8 二重の危機
蠢く三つの視線は一点に集中している。部屋の戸口で、母に抱きしめられている少女へ。
屋敷の二階にある部屋を覗く三つ目。相当な巨体であることは間違いない。
物の怪が一際大きく、首を振るった。大音声とともに、壁は砕け、瓦礫が飛び散り、辺りは一面土煙。部屋は一瞬で半壊した。
幸いにも、人々は吹き飛ばされるだけで済んだものの。
「な、何なんだ一体!?」
「化け物だー!」
雪蓮を診察していた医者は逃げ惑い、使用人は腰を抜かし、母と娘はへたり込み、知府はその前で呆然と立ち尽くしている。屋敷は今や、大混乱の坩堝だ。
「何してるんです!」
黄雲の声。木剣を構えつつ、後ろに振り返り、続ける。
「危険ですから! ビビってる暇があるなら早くお逃げください!」
「わ、分かってる!」
多少無礼な言葉遣いも、今は気に留めている暇は無い。少年の叱咤に喝が入ったのか、腰を抜かしていた者たちも、一斉に立ち上がる。
しかし物の怪も待ってはくれない。
収まりつつあった土煙の中、崩れ落ちた壁の向こう。
月光が照らすその姿は、三つ目の大猪。
ぬらりと光る巨大な鼻をもたげたかと思うと、振り下ろされる三撃目。
「うわぁっ!」
今までで一番の威力。爆ぜたように瓦礫が飛び散った。一番最後まで部屋に残っていた、黄雲と知府夫妻、そして雪蓮が、部屋向かいの廊下へ投げ出される。
「い、いたた……」
「お前たち、無事か!」
「え、ええ……あなた……」
「…………」
各々うめいたり、安否の確認を行う中、だんまりがひとりだけ。
「どうした、雪蓮? どこか痛むのか?」
「…………」
知府は娘の顔を覗き込む。沈黙の少女の口元には、未だにしっかりと黄色い札が貼り付いている。
「おっと失礼」
少年がペリッとそれを剥がす。自分で貼っておきながら、今まですっかり忘れていた黄雲である。
やっとしゃべれるようになった雪蓮が発した、第一声は。
「あの! 今日は街を案内してくれて、ありがとう!」
「………………」
黄雲をしっかり見つめて放たれた、その言葉。今度は他三人が沈黙に陥る番である。
「今それ言う?」
黄雲がぼやくが。
「おい、どういうことだね?」
「どういうことです!」
「えー、あのー、えーと……」
知府夫妻に両側から問い詰められる。
ただでさえ危機的状況なのに、それが二重に重なってしまうとは。しかし救いの手は現れた。
「娘をよこせぇぇぇぇ!!」
猪の物の怪が、こちらへ向かってさらに屋敷を突き崩す。二、三歩後ろに下がってからの、突進。繰り返される突進、その度屋敷はぐらりと揺れる。
「ほ、ほらほら! 今はそんな場合じゃありませんよ!」
「む、むう……」
追求は一旦中止。心のどこかで、物の怪に感謝の念を禁じ得ない黄雲だった。
しかし。この状況、如何すべきだろう。このまま逃げたとして、屋敷が物の怪に壊されてしまう。知府から報酬を巻き上げ……ではなく、頂きたい身としては、余計な損害を避け、その分報酬に上乗せしてほしいところだ。
大猪の狙いはひとつ。崔雪蓮を喰らうこと。なんでこの娘を喰らいたいのかは分からないが、雪蓮が目標であることは間違いない。
それを利用しない手はない。
「知府殿、ご婦人と娘御を連れてもう少し奥へ! ただし階段は降りないでください!」
「お、降りるなだと!?」
少年の指示は、「逃げるな」とでも言うように知府夫妻へ響いた。どういうことだ、とにじり寄る知府たちを他所に、黄雲は崩れた部屋の前へ足を踏み出した。
一歩、二歩。
三歩、四歩。
五、六、七歩。
廊下の上を、北斗七星をなぞるような歩みで部屋へ近付き、木剣を振りかざして最後の七歩で、その切っ先を部屋に向かって突き出した。
折しも、大猪は部屋を破壊し尽くして、今にも廊下へ襲いかからんというところ。少年がかざした木剣のすぐ先で。
「ピギャァァア!」
突進を仕掛けた大猪が、甲高い声を上げて弾かれた。まるで木剣の先に、目に見えぬ壁でもあるかのように。
「お、おお! 物の怪を弾いたぞ!」
「すごーい!」
歓声を上げる父と娘。
「結界というやつか! ならば、今のうちに逃げ……」
「いーや、お待ちください知府殿」
切っ先を大猪に向けたまま、少年が振り返る。
「このまま逃げたところで、かの大猪は必ず追ってきます。この結界もあまり持ちますまい」
「むぅ……じゃあ、どうすればよいのだ」
知府が口の上に生えた髭を、神経質な仕草で撫でる。黄雲はこともなげに提案した。
「僕がお嬢さんを連れて、あいつを退治します」
その言葉に、一瞬の沈黙。
「ば、ば……」
「馬鹿言わないで!」
知府の台詞を先取りし、夫人が叫んだ。
「冗談じゃありません! どうして雪蓮を連れて行かなくてはならないのです!」
「僕といっしょにいるのが、一番安全だからです」
一切のよどみなく言い切る少年に、夫人は言葉に詰まる。実際のところ、雪蓮がいれば敵の注意を引きやすく、早目に退治しやすいだけのことだが。物は言い様だ。
「弟子殿」
そっと夫人の隣に歩み寄り、知府が口を開く。
「本当に、大丈夫か」
真剣な瞳。黄雲は深く頷く。
「お任せください。ご令嬢は守り抜きます」
その言葉に目を輝かせたのは、当の雪蓮その人だった。
黄雲は木剣の角度を維持したまま、器用に懐をまさぐる。取り出だしたるは、ウグイス色の丸薬三粒。
それをぐいっと飲み込むと、今度は道具袋に手を突っ込み、札を二枚、取り出した。
それをそれぞれ一枚ずつ、両足の脛に貼り付ける。書かれている赤文字は『神行』。
これで準備は完了だ。
「さて知府殿。報酬は弾んでくださいよ!」
「あ、ああ! 娘は頼んだぞ!」
「お嬢さん、こちらへ!」
「は、はい!」
呼ばれた雪蓮が、緊張しているのか硬い動きでやって来る。その表情は、なんとなしにニヤついているような……
「……なんで嬉しそうなんです?」
「え、えへへ……」
黄雲は自分の背中に負ぶさるよう雪蓮に指示し、木剣の切っ先を下に向ける。恥ずかしがる雪蓮のせいで、彼女を背負うのに少し手間取ったが割愛。
背後からは、頼むぞ、無事に帰ってこいと、知府夫妻の声。
黄雲が立つ廊下。結界があった場所から先は、すでに床が崩れている。
結界は解かれ、目の前でゆっくりと、大猪が身を起こす。
眼前に巨大な三つ目。
「いいですか、しっかり掴まっててくださいよ」
「は、はい! いつまでも!」
「……化け物退治が終わるまででいいです」
木剣を構えて床を踏みつけ、黄雲は月夜に飛び上がった。