4 珍道中
雑踏。街は賑わい、人で溢れ、ごった返している。
路地を出てすぐのところで、火眼はぼんやりと目の前の光景を眺めていた。口はぽかんと開いている。
何しろこんなに多くの人を見たのは初めてだ。水路にかかる石橋の前で、白髪の少年は立ちすくんでいた。
「おい、なに立ち止まってんだよ!」
「早く行こうぜ!」
子ども達の急かす声。完全にお上りさんと化した火眼とは対照的に、子ども達は雑踏に慣れっこである。三人は彼を人混みへ誘おうとするが。
「まってくれ」
火眼は戸惑っているのか、その場を動こうとしない。
駄賃を貰ったばかりの子ども達は、少々苛立った表情でそんな彼を振り仰いだ。
早く市場へ行ってお気に入りの小吃を買い食いしたい三人組。一体何を待てというのかと、最年少の遊までもが兄貴分ゆずりのクソ生意気な不満顔を火眼に向けた。
しかし見上げた火眼の顔は、おそろしく眠たげで。
「くっそねむい」
「…………」
まぶたは重く、炎の瞳はいまにも閉ざされそうである。逍・遥・遊の三人は、眼差し冷たくその様を眺めている。
「すまん、おれはここまでのようだ」
火眼はがっくりと膝をつき、うつ伏せに倒れこみ、出発からまもなく力尽きた。はじめてのおつかい、ここに終焉。
初めて歩いた道廟の外の世界。狭い路地、その先にあった人通りの多い水路沿いの街筋。襲い来る眠気。
火眼はまぶたの裏に今までの旅路を思い描きつつ、地面を枕にすやりと眠りの世界へ溶け込んでいく。目的は達成できないし短すぎる旅程だったが、眠いんだから仕方がない。
「すぴー……」
やすらかに入眠。おやすみ火眼金睛。
……というわけにもいかない。もちろんこの突然の安眠を、子ども達が許すはずもなかった。
「おいっ! てめえふざけんな!」
「寝るなーっ! 寝たら死ぬぞーっ!」
「あたしたちの鞠はどうすんのよー!」
こんなところで寝られたら大迷惑。逍と遥の二人から火眼の尻へ、容赦のない蹴りが繰り出される。
「起きろー! 起きろバカー!」
「目を覚ませアホー!」
「どいて二人とも! 遊が渾身のカンチョーをお見舞いしてあげる!」
「うぐっ」
石橋のそばで眠る火眼へ、殴る蹴るカンチョーの雨あられ。
どったんばったんと目覚めのためのあらゆる暴挙が火眼へ加えられるのだが、残念ながら。
「くかー……」
「起きねえ!!」
一度眠ればなかなか起きないこの男。はじめてのおつかい、はやくもここに頓挫である。
「……あーあ、さっそく眠ってら」
そんな一部始終を、物陰から見つめる人影。言わずもがな、黄雲だ。清流道人の犬となり、銭というエサのため、こうして火眼一行を陰ながら見守る役目を仰せつかっている。そんな守銭奴の背後には。
「まあ大変、これじゃあお買い物ができないわっ!」
ハラハラと成り行きを見つめる箱入り娘。そんな雪蓮を、黄雲はいかにもうっとうしげに振り返った。
「……なんであなたまでついてくるんです?」
冷たい目線でじとりと睨みつける。
どうして雪蓮が同行しているのか、というのも。出立前に突然彼女が「私もついていく!」と言って聞かなかったからだ。黄雲としては火眼の様子もうかがわなくてはならない上、このお気楽娘の世話を焼くのは至極面倒くさい。なので当初猛反対だったのだが。
『いいじゃないか黄雲。一緒に連れて行ってやりなさい』
『でも師匠』
『ほーら銭だぞー』
『ワンワン!』
そんなわけで彼らは連れ立っているわけである。
銭を得た以上、黄雲には雪蓮の面倒を見るという義務が発生している。それはもちろん遵守する。とはいえしかし、この世間知らずが急に同行したいなどと我儘を言い出したことは、なんとなく腹立たしかった。
さて。なぜついてくるのかと問われて、当の雪蓮は。
「だって……」
困ったように眉をひそめて、少々うつむき気味になりながら、ぽつり。
「黄雲くんと、もっとずっと一緒にいたいんだもん」
小さくつぶやいた言葉の裏には、昨日の危機が関わっていた。
昨日、黄雲不在の最中。庭で鞠つき遊びをしていた彼女へ、突然近寄ってきた火眼金睛。害は無いと頭では分かっているし、実際彼は単に鞠つきに混ざっただけだったのだが。
そのとき雪蓮の胸には危機感が満ちていた。頼りの黄雲がいないことへの不安も、大きかった。
そんなわけで不測の事態に備え、二人一緒にいるべきだという思いをこめて発したのが、先の台詞だった。自身の身の安全を考慮しての発言だったのだが。
「…………」
黄雲はじとりとした視線のまま沈黙している。いや、固まっている。真冬に氷室へ幽閉されたかのように凍りついている。
そこで雪蓮ははたと気付いた。自分が発した言葉の意味に。
──黄雲くんと、もっとずっと一緒にいたいんだもん。
(ああっ! だめよ雪蓮これじゃまるで!)
そう、まるで恋する乙女。
「ちっ、ちちち、違うの! そういう意味じゃないの!」
哀れ雪蓮、どもりどもって九字のまじないも間に合わず。瞬時に顔面は朱に染まった。
「あ、あのね! いまのはね! えーとそのー!」
ぶきっちょに手元は臨兵闘者の印を結ぼうとするが、いきすぎた羞恥により残念ながらまったく様になっていない。
そんな彼女へ視線だけ向けて、黄雲は先ほどから黙り込んでいた。顔面こそまったく普段通り、心拍も血圧も正常値であったが。
(いきなりなんつーこと言うんだこのお嬢さんは!)
当然思春期には強烈な発言だった。術で動揺による顔色の変化や胸のときめきを抑え込んだとはいえ、心の動きまではどうにかなるものではない。
ずっと一緒にいたい。その一言に、黄雲は内心、面倒臭いやら照れくさいやら、正直少し嬉しいやら。
でも。
「分かってますよ、お嬢さん」
養生の術を全身に巡らして、黄雲はすまし顔を取り繕い、なるべく小馬鹿にしたような声音で語り掛ける。
「どうせ僕をダシにして街歩きがしたいんでしょう。別にいいですよ、ついてくるくらい」
「あ、えっと……」
「もちろん、なんにも奢りませんけどね」
黄雲は少女に背を向けて、肩をすくめて見せた。
一方の雪蓮は。
「…………」
件の爆弾発言に対する黄雲の反応がやけに落ち着いているので、それはそれでなんとなく腑に落ちない。ともすれば愛の告白とも受け取られかねない台詞だったのだが。
(少しくらい、勘違いしてくれたって……)
鉄面皮の守銭奴の後ろで、少女はぷくっと頬を膨らませた。頬を赤らめているのが自分だけで、馬鹿みたいだ。もしやこの憎らしいクソ道士は、彼女に対する興味など持っていないのではなかろうか。
そんなことはない。黄雲が彼女から顔をそらしたのは養生の術が持たなくなってしまったからで、雪蓮が少し視線を挙げれば、茶色い髪の隙間から真っ赤に染まった耳朶が見えただろうに。
二人が青春を桃色に染め上げていたときだった。
「あ」
ふと、当初の目的を思い出した黄雲は、前を見遣って声を上げた。彼の目前で繰り広げられたのは。
水路近くで眠り込んだ火眼金睛が。
「ていっ」
子ども三人がかりで、水路にバシャンと蹴落とされる光景であった。
「へっくしっ」
火眼は目を覚ました。さすがに相反する性質を持つ水は苦手なのか、水路に落とされるなり彼は飛び起きた。
現在一行は通りを市場へ向けて歩いている。火眼は軽く火氣を発して身体を乾燥させているが、そこそこ寒かったらしい。時折くしゃみを発しながら歩を進めていた。
「なんかわりーな。風邪ひくなよ寝坊助」
「でもお水で起きるってわかってよかったね!」
「次からこいつ起こすとき、水ぶっかけようぜ!」
子ども三人組はけろりとした表情で火眼の前方を歩いていた。哀れ火眼、道中寝入ってしまったならば、再び水路へ投げ込まれてしまうことだろう。幸か不幸か、亮州の街には水路が多い。
そんな彼らを後ろから、コソコソ付け回す人影が二人分。黄雲と雪蓮の二人も、順調に気配を消しつつ皆の様子を伺っていた。特に会話もなく、黄雲を前、雪蓮を後ろに隊伍を組み、ひたすら黙々と偵察活動に励んでいる。先ほどのこともあり、なんとなく気まずい。
さて、そんな追跡者がいるなどとはつゆ知らず。子ども達と火眼は、ゆっくりのんびり街を行く。
火眼の衣服もすっかり乾き、子ども達が石畳の上での石蹴り遊びに飽きたころ。
「なー、寝坊助。そういえばさー!」
遥がなんの気なしに火眼へ話しかけた。
「なんで昨日、急に鞠を蹴りはじめたんだ? いっつもずーっと寝てるくせにさ!」
「そういえばそうね。ねえねえ、どうして?」
「どうして……」
子ども達の質問に、火眼は整った眉を困惑の形に歪めた。珍しく表情を出して考え込み、答えたことは。
「……どうしてだろうな」
まったく答えになっていなかった。なぜ急に蹴鞠を始めたのか、彼にもよく分からないらしい。
そんな返答に三人組は「ふーん」と、尋ねたわりに興味のなさそうな相槌。ふと、遊が口を開く。
「遊わかっちゃった! それってただ、仲間に入れてほしかっただけでしょ?」
「なかまに?」
問い返す火眼へ、遊、おしゃまな仕草にニッコリ笑顔を添えて答える。
「そーよ! あたしだって、自分以外のみんなが遊んでたら、仲間に入れてほしいもん! それとおんなじ!」
「おんなじ……」
「そう、みんなおんなじよ!」
おんなじ。
遊が自信満々に発したその一言を、火眼はなにやら真剣な顔色で考え込んでいるようだ。その様子を、物陰から追跡者組もじっと見つめている。
さてさて、先を行く者、後を追う者。双方の距離はつかず離れず、いつの間にやら市場へとたどり着いた。
「さあ、ついたわよ寝坊助!」
「一番いい鞠買ってくれよ!」
「いいか、言い値で買うんじゃないぞ、ちゃんと値切れよ! 哥哥がドン引きするぐらい値切るんだぞ!」
「それは難題」
子どもらから活を入れられつつ、火眼は屋台の立ち並ぶ、賑やかな市場へ一歩を踏み出した。
いざ、はじめてのおつかい。しかし。
「あ、さいふわすれた」
まさかの発覚、無一文。子ども達や後ろの二人をずっこけさせるに足るうっかりぶりだが。
果たしてこのおつかい、どうなることやら。




