クロッキーブックと旅する少女-エピソード4 I can't find my puppy.
[エピソード4の登場人物]
画家・マリー=アンジュ・桜……主人公。クロッキーが得意な少女
パステル…………桜に真名を知られて従僕となった黒猫
ヒロ………………子犬のパルを捜す女の子の霊
パル………………ポメラニアンの子犬の霊
昭子………………ヒロの母親
タカシ……………列車の旅を続ける中年男性の霊
初秋の午後。二両編成の高原列車が、のどかな田舎の風景の中をガタンゴトンと音を立てながらのんびりと走っていた。どこまでも続く田畑と、列車の規則的で単調な音が、乗客の眠気を誘う。
それが、高度が上がり人家がまばらになって自然が野性味を帯びてくると、車輪が軋む音を立てるようになる。気まぐれな自然が形作った複雑な地形が、線路を右に左にこれでもかと湾曲させているのだ。
この嫌がらせにも似た軌道のせいで、毎日遠回りを余儀なくされる列車は、面倒くさそうに車体を傾ける。地図上を定規で一直線に引いたような線路なら、どんなに早く目的地までたどり着けるであろうかと、年季の入ったこの車両は嘆息しているに違いない。
窓を半開きにした画家・マリー=アンジュ・桜は、麦わら帽を被ったまま右肘を窓辺に置き、頬杖を突いて、ゆっくりと流れる車窓の景色の変化を楽しんでいた。遠くの青い山々はジリジリと右に移動し、近くの電柱は一呼吸で過ぎ去っていく。この遠近の速度の違いが、また面白い。
たまに見える田畑の作物の豊かな実り具合を知りたいのに、それらを木々や削られた小山がサッと隠してしまうのが実に心残り。
だが、時折、予告もなく視界が一気に開ける。そう。眼前に遮る物が一切なくなるのだ。この広大で見事な風景に目が奪われると、全身が感動で震えてくる。
風が心地よい。緑の匂いを乗せるそれは、肺の中を満たし、ときたま強めに車内に入り込むときなどは、肌寒さを感じる。どうやら、だいぶ高度が上昇したようだ。
その時、不意に、左側から声が聞こえてきた。
「おい、他に客はいるのか?」
パステルの声だ。問いかけられた桜は、乗車したときから空席だった向かい側にいったん目をやって、さらに左のボックスシートを見る。それから腰を浮かして前後を見た後、自分の左横に置いてある黒いリュックの方へ振り向いた。
「いないよ」
ところが、彼女の返事が待ちきれないのか、すでにリュックがもぞもぞと動いていて、パステルの頭がリュックから飛び出した。
「ぷふぁー。いつまでここに閉じ込める気だ? ああん?」
「次の駅まで。キャリーケースがないから、我慢して」
「こんなことなら、お前に化ければ良かった」
「電車賃、二人分取られるでしょう? 駄目よ。……あっ、誰か来た」
「ちっ。後でマッサージしろよな」
パステルの頭が、慌ててリュックの中へ引っ込んだ。それを見た桜は、フフッと笑う。本当は誰も車内にいないのだ。彼女は、麦わら帽子を取って、それで蓋をするようにリュックの上へかぶせた。
それから、もう一度、車窓を流れる野性味のある自然を楽しむ。窓枠が切り取るそれは、複雑だが絶妙なバランスを見せる瞬間があり、クロッキーブックに描き写したくなる衝動に駆られる。
そんな彼女が、長い髪を風が撫でるに任せていると、突然、左耳がジーンと鳴った。
――何かが近くにいる気配がする。
――視線のようなものを感じる。
桜は、ふと、向かい側の座席へ目をやった。
すると、たちまち、彼女の双眸が見開かれる。
つい今し方、誰もいないことを確認したのに、向かいの座席に中年の男性が座ってジッと彼女を見つめているのだ。
男性は、白髪交じりのスポーツ刈り。目は丸くて鼻が低く、唇は分厚い。着ている和服は白い長着、履いているのは草履である。
(ああ……この人、影がない。見えているのは私だけね)
桜は、男性が霊であることを確信した。影がないこと以外にも、物音を立てずに瞬時に向かいの座席に座ること自体、人間ではないことを物語っている。
二人はしばらく無言で見つめ合っていたが、この沈黙を破ったのは男性の方からだった。
「そのお顔、……私が見えているのですね?」
「え、ええっ……」
男性の目が糸のように細くなる。そして、口元がほころび、柔和な表情になった。
「よかった、会話も出来るみたいだし」
「ここで、何をしていらっしゃるのですか?」
「旅ですよ。家を出てからというもの、ずっと話し相手がいなくて。そろそろ、誰かとお話ししたいなぁと思っていたところなんです」
「旅……をされていらっしゃるのですか?」
「はい。三途の川への行き方を知らないんです――って、嘘ですけど」
男性は、そう言って吹き出した。
「私、タカシって言います。お嬢さんは?」
「桜です」
「桜さん。良い名前だ。私、桜の花が大好きでして、全国の桜の名所を観て回っていたんですよ。そうしたら、ローカル線にもはまってしまいまして」
タカシは、遠い目になった。
「いつか、全国のローカル線を制覇しようと。……でも、駄目でした。仕事が忙しくなって、それどころじゃなくなって。そうこうしているうちに、過労で倒れてしまい、挙げ句の果てはこんなになっちゃって」
彼は、長着の袖を指でつまんで両手を広げた。
「どうしても行きたかったところが行けず、心残りで、こうして旅をしているのです。……おっと、すみません、桜さん。私ばっかりしゃべってしまって」
「いえいえ」
「桜さんは、これからどちらへ?」
「次のS駅です」
「S駅? この時間帯ですと、これが今日最後の列車ですから、どこかお泊まりに?」
「はい。H荘という宿に」
「ああ……」
なぜか、タカシはそう言って、首をゆっくり縦に振った。
「泊まったこと、おありですか?」
「一度だけ。……あそこ、夜になると、従業員が全員帰るのです」
「全員?」
「従業員ったって、女将とその子どもの二人だけです。子どもって言っても、小学生ですけどね」
「そうなんですか!? 小学生が働いてもいい――」
「いやいや、実質は女将だけです。子どもは、母親が家にいないからって、寂しくてくっついてくるだけです」
「そうですか……」
「宿屋の広告に、アットホームな食事付き、って宣伝文句、あったでしょう?」
「はい」
「あれ、夜はカレーで、朝はサンドイッチ。そのサンドイッチは、女将が家で作ってH荘に持ってくるのです」
食事のメニューが何かを楽しみにしていた桜は、ネタバレされて正直ガッカリする。
「はあ……。でも、なんで、夜になると全員帰るのですか?」
「女将に聞けばわかりますよ」
そこだけ謎にされると、彼女も消化不良だ。顔では笑うけれど、気持ちの上では頬を膨らませる。
「……おっと、S駅ですね。どうぞ、良い旅を」
「タカシさんも」
列車は、慎重すぎるほど静かに停車する。麦わら帽子を被ってリュックを背負った桜は、タカシに別れを告げて、軽やかにホームへ降り立った。滑るように発車した車両を見送った後、彼女はホームから駅舎へと入る。
と、突然、彼女の足が床に張り付いたように止まり、体が前のめりになった。
(えっ!? 誰かいる!)
無人駅なので誰もいないと思いきや、白いドレスを着た少女がベンチに座っていて、こちらを見ていたのだ。年格好は六、七歳くらい。あどけなさが残る丸顔に、光沢のない黒い瞳。陶器のようなすべすべの肌、生まれてから切ったことがないくらいの長い黒髪は見とれてしまうほど美しい。額を隠す前髪は真横に切り揃えられている。その人形のような姿は、桜の記憶に一瞬にして刻み込まれた。
少女は、列車に乗り遅れて嘆いている様子はなく、この停車場で誰かを待っていたようだ。現に、身体を少し傾けて、桜の後ろの方へも視線を送っている。
だが、桜以外に生身の人間は誰もいないことを少女は確認すると、もう一度桜を見上げた。そうして、この場にもう用はないとでも思ったのか、両足を上げると、弾みを付けて立ち上がり、駅舎の外へ一目散に駆け出した。ところが、足音は聞こえてこなかった。
「おい、どうした?」
背中のリュックがもぞもぞと動いて、パステルの声がした。
「これで、二人目」
「なにぃ!? さっきみたいに、成仏できない奴がか?」
「うん……」
「それはいいから、早く俺を降ろせ」
「はいはい」
リュックの中から解放されたパステルは、床の上で前足を突き出し、大きな伸びをした。
「お前の行く先々では、どうしてこう、浮かばれない奴らがいるんだろうな?」
「なにそれ? 名探偵の行く先々で、待ってましたとばかりに殺人事件が起こるみたいな言い方」
「なに? 違うのか?」
「私は普通の絵描きです。たまたま、霊が見えるだけ。そして――」
彼女は、ヨイショとリュックを背負い直す。
「ちょっとお手伝いするだけよ」
「見捨てておけんってか?」
「そうよ」
桜は、さっきまで女の子が座っていたベンチに目をやってから、ゆっくりと歩み出した。
◆◆◆
駅前の雑木林を左横に見ながら、細い道をクネクネと歩いて行くと、一軒の平屋の建物が見えてきた。その前に、板にペンキで「H荘」という手書きの立て看板がある。これがなかったら、ちょっと大きな農家と間違えて通り過ぎたかも知れない。
道から車一台分奥に引っ込んだこの家は、三方向が鬱蒼とした木々で取り囲まれ、雨戸は全て閉められている。磨りガラスの引き戸は、鍵がかかっていて開かない。呼びかけても、誰も反応しないし、中から物音もしない。これでは、完全に空き家である。
「おい、これが宿屋か?」
「看板があったでしょう? ここに間違いないわ」
「新たな事件の匂いが、そこはかとなく」
「しません」
「きゃー、助けてー、って声が」
「聞こえません。……言っときますけど、私、探偵じゃありませんからね」
吐息を漏らした桜は、リュックを地面に置いて、玄関の前で腰を下ろす。そうして、周囲を見渡し、ちょうど良いバランスで生えている木々の一群を見つけると、リュックからクロッキーブックとコンテを取り出して描き始めた。初めは彼女の絵を覗き込んでいたパステルも、あくびを一つすると、周囲を見渡して、そのうちに目をしょぼしょぼとし始めた。
すると、パステルの耳がピクピクッと動いた。気配を感じたのだ。その方向――左方向に顔を向けると、建物の陰から黒髪の少女が桜たちの方を覗いているのを発見した。パステルと目が合った少女は、すぐに顔を引っ込めた。
「おい、人がいるぞ」
「どこに?」
「むこうに。女の子だったぞ」
その言葉に、桜は駅舎で見た少女の顔が瞼に浮かんだ。
「黒髪の子?」
「ああ」
「……そっか。私達が来るのを待っていたんだ」
「さっき言ってた、成仏できない奴か」
「みたいね」
「追わなくていいのか?」
「ソッとしておきましょう。用があるなら、向こうから来るはずだから」
「呑気な探偵だな」
「だ・か・ら、探偵じゃないって」
桜は視線をパステルから木々に移し、再び紙の上にコンテを滑らせた。
陽が傾き、パステルは何度もあくびをする。クロッキーブックを閉じた桜も、つられてあくびをしていると、車の音が近づいてきた。減速した白い乗用車が桜の前に止まると、中から痩せ細った面長の女性が、さも済まなそうな顔をしながら降りてきた。カーキ色のシャツとデニムパンツを穿いた、女将というより普通の主婦という雰囲気の女性だ。
「こんなに早くお越しになるとは思いませんで……だいぶお待たせしましたでしょうか?」
電車の到着時間がわかれば、ここに来る時間もわかるだろうにとは思った桜だが、表情には出さず、「大丈夫です」と心にもないことを口にした。そして、タカシが言っていた、もう一人の従業員の姿を探す。しかし、車から誰も降りて来る様子がない。桜は、首を傾げながら訊く。
「お一人ですか?」
女性は、なぜそんなことを唐突に訊くのだろうという顔をしつつも、「ええ」と答え、お返しにとばかり間髪入れず質問してきた。
「お客様は、お一人……と、そちらの黒猫ですか?」
彼女は、桜のそばで目を細めて女将を睨み付けるパステルを指差した。
「はい」
「桜……さんでしたよね? 上のお名前は、かく……かく……」
「画家・マリー=アンジュ・桜です」
「すみません、かくいえさん。今から、開けますね。……あっ、私、H・昭子と申します。お泊まりは1泊ですよね? 朝にお発ちになるご予定で」
「はい」
「夕食と朝食付きですよね?」
桜は、タカシから聞いた料理を頭に思い浮かべながら「はい」と答えた。
昭子は急いで玄関を開けて、パタパタと廊下を走る。そうして、雨戸をガタガタと開け始めた。
「あっ、どうぞ。中へお入りください」
「どちらのお部屋ですか?」
「どこでもお好きなところを。他にお泊まりのお客様はいらっしゃいませんので」
そのアバウトぶりに、桜はパステルと顔を見合わせて苦笑した。
建物の中に入ると、八畳間の和室が3つあった。どうも、これらが好きに選んでよい部屋らしい。どの部屋も少し湿っぽく、畳の匂いよりも埃の匂いがするので、どれを選んでも外れのように思えてきた。なので、彼女はトイレに一番近い部屋を選んだ。すると、女将が、妙なことを言い始めた。
「この家、あちこち建て付けが悪く、少しガタガタと音がします。風ですから、気にしないでください。あと……」
昭子が言いよどむ。
「鳴き声がするかも知れませんが、その辺に出没する動物ですので、それも気にしないでください。……じゃあ、夕方のお食事は6時でよろしいですね?」
「は、はい」
そんな短い桜の返事を待てないのか、昭子は軽く会釈をすると、すぐに背を向けて調理場に向かって行った。
部屋の壁に、片付けられたテーブルが立て掛けられている。隅には、布団一式と薄い座布団も積まれている。一応、液晶テレビが窓際にあるが、サイズが小さい。床の間に飾ってある掛け軸は、古色とシミがあり、虫食いまである。
それにしても、ウエルカムドリンクもお茶もない。お茶菓子は当然ない。こうなると、ただただ、部屋の真ん中で足を投げ出して座るしかないのだ。
ここまで客を歓迎する気持ちがない旅館は珍しいと、桜は頭を掻いた。そして、心の声が漏れる。
「どうりで、めっちゃ安かったわけね……」
パステルが「費用をケチるからだ」と突っ込むも、彼女は聞こえないふりをした。
しばらくすると、確かにカレーの匂いがしてきた。この料理は、夕食が何かを楽しみにしている客の期待を早くも裏切る素晴らしい能力を持った料理とも言える。
煮込んでいる段階になったらしく、昭子が調理場を離れて桜の部屋へ早足にやってきた。そして、部屋の真ん中にテーブルをセットし、出て行く。次は、ポットと湯飲みと急須を持ってきて、出て行く。さらに、お茶菓子として茶まんじゅうを持ってきて、出て行く。今度は何を持ってくるのか読めないでいると、おしぼりを持ってきてテーブルの上に置く。
なんで一度に出来ないのだろうと思えるが、そんな疑問符を頭に描く客を無視して、電球を付けて雨戸を閉め始めた。そんな昭子の行動を追う桜とパステルの視線が、見事にシンクロしていた。
夕方6時きっかりになると、昭子が配膳したカレーの皿、山菜漬けの小鉢、水の入ったコップ、そして大きめのスプーンがテーブルの上で夕食の準備完了を無言で宣言していた。
「では、私はこれで。終わったお皿は、調理場に戻しておいてください」
「あのー」
「はい? おかわりは調理場で――」
「いえ。そうではなく、昭子さんは宿泊客がいるときに、こちらには泊まらないのですか?」
急に、昭子は畳の上に目を落とした。
「自宅で親を介護していますので」
「そうでしたか。失礼なことを尋ねてしまってすみませんでした」
謝る桜に昭子は一礼し、そそくさと去って行った。
カレーは、やけに黄色みが強く、塩っ辛く、水っぽい。大きめのニンジンには雑なピールの跡が残り、ジャガイモにまでわずかに皮が残っている。いかにも、介護優先、早く調理を終わらせたい気持ちがこもった料理である。
「なんか……朝のサンドイッチの中身、想像できちゃった」
ため息交じりにつぶやく桜を見上げるパステルは、クッキーをくわえながら「それもそうだが――」と切り出した。
「他にも訳があるな、ここにいたくない理由」
「何?」
「あの女の子のことさ」
「ああ……なるほどね」
「夜中に、接触してくるな」
「その勘、意外に当たりかもね」
「意外かよ。ったく……」
笑う桜は、大きめの米飯をスプーンですくい上げ、山菜を載せて頬張った。
テレビのチャンネルサーフィンも飽きてきた頃、桜は自分で布団を敷いて、電灯の豆電球だけをつけた後、着替えもせずにゴロリと横になった。こうすればおそらく、あの女の子が自分に接触してくるはずと確信していたのだ。
その予想は、当たっていた。
しばらくして、襖が、突然ガタガタと音を立て始めたのだ。部屋の真ん中の戸である。風の悪戯であるはずがない。
すると、子犬の鳴く声が遠くから聞こえてきて、間髪入れず、女の子の声がした。
「パル?」
襖の動きが止まった。しかし、十数秒後、再びガタガタと音が聞こえてきて、また子犬の声がする。
「パル、どこにいるの?」
桜は、上半身だけ起こし、音のする方向へ声をかけた。
「どうしたの? パルというワンちゃんを捜しているの?」
ところが、それから声が聞こえなくなった。音もしなくなった。
声の方向をジッと見つめていた桜は、背後に何者かの気配を感じて振り向いた。そこには、あの駅舎で見かけた白いドレスの女の子が、警戒する顔つきで立っていた。
「おねえちゃん、わたしがみえるの?」
「うん、見えるよ。私、桜。あなたは?」
「ヒロ」
「ひろちゃん。はじめまして。ここで何をしているの?」
「わたしが、こわくないの?」
「怖くないわよ。何か困っているんだったら、教えて。パルっていう名前のワンちゃんを捜しているのかな?」
ヒロは無言で頷いた。
「声が遠くから聞こえたけど、お外かな?」
「おそとじゃない。だって、このいえのなかからきこえるんだもん。でも、そこにちかづくと、いないの」
「なるほどね。声はするけど、いない……か。その声って、いつも同じ所から聞こえるの?」
「ううん。いつもちがう。だから、こまっているの。おにごっこしているんじゃないのに」
桜は、状況から推理を巡らす。
パルという子犬が、いつも違う場所で鳴き声を出す。そこにヒロは近づくも、会うことは出来ない。もしかして、お札の結界にでも守られているのだろうか?
(近づくと、いない。なぜだぁ……、考えろぉ……)
しきりに頭を掻く桜は、パステルを捜す。
「パステル……いた。ねえ、なんかアイデア、ない?」
ところが、パステルは、なぜか部屋の隅で丸まって、小刻みに震えている。
「なーんだ、犬が怖いの?」
悪戯っぽく笑った桜は、パステルの哀れな姿を見て、突然、ひらめいた。
「そうだ! わかった!」
急に立ち上がった桜。ヒロは、期待の目を彼女へ向ける。
「なにがわかったの?」
「見つからない理由。……そうよ。そりゃそうよ」
「そう――って?」
「ここで待っててね。会わせてあげるから」
桜は「パル!」と叫ぶ。遠くの方で子犬の声がする。
「あっちだ」
そう言って、彼女は声のする方へ駆け出した。
そこは、調理場だった。真っ暗なので電気を付ける。眩しい光の下、見渡すと、部屋の真ん中にまで調理器具や洗い場があるので、歩ける面積が狭い。腰を低くしてゆっくり歩き、隅々まで見渡すと、いた。茶色の毛並みのポメラニアンの子犬が、勝手口の近くで丸まって警戒している。よく見ると、ヒロと同じく影がない。
「さあ、おいで。何もしないよ」
警戒を続けていたパルだが、桜の優しい笑顔に警戒心も薄らいだようで、尻尾を振って近寄ってきた。
「怖かったんだね。そして、寂しかったんだね。ヨシヨシ。ひろちゃんに会わせてあげる。でもね。今のひろちゃん、おそらくあなたが前に見た姿と違うし、匂いもないから、わかるかなぁ?」
時間をかけてパルを人に慣らした後、桜は部屋にパルを連れて来た。
「ひろちゃん、ちょっと待っていてね。パル、ひろちゃんの姿が違うから、ちょっと怖いって。匂いもないからわからないって。もしかして、人と何かあったのかもね。知らない誰かにいじめられたとか、イヤな思い出があるのかしら。かなり、警戒している」
「おねえちゃん。いつものように、こえをかければいいかなぁ?」
「そうね。いつものように話しかけてみて」
それからヒロは、桜の足の後ろに隠れているパルに向かって、いろいろと話しかけた。呼び方を変えてみたり、思い出話を語ってみたり、時には歌を歌ってみたり。すると、パルは目の前にいるのが昔のヒロだと気づいたらしく、尻尾を振って近づいていった。
「パル! あいたかったよー!」
両手を広げるヒロは、涙をこぼしながらパルを迎えた。
桜は「ひろちゃん。パルに会えて良かったね」と言いながら、リュックからクロッキーブックとコンテを取り出して、この感動の再会の場面を素速く描いた。
「おねえちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
「じゃあ、いくね」
「どこへ行くの?」
「とおいところ。さあ、パル、いっしょにおいで」
「うん、わかった。さようなら」
「さようなら」
ヒロとパルは部屋を出て行った。
「ねえ、パステル。いつまで震えているの」
「お、俺は、怖くないぞ! あんな子犬くらい!」
「でも、震えているじゃん」
「おい、今日はお前のそばで寝るぞ! いいな!?」
「はいはい」
翌朝、7時に玄関の開く音がした。昭子がサンドイッチを持ってやってきたのだ。その音で目が覚めた桜は、大慌てで布団を畳み、ワンピースの皺を伸ばす。寝間着に着替えていなくて良かったと思っているところに、昭子が襖を開けて入ってきた。
「おはようございます。昨日は、音がしましたか?」
真っ先に聞いてくるのだから、よほど気になっていたのだろう。桜は、安心させようと言葉を返す。ところが、これが失敗した。
「ええ」
本当は「全然」と答えるつもりでいたが、うっかり正直に答えてしまったのだ。桜は、困った顔をする昭子を見て狼狽えた。
「鳴き声も?」
こうなったら、全部正直に答えようと桜は腹をくくる。
「え、ええ……」
昭子を直視できない桜は、畳に目を落とす。すると、畳の上にクロッキーブックが置いてあるのが見えた。夜中に描いた後、リュックにしまい忘れたのだ。急いで拾い上げた桜は、手が滑ってクロッキーブックを落としてしまう。
その弾みでクロッキーブックが開いて、ヒロとパルを描いたページが昭子の視界に入ってしまった。
「これは……!?」
桜より早くクロッキーブックを拾い上げた昭子は、震える手でそのページを広げ、凝視した。
これにも正直に答えねばと、桜は「それは、昨日見たひろちゃんとパルを描いたものです」と告げた。
「この子が……見えたのですね」
「はい」
「パルも……いたのですね」
「ええ」
それを聞いた昭子の眼から、堰を切ったように涙が溢れてきた。
桜は、夜中の出来事を包み隠さず白状した。すると、昭子は涙を拭きながら、ヒロとパルの話を語り始めた。
ヒロは今年の春に小学一年生になったばかり。父親はなく、介護が必要な祖父母では面倒を見られないので、昭子と一緒に朝この宿屋に来て、ここから学校に通い、夜に実家へ帰るという生活をしていた。ところが、春の終わりに重い病気にかかり、この宿屋の離れで2ヶ月前に突然亡くなった。ヒロ以外に懐かないパルは、主人を捜して家を出たり戻ったりを繰り返した。ところが、どこかでひどくいじめられたのか、人の姿を見ると逃げ出してしまうほどになり、そのうち行方不明になってしまった。
「かくいえさんのお話ですと、音を立てていたのはパルを捜していたヒロだったのですね」
「そうです」
「パルは……亡くなっていたのですね」
「はい」
「ヒロは……ヒロはまだ、ここにいるのでしょうか? もし、いるのなら、伝えて欲しいことが――」
「いいえ。パルと一緒に遠いところへ行くと言っていました」
昭子は肩を落として膝を折り、両手で顔を覆って嗚咽した。
◆◆◆
S駅のベンチに腰掛ける桜は、リュックからもぞもぞと頭を出したパステルの脳天を押さえ込んだ。
「こら、何をする!」
「もうすぐ、列車が来るわよ。乗る人も来そうだし」
「今度はキャリーケースを買えよな」
「高いんだから、我慢して」
「ちっ。……そういや、さっきの魔法で、あの女に何をした?」
「あの魔法? ひろちゃんが夢の中に出てきて、『今まで音を立てて、お客さんを怖がらせてごめんなさい。これからパルと一緒に遠いところへ行きます』って言った、と記憶を書き換えたの」
「絵の一枚でも置いてやりゃいいのに」
「駄目よ。……余計に辛くなるから」
やがて、列車が静かに到着し、桜は足取りも軽く乗り込んだ。見回すと、昨日と同じく誰も乗っていない車両のように見えたが――、
「おや。またお目にかかりましたね」
右横から聞き覚えのある声がするのでビックリして振り向くと、いつの間にかタカシが座っていた。
「あー、ビックリした」
「そりゃ、幽霊ですから」
「行きたいところは行けましたか?」
そう言いながら、桜はタカシの向かい側に腰を下ろす。
「それがですねぇ……。ちょっとお願いしたいことがありまして、戻ってきたのですよ」
「何でしょう?」
桜は、身を乗り出した。
「次のT駅で降りてはもらえませんか?」
「ああ、ちょうど、次の宿をその駅のそばの旅館に予約したところです。いいですよ」
タカシは、安堵の表情を見せて「それは、よかった」とつぶやき、細めた目を窓の外に見える山の方へ向けた。
最後までお読みいただきましてありがとうございます。
元々、長編物として考えていたのですが、独立したエピソードに分割し、短編として公開しています。