一気にバットを加速させる。
バットコントロール、それに選球眼はチームでもトップクラスかもしれない。
正直、この人のことは桜希の“友人A”ぐらいに思っていたけど、こいつは一癖も二癖もある、食えない存在だった。
おでこを全面的に解放した髪型と、大きくて印象的な瞳は一見して、天真爛漫なイメージを周囲にもたらす。
そんな外面とは裏腹に、こいつはとても頭が切れ、それでいて皮肉屋な側面を持っている。
人のことをなんでも理解しているみたいな態度を取り、周りの人間を見世物にするかのような態度で観察している。
一言で表すと、いけ好かない。わたしは、そんなこいつのことが大嫌いだった。
十回ぐらいティーを打った後、唐突に末広さんは口を開いた。
「最近さ、桜希が凄い楽しそうなんだよね。具体的に言うと、この前の練習試合の日から、なんでだろう?」
「……なにが言いたいの?」
「さあ?」
常に半笑いを浮かべながら話す目の前の女に、いらだってしょうがなかった。ただここで突っかかっていったら、相手の思うつぼだから、頭に浮かぶ罵詈雑言を、必死に呑み込む。
「きっとね、明日葉ちゃんは自分を引っ張ってくれる存在だって、深層意識が直感したからこそ、桜希は明日葉ちゃんに惹かれたんだと思うよ」
「……意味わかんない」
「いずれわかると思うよ」
しばらく無言でティーを続けると、ボールケースが空になった。末広さんと一緒に、ネットの中のボールを戻す。
「明日葉ちゃんは、ずっとショートやるつもりなの?」
「当たり前でしょ」
「じゃあ三年間、ずっと桜希の控えで良いってこと?」
それは大いにあり得る話だった。ショートというポジションは一つしかなく、わたしがそこで試合に出るには桜希に勝つしかない。逆に言えば、負けてしまえば試合に出られない。
だからといってあっさりと桜希に負けを認め、逃げるようにポジションを変えてしまえば、わたしという人間は終わってしまう気がした。
「わたしが納得するならそれでいいでしょ。あんたになんの関係があるの?」
「そんなのチームが許さないと思うけどね。明日葉ちゃんほどの人をずっとベンチに置いとくなんて、もったいないもの」
ボールをすべてケースに移し終わった。末広さんは立ち上がり、わたしを見下ろした。
「でもわたし、明日葉ちゃんのそういうところ好きだよ」
「わたしは、あんたのそういうところ大嫌い。人のことをなんでも理解した見たいな顔してて、ホントむかつく」
「明日葉ちゃんの“嫌い”は信用ならないからなあ」
「あんたは本当に嫌いだから」
「その言い方だと、言葉では嫌いとは言っているけど、本当は違うって人がいるみたいじゃない?」
末広さんは去っていった。やっぱり、この人は大嫌いだ。
◇◇◇◇
悶々とした思いを抱えながら、練習は終わった。できるだけ速やかに学校から退散したかった。だけど、
「関長さん」
部室を出て、足を庇いながらも急ぎ足で帰ろうとしていたわたしを捕まえたのは、主将、吉川陽子先輩だった。彼女はユニフォーム姿のままだった。
「足はもう大丈夫?」
めんどくさかったけど、会話から逃げるわけにはいかなかった。
「はい。なんとか、あと少しで復帰できそうです」
「そう。よかった」
早く帰りたかったけど、わたしは彼女に言わなくてはならないことを思い出した。
「あの、この前はすいません。わたしが怪我したとき、口答えしちゃって」
「ああ、あれね」
あのとき、「無理するな」と言う先生たちに対し、わたしはまだできると主張して引かなかった。機会があれば、謝らなければと思っていた。
「あなたぐらい強情な人は初めて見た。ホント、青見ちゃんがいてくれてよかった」
なんだか裏のある言い方だった。この人、主将のことは一年生だれもが優しい先輩だと言う。だけど、わたしにはそう簡単な人間とは思えなかった。
「……ところで、一つ聞いていい?」
「なんですか?」
「あなたは、他のポジションを、ショート以外をやる気はないの?」
その質問は、今日二回目だった。少々面食らったけど、言うべきことはさっきと同じだった。
「わたしは、ショートしかしたくないです」
主将はわたしの反論を予見してたかのように、淀みなくまくしたてる。
「あなたのことを思って私は言ってるのよ。心情的には、あなたみたいなわけのわからない一年生よりも、ずっと一緒にやってきた二、三年生に試合に出てほしい。それでも、チームのためには実力のある方が出るべきだと思っている。意地を張るのをやめるならいまのうちよ」
意地を張っている、確かにそうなのかもしれない。みんながみんなレギュラーになれるわけじゃないのに、自らそれを捨てにいくなんて、“わけのわからない一年生”扱いされてもしょうがない。
それでも、
「なに言われたっていいです。わたしはショートしかしません」
「わかった。先生にそう伝えておくから。話は以上だから、帰っていいよ」
失礼します、と言って、帰路に着く。ため息が自然と出る。
二人の人間に同じようなことを問われると、ついつい気持ちがひるみ始めてしまう。
今まで考えもしなかったことを思いつく。別にベンチでもいいと胸張って言えるのは、わたしが一年生だからであって、果たして三年生になっても同じことを宣言できるのだろうか。
いや、と首を横に振る。弱気になったらだめだ。未来のことは考えず、今は桜希に勝つことを考えよう、野球でも、それ以外のことでも、なんでもいいから、一歩ずつ進んでいこうと思った。
ただ、なんで勝ちたいかというと、主将の言うとおり、意地を張っているからとしか言いようがなかった。