7話 練習試合VS福知山済美④
プレーが止まる。関長さんの盗塁は、成功となった。ただ、その引き替えに起きたことは、代償に見合うものではなかった。
盗塁を阻止しようとしたキャッチャーの送球の逸れ、送球を受け取るはずのショートのカバーの遅れ、この二つが関長さんの運命を狂わせ、足にボールが直撃した。
彼女は、二塁ベースの上でうずくまっていた。私はそこに向かって駆けた。
二塁付近へ人が集まってくる。相手の守備陣や審判たち、みんなが心配そうに関長さんを視線を注いでいる。ベンチから飛び出してきたキャプテンや芹沢先生、それに一塁のランナーコーチをやっていた先輩もやってきた。
その先輩は、ユニフォームの尻ポケットに入れていたコールドスプレーを取り出した。関長さんの元に腰を落とし、右足へとスプレーを当てる。
「ここ?」
関長さんは、黙って頷いた。ボールが当たったのは、右足のすねらしく、患部を手で押さえていた。
スプレーから、プシューという音が鳴る。白い気体が噴出し、患部が冷やされる。
痛みを堪えているのだろう。眉尻が下がり、下唇を噛んだ彼女のその表情は、見たことがないものだった。
私は突っ立って、ただ見守るしか出来なかった。
ショートを守っていた相手の選手が、しきりに「すいません!」と何度も頭を下げている。それに構っている余裕はなかった。
「どう? 大丈夫?」
芹沢先生が、関長の肩に手を置く。どう見ても、プレーが出来そうな状態には見えなかった。
「大丈夫です!」
その気丈に奮った声はただの強がりだってことは、みんながわかったと思う。
「ちょっと歩いてみて」
彼女は立ち上がり、言われたとおり歩いた。一歩、二歩、あきらかに何かを隠しながらの不自然な動きだった。
「……ちょっとプレー続行は無理ですね」
「……で、出来ます! ほら!」
関長さんは軽く、二回ジャンプした。あきらかに着地の仕方が、右足を庇っている人のそれだった。
「ねえ、関長さん。ここで無理したってなんの意味もないのよ」
陽子先輩が説得に加わったけども、関長さんは折れない。両手をぎゅっと握りしめ、気丈な瞳で訴える。
陽子先輩と先生は、顔を見合った。手間のかかる子だわ――なんて思っているのだろうか。さっきまであんなにあちらこちらで騒がしかったグラウンドなのに、騒々しいのはここだけになっていた。
「わたしは、大丈夫ですから」
声が、静かなグラウンドに空しく響く。彼女の紅潮した頬が、鈍色の辺りへと、紅一点に咲く。
私は、その鮮やかな紅に引き寄せられた。
「ねえ。お願い、無理しないで」
向き合った。視線が正面衝突する。
「……あんたは関係ないでしょ」
「ううん、関係なくない。だって私は、あなたのプレーが好きだもの」
関長さんは、目を見開いた。
「はつらつとしたあなたのプレーをずっと見ていたい。だから、痛そうに足を引きずる姿は見たくない」
言葉が溢れ出てくる。流れるように、心からなめらかに出ていく。
「だから、無理しないで。元気なプレーをまた見せて……お願い、ね?」
手を差し出した。彼女は、なにかを逡巡するように目を強く閉じた。やがて、その目をうっすらと開け、私の手を取った。
「……うん」
その小さな手には、バットを何千回、何万回と振った証、ゴツゴツと固くなったマメがあった。
「ほら」
私は関長さんに背中を見せた。意外なことに、関長さんはなんの戸惑いもなく私に体を預けた。おんぶの体勢になる。
「よいしょっ」
落とさないよう、体をしっかりと固定する。関長さんの両腕が私の首に回される。軽いな、と思った。それなりに筋肉もついているはずだけど、それでも全然重みを感じない。
この小さな体の、どこにあれほどのエネルギーがあるのだろうと思った。
「お騒がせしました」
私の言葉に続き、彼女も「すいません」と小さくつぶやいた。自分たちのベンチに向かって歩き出す。やっと、グラウンドの時計が動き出したみたいに、皆が動き出す。
急に周りの存在を思い出し、恥ずかしい気持ちになってきた。
“あなたのプレーが好き”なんて、公衆の面前で愛の告白したみたいじゃないか。
背中の彼女は、なにも言わず私にすがっている。汗の匂いが鼻をくすぐる。暖かな体温とせわしない鼓動がユニフォーム越しに伝わってくる。たぶんそれは、お互い様だった。
「明日葉」
「何」
「なんでもない」
私は言った。なんでもないわけがないけど、ただ、積もる話はあととしよう。三塁ベンチに着いたら、すぐに彼女を下ろす。そこへ陽子先輩がやってきた。
「青見ちゃん、ありがとうね」
「いえ」
「で、悪いんだけど。そのままセカンドランナーやってくれない? 関長さんの代わりにショートに入るって形で」
「はい、いきます!」
ちらっと横目で、ベンチに座る彼女を見た。下を向いていて、顔が帽子の鍔に隠れていた。
「行ってくるね」
そう言って私は、二塁ベースへ向かって走り出した。
◇◇◇◇
結局、福知山済美高校との二試合目の練習試合は、四対二で千庄が勝利ということになった。
「今日は二連勝ということで、結果としては最高のものとなりました。ですが、まだまだ改善すべきところもあると思います。また明日から頑張っていきましょう。では、今日はこれで」
「ありがとうございました!」
夕日が水平線へと落ちそうだった。
学校に戻り、用具を片づけ、解散となった。黒色のチームウェアに着替えた部員たちが、ぞろぞろと動き出す。
集団の中に、とりわけスローなペースで歩く少女の姿があった。私は、一目散にその子の――明日葉の元に駆け寄った。
「大丈夫?」
「……別に」
明日葉は、ぶっきらぼうな一瞥を私に与えた。白黒のエナメルバッグを肩に掛け、少し足を引きずるように歩いていた。
「じゃあ、肩を貸そうか?」
「いい」
「バッグ、持とうか?」
「しつこい。なんなのよ、さっきから」
「だって、心配だもの。あなたのことが」
私たちの横を部員たちが次々と追い抜いていく。明日葉の歩調に合わせ、ゆっくり歩く。なにはともあれ、自力で歩けるみたいで、一安心だった。
明日葉は、本来ならいつもどおり電車で帰宅するところだが、怪我したという事でお母さんに迎えに来て貰うことになった。
心配で、ついていくことにした。乃愛に「一緒にこない?」って誘ったけど、「やめとく。わたしは明日葉ちゃんに嫌われてるから」って断られたのだ。
「なんであんたは、そんな恥ずかしいセリフを簡単に言えるのよ」
「さあ、自分でもよくわかんないけど、ただ、あなたのことが心配で」
私自身、なんでこんなに躊躇しないかわからなかった。
「気持ち悪。さっきだって、あんな、みんなの前で……恥ずかしい」
明日葉は、両手で顔を覆った。黒髪の中から姿を覗かせる小さな耳が、ほんのり赤みがかっていた。
「あれは私も、ちょっと恥ずかしかったけど。でも、本当のことだよ。明日葉のプレー、かっこいいと思ったし、あんな風にプレーしたいと思った」
日没が近づき、薄暗くなってきた校舎の横を抜けていく。休日でこの時間の学校は、とても静かだった。
「馬鹿にしてる?」
「ううん」
明日葉は横目で私を見た。精一杯、誠実な顔に努め、見つめ返した。すぐに明日葉は、視線を逸らす。
「あんたって、そんな人とは思わなかった。もっと、こう……クールな人と思ってた」
「……ホントの私はこんなんじゃないけどね。なんか、今日の私はちょっとおかしい」
――それはきっと、あなたのせい。さすがにそのセリフを言うのは憚られた。
学校の敷地に入ってすぐには、五十メートルぐらいの坂道がある。そこを下り終わると、歩道の無い小さな道路に出た。
「ここで待つの?」
明日葉は頷いた。まだお母さんは来ていないようだった。目の前の道路を車が一台、そしてまた一台と通り過ぎていく。
「明日葉って、今までどこで野球やってたの?」
いろいろと聞きたいことがあったのだけど、最初に思いついたのがそれだった。
「小学校のときはスポ少で、中学のときは男子の野球部」
「もしかして私たち、小学校のときとか、対戦したことある?」
「あるよ。小四のとき」
必死に記憶をたどってみたけど、心当たりがなかった。
「覚えてないなあ」
「本当に?」
「ごめん、全然」
「そう――よかった。」
明日葉は、目を細めて笑った。初めて見た満面の笑顔の威力は、私の脳をとろけさせるのに十分だった。
それきりなにも喋れなくなった。明日葉は明日葉でなにも言わず、暖かな沈黙が流れた。
一、二分後、淡い水色の軽自動車が私たちの近くに停車した。その車から出てきたのは、とても明日葉に似た、小柄な女性だった。
お母さんは、娘に一声と、私にお礼を言い、すぐに車に戻った。
もう、お別れの時間。週が明ければ学校で会えるのだけど、なんだか名残惜しい気がした。
明日葉は車のドアに手を掛け、言った。
「今日は……ありがと」
「うん。こちらこそ」
私は手を振って見送ろうと思った。ところが、明日葉はなかなか動かない。
「あのさ……」
どうしたのかと思った矢先、明日葉はこちらに背を向けたまま、口を開いた。その先の言葉を、私は一生忘れない。
「さっき、わたしのプレーがかっこいいとか言ってたけど……わたしは、あんたの――さ、桜希のプレーのがかっこいいと思うよ、じゃあね!」
明日葉はそれを言ってすぐに車に乗り込み、ドアをバンって思い切り閉めた。
「えっ?」
最後らへんはかなりの早口だったけど、確かに聞こえた。
明日葉を乗せた車が走り出し、あっという間に遠くへ消えていく。私は車が消えていった先を、いつまでも呆然と眺めていた。
◇◇◇◇
「なんか眠そうだね」
翌朝、乃愛との登校は、睡眠不足がたたって目が半開きだった。昨日の夜は、ドキドキして眠れなかった。
教室のドアをくぐる。まだホームルームまでは時間があるせいか、教室内はまばらだった。
おしゃべりをする女子たち、宿題を写しているのか、なにかを必死にシャーペンを動かす男子、いろいろな生徒がいたけど、私は一人の女の子しか目に入らなかった。
明日葉は、窓際の席に座っていた。いつも通りのすました顔で、文庫本を読んでいた。
「おはよう」
「……おはよう」
私が挨拶しても、明日葉は本に視線を落としたままだった。
「あ、足、大丈夫?」
「別に」
実に素っ気ない。今までと変わらない感じだ。
中性的とも言える整っている顔は、相変わらず非常に可愛い。そう、可愛いのだ。
昨日の夜、この顔が何度も脳裏に浮かんできて大変だった。
別れ際のまさかの言葉と、私に向けた初めての笑顔、昨日の出来事は、確実に私の脳を浸食してきている。
でも、あれは本当だったのか、頭がおかしくなった私の作り出した幻影なのでは。
「桜希」
「は、はい」
「邪魔、目障り。目の前で棒立ちなんかされたら、集中できないわ」
「ご、ごめん」
酷い言われ様だけど、実際、棒立ちしてたわけだから、反論できなかった。おとなしく自分の席に戻る。
「はぁ」
机に突っ伏す。私はもうだめだ。彼女の言葉一つ、指の動き一つで感情が乱れ、揺れ動く。
チラッと、問題の人物を伺う。そんな私の心の内を知ってか知らずか、明日葉は、取り澄ました顔のまま、本を読みふけっていた。