其の四
1
チタカの朝は早い。
四時の起床時間は年間を通して変わることはなく、薄暗い中で寝巻きから作務衣に着替えると、足音も立てずに廊下を滑り歩き、門を開ける所から一日が始まる。
開門の後は、ホウキを手にまずは本殿の掃除。畳の目にそって丁寧にホコリを集め、雑巾でさらに乾拭きをしてゆく。そして、板張りの廊下にもホウキをかけ、濡れ雑巾とかわいた雑巾を1枚ずつ手にしてから、交互に拭き清める。無心でゆっくり丁寧に、確実に行う。
人手があればもう少し早く掃除も終わるのだが、若手はチタカ1人なので自然と掃除などの雑務を一手に請け負う形となっている。とはいえ、食事や法事、講和会などのスケジュール管理は千溪が担当してくれているので、お互いに暇な時間はあまりない。カズイの仕事がない日、あるいは夏休み、冬休みの間は、もちろん彼女も掃除や衣裳の手入れなど手伝ってはくれるが、基本的にはチタカと千溪で回している。あと、マコトも。
掃除が終わると大急ぎで作務衣を脱ぎ、略式の法衣に着替える。
五時から朝の読経があり、千溪はもちろん、住職である祖父・千海まで揃うわけだから、なかなか気が抜けない一時なのだ。
清められた廊下を滑るように移動して本殿に入る。
座布団と経台を並べて末席に着いたところで、千海と千溪が順番に入ってきた。
紅梅寺はとある宗派の末寺である。
弁天町に門を構えたのは150年ほど前というが、文献などで確認するほどチタカは興味がない。
僧職についたのは高校を卒業してからなので、もう10年になる。5年は本山で修行につき、6年目で山を降りて生家でもある紅梅寺に戻った。
ゆくゆくは千溪の跡を継いでこの寺の住職になるのだろうが、正直に言えば実感もないし、そこまで考えてもいない。
今でこそ落ち着いているが、10年ほど前のチタカは近所でも門徒達のあいだでも有名な荒くれ者であった。触れば怪我をするような荒んだ気性で、似たような者たちとの喧嘩は絶えず、常に顔を腫らしており、身体中傷だらけ。当時から顔面偏差値は突き抜けて高かったせいか、カミソリのごとき気性の激しさではあっても寄ってくる女は多く、またそれが騒動の火種になる事もよくあった。
…というより、チタカがそこまで荒れ狂っていた原因のほとんどが、その美貌による所である。幼少期から不埒な大人にイタズラされかけたり、誘拐されかけたり、何かと魔の手が伸ばされて来ていたのだが。中学に上がる頃になると、周りの同級生や大人達がチタカの美貌に、いよいよおかしくなっていった。カルト的に崇拝の的とされるようになったり、担任だった男性教師に襲われかける事件まで発生した。
この頃のチタカは、線が細くて小柄な少年でもあったので、大人の男に本気を出されてしまえば、ねじ伏せられるくらいに弱かった。儚げな美少年像を体現していた。が。残念ながら中身がそうではなかった。持てる力の限りに暴れ、頭突きと禁蹴りを見舞い、大声で同級生を呼び、その教師を社会的に抹殺した。
…チタカは思う。あの事件から自分は自分に暴れることを許したのだろうと。まとわりつく不快な感覚は、暴力で解消するようになってから払拭されることに気づいてしまった。間違っているとは思っていたのだが。この苛立ちは誰にも理解されない歯がゆさもあった。幼いなりに導き出した結論。仕方がなかった。
進学すると、兄と似たような容貌の妹・モモセも被害を被る事も多々あり、チタカはますます手が付けられない程に荒れるようになる。自分だけならまだしも、家族まで巻き込むことになったのは宜しくない。特に年頃の妹だ。危険な芽を摘むために、さらに喧嘩が増えた。
だが、モモセも兄と顔も似ていれば中身も同じ…いや、チタカ以上に性格や気質が悪魔寄りであったので、黙って被害者に成り下がっていた訳では無い。ハンムラビ法典を上回る形でやり返し、ことごとく、伸ばされてきた魔の手を切り落とし、心を潰し、社会的に淘汰させた。
チタカが実直?に暴力で解消するなら、モモセは狡猾なやり方で闇へと敵を突き落とす。それを見てきた周囲の人間が、兄妹…特にモモセを恐れたのは言うまでもない。
チタカが補導されたり警察に拘留される回数が増えてきた頃、モモセがとうとうブチ切れた。当然だろう。モモセの被ってきた迷惑は、チタカが原因なモノがほとんどなのだ。
チタカが千溪と共に警察から帰宅した夜。玄関をくぐった千溪の横を、般若面の形相で走り抜けたモモセが、後から入ってきたチタカに飛び蹴りを見舞う。不意をつかれた格好のまま後ろに倒れ込んだチタカに、馬乗りになったモモセが殴りかかる。ゴスっという鈍い音に我に返った千溪がモモセを羽交い締めにしようとするも、2人して取っ組み合いの激しい喧嘩になだれ込んでしまっては、もう手が付けられない。
コロスのシネなどの物騒な怨嗟を吐き出しながら殴り合う2人を止めたのは、結局マコトとカズイだった(2人ともかなり殴られながらではあったが)。
「2人とも落ち着きましたか」
千海が本殿に正座させられたチタカとモモセを見下ろす。ボコボコに腫れ上がった顔の2人が頷くのを見て、千海が静かに腰を下ろした。
「いい機会ですし、今夜は将来の話しでもしましょうか」
「お父さん、なにも今じゃなくても…」
止めに入った千溪を軽く手で制し、千海は笑みを浮かべた。
「あんた達のどちらか。仏門に入りなさい」
あからさまに不快な顔つきをする2人を無視して、千海は続ける。
「ここまで暴れ倒してきたんですし、もうよろしいでしょう。そろそろ心身ともに穏やかに生活できるようにしてはどうです」
チタカの隣でモモセがぐっと拳を握った気配がした。
「あたしは、嫌よ」
モモセの絞り出した言葉に千海が笑みを深くする。
「理由を聴いても?」
「ええ。あたしは、やりたい仕事があるから無理よ」
「なるほど。あなたは自分の進む道を見つけましたか」
にこやかに頷く千海が、チタカを見る。
「チタカさん、あなたはどうです」
「…」
「特に先のことを考えていないなら、御仏の教えと共に歩む人生を選びなさい」
「爺さん」
「暴力以外で物事を解決できるやり方はたくさんあるんですよ」
「…っ」
「頭を冷やしなさい。4人兄妹のうち、1番未熟な考えのままここまで来ちゃったのは…あなただけですからね」
千海が視線をチタカたちの後ろにずらす。
振り返ると、本殿の入口では顔を冷やすマコトとカズイが座り込んでいた。そして、隣では目の周りを赤黒く腫らしたモモセが、真一文字に口を結んで真っ直ぐに前を見ている。心配そうにことの成り行きを見守る千溪も、近くにいた。
「俺が悪いってのかよ」
「どう考えても悪いでしょう。少なくとも、マコトとカズイはとばっちりですし」
笑う千海。
「チタカさん、明日答えを聞かせてください」
「断ったら?」
「あなたを捨てます」
「…」
「ガキの面倒は見ません。出ていってもらいます」
にこり、と笑いながら言った千海の後ろで、千溪が青くなる。これは本気だと感じるには十分なほど…重く来るモノがあった。
2
「千王さん」
朝のお勤めも終わり、経台に乗せた経文を片付けおわったタイミングだった。
祖父の千海が手招きをしている。千王と書いて普段はチタカと読むが、出家してからはセンオウと呼ばれるようになった。
「お呼びですか」
「ちょっと歩きましょう」
促されるまま、本殿から境内に降りる。まだ早朝の時間帯だ。人気もなくうっすらとモヤのかかるそこは、厳粛な空気が流れていた。
「相談なんですけども」
「…はい」
「チタニさんにいい加減、嫁を迎えてもらいたいんですが。千王さんはどう思いますか」
チタニとは、叔父・千溪の事だ。
祖父から嫁の話が出るのは初めてのことで、咄嗟には言葉が出てこない。
あの千溪に。嫁を。
「私からは…なんとも…。住職に何かお考えがあるのでしたら、そのようにされるのがよろしいかと存じます」
「おや…千王さんなら、もっと乗り気になってくれるかと思いましたけど…」
「住職のなされてきたことに、間違っていたことはなかったように存じますゆえ」
チタカの言葉に、千海がにこりと笑う。
「…。そんな風に言ってくれるのは頼もしいですね」
「恐れ入ります」
「十年前からだいぶ成長されたようで、嬉しいですよ」
ふふふ。と笑う千海にチタカは頭を下げる。
「痛み入ります…」
頭を下げたままのチタカに、千海は再び歩こうと促す。
千海のやや後ろをついて行きながら、チタカは祖父の言葉を聴く。
「あれは断ってきましたけども。跡取りは千王さんもいますし。ただ、寺のの範疇を超える仕事も増えてきましたからね。千溪さんを支えてくれる人が必要でしょうから」
「はい」
「相談されると思いますから、その時はよろしく頼みましたよ」
「畏まりました」
言うだけ言うと、千海はゆっくりと庫裏へ帰っていく。
それを見送ってから本殿を振り返ると。
「!」
本殿前の廊下に、小さな影を見つけた。
うねうねと動きながら廊下を移動するそれは、本殿の前に来るとそおぉっと中を覗き込んでから、ウロウロと廊下を行き来する。言わずもがなの、ハニさんだ。
「…」
本殿の中に入りたげにしつつも、清められた空間に恐れをなしたのか、入るに入れずオドオドと覗き込むだけ。しげしげと畳を見たり、本尊を見上げたりと、襖絵を覗き込んだりと忙しない。後ろ姿しか見えないが、その様子がおかしくてチタカは小さく笑う。
声をかけるよりは気づかせた方が良いだろう。わざと足音を立てて本殿に向かうと、案の定、ハニさんがくるりと振り向いて……満面の笑みで両手を振った。知った顔に会えたことを素直に喜ぶ素振りだ。
手を振ってから、チタカを手招いて抱っこをせがむように両手を伸ばしてくる。本殿に入れて欲しいと訴えているのはみて分かった。
周りに目を走らせて誰もいないことを確かめる。それからチタカは両手を差し出して小さなハニさんを、ふわりと持ち上げた。
「早起きなんだな」
ハニさんは頭を左右に振って楽しげに揺れる。意味は分からないがそれは理解しなくてもいいと思いチタカも小さく笑い返した。
そう言えば、昨日はカズイのカバンに忍び込んで、職場に潜入したんだったか。未知の生き物ではあるが、好奇心旺盛で憎めない性格をしていると思う。現に、現実主義のチタカも、もうこのハニさんの存在を受け入れてしまっていた。これを理解力の高い小動物と思えば付き合いやすいのかもしれない。そんなふうに思ったのは、帰宅したカズイから患者の話を聴いたからなのだが。悪いものでは無いだろう。それは何となく感じられるのだ。
草履を脱いで廊下に上がる。目の前の本殿から感じるピンとした空気に、自然と背筋は伸びた。
「ここに勝手に入らなかったのは正解だ」
ハニさんがチタカを見上げる。本殿の前で佇んだままチタカは続ける。
「本殿は聖域だ。無闇に場を乱してはならない」
チタカの手の上でしっかりと何度も頷くと、ハニさんは足元をクシャリとたたむ。どうやら正座をしたらしかった。ハニさんなりに考えての行動なのだろう。誠意が見られチタカはまた笑った。
「特別に案内してやる」
チタカの言葉に、ハニさんの顔がパアァっと輝く。本尊の前に行きたいと示す通りに向かうと、ハニさんは両手を合わせて拝み始めた。
ハニさんを手に乗せたまま、チタカも本殿の前に端座して頭を下げる。線香を焚き、再度頭を下げたところで、ハニさんと目が合った。
チタカと本尊を交互に見つめている表情で、何を言わんとしているのかが分かってしまう。チタカは本尊を見上げる。
「うちの御本尊さまは吉祥天女だ。本山に連なる寺は如来様がほとんどだから…まぁうちは変わってるんだろうな」
穏やかな微笑みを浮かべて立つ吉祥天女像を、ハニさんと言葉もなく見上げる。ややあってから、満足したらしいハニさんがチタカを見上げてペコりと頭を下げた。用事は終えたのだろう。チタカは立ち上がり、静かな所作で本殿を出た。そして、手のひらに乗っていたハニさんをそっと廊下に下ろす。
チタカに再び頭を下げてから、ゆるゆると動いて境内に降りる。離れに向かい始めたのでマコトの所に行くらしい。しばらく見送っていると、振り返ったハニさんが、満面の笑顔で手を振ってくる。
小さく振り返してから、チタカはハニさんに背を向けた。
寺の仕事はまだたくさんある。朝食までに済ませる作務に取りかかるべく、チタカは足早にそこを去った。




