巻の一 那珂の水
明和9年の大晦の江戸は除夜の鐘が鳴り始めた。
しかし、この鐘がなる最中に、どてらを着た老人と、浪人の形をしている若者が互いに切っ先を相手の喉に狙いを定め、どてらは正眼の構え、浪人は上段の構えで生死の境を越えようとしていた。
「鹿島新当流坂井彦兵衛」
どてらが名乗る。
「薩摩示現流西家左衛門慎司」
浪人が名乗る。
中々二人は攻撃を仕掛けない。しかし、除夜の鐘の最後の突きが終わったとき、ことは動いた。
坂井と名乗ったどてらが気合いを発しながら、西家と名乗った浪人の喉元へ切っ先を動かした。もし見物人がいたなら、浪人が斃れると思っただろう。しかし、骸となって大川に落ちたのはどてらだった。
ぎょえー!!
と声を発しながら、大川に落ちた。
「わしの行く先はこのようなことばかり起きる」
寂しげに西家はつぶやき、家路についた。
「そろそろ夕餉にしましょう、慎司」
「はい、かか様」
常陸国水戸。城下町には夜が迫っていた。このどこの家にもある平凡な雰囲気を出しているのは、水戸藩家臣西家次衛門高次の屋敷だ。
「ただいま次衛門が戻ったぞ!」
「おお、父様のお帰りじゃ!ととさま、夕餉はご馳走のあんこう鍋ですぞ!」
「そうかえ、慎司」
西家家は家禄200石の家で、裕福とは言えなかった。あんこう鍋は冬の西家家の1番の馳走だった。
「皆のもの、今日はどんどん酒を飲め!」
この日、西家家は人数こそ少ないが勢いだけは大宴会となった。
「城中でご家老からお呼び出しがあった」
次衛門は宴の途中で言い出した。
「わしは来年から江戸勤番となった」
一族からどよめきが起こった。これまで西家家は水戸常駐であったからだ。
「なんでも殿直々のご指名という。皆のもの、これから引越しの準備をだんだんと始めるでな、よろしく頼むぞ」
「畏まって候」
一族が一斉に言った。
「慎司、お前も同行だぞ。江戸についたらな、お前は北辰一刀流玄武館道場に入れと家老から言われとるでな、今からでも東武館で更なる稽古をせよ」
「わかり申した、父上」
「うーむ、いい返事だ」
宴は夜九つ(深夜十二時)まで続いた。