9 神眼
狂騒の後には片付けが待っている。
清流堂の中庭に散乱する瓦礫の数々を、黄雲は憮然と、二郎真君は涼やかな面持ちで始末していた。
「ったく、爆発させたのは火眼なんだから、あいつにやらせりゃいいのに!」
丼の破片を拾いながら、黄雲はじとりと本堂の石段を睨みつけている。もちろん石段には、やたらスッキリした寝顔の火眼が眠っていて。
「そう言うな、黄雲少年。彼にまずい拉麺を食べさせてしまった我らの責任だ」
甲冑姿で箒を持ち、さっさと掃除を進めながら二郎真君は静かに言う。そんな彼の言い分に、黄雲の眉毛は不満げに歪んだ。
「いや僕も被害者なんですけど……」
「どこが被害者だ、このバカ弟子め」
突如黄雲と二郎神の会話に割って入るは、のんだくれの声。
庭へやってきた清流はどこか疲れた表情で、二人へ外出を告げた。
「私は少し出かけてくる。留守を頼むよ黄雲。二郎殿も、よろしくお願い致す」
「ああ、心得た」
「? 師匠、今日用事なんてありましたっけ?」
きょとんとする弟子。そんな彼に師匠、肩をすくめて見せながら。
「騒音、爆発、異臭騒ぎ。清流堂の責任者として、今からご近所へお詫び行脚だよ」
「へー、そりゃご苦労なこった」
弟子、完全に他人事。それはともかくとして。
「もしかすると帰りは遅くなるかもしれない。日暮れまでに帰らなければ、黄雲、いつものを頼むよ」
清流は弟子へそう言い聞かせ、飄々とした足取りで堂を出て行く。
黄雲と二郎神、彼女の姿が街並みに消えるのを見届けると。
「少年よ。いつものというのは、きみが私に頼んだ『あのこと』だな?」
「ええ。先日お伝えした通りのことです」
二人は顔を見合わせた。
『あのこと』とは、拉麺店経営を手伝う見返りに、黄雲が二郎真君へ依頼したとあること。
黄雲の顔に浮かんでいるのは、若干照れくさげな表情で。
「二郎殿、よろしくお願いしますよ」
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さて、夜が来た。
結局清流道人は晩になっても帰らずに、お詫び行脚に奔走している様子。
一同は夕食を終え、宵のひと時を各々自由に過ごしている。
そんな中、雪蓮の姿は清流の部屋の前にあった。
「あのう……失礼します」
雪蓮はこの部屋に入るのが、億劫でたまらなかった。この扉の奥で待つのは、いつもの行事。
毎晩行われる、氣脈の診察だ。金の氣を知覚できない清流に代わり、ここ数日、彼女の手を取って氣を診ている人物はあの少年。
清流は留守のままで、きっと待ち人は彼ひとりのはずだ。
「どうぞ」
答える声は聞き慣れた彼の声。そう、今日雪蓮の自尊心を傷つけたあの声だ。
声の主はもちろん黄雲で。応答する声音は短すぎて、どんな感情がこもっているやらさっぱり分からない。
雪蓮、ため息まじりに小声でゆっくり九字を切り、意を決して、というよりもしぶしぶ戸を開いた。
「おじゃまします……」
うつむき気味に、元気なく。雪蓮は酒壺だらけの部屋へ足を踏み入れる。
今日は言葉の暴力を受けたとはいえ、嬉々としてやり返してしまった。だから黄雲と顔を合わせるのは、なんだか気まずい。
きっと彼からは、恨みの視線が飛んでくるかと思ったのだけれども。
「さあ、こちらへ」
意外にも黄雲の顔に、恨みの気配は微塵もない。まっすぐに、しかも微笑なんぞまじえながら雪蓮を見つめている。
「……?」
予想だにしない佇まい。きょとんとしている少女の前で、黄雲は座したまま、正面の席を彼女へ勧めた。
彼の言葉に従って、雪蓮、おどおどきょときょとと挙動不審に対面へ座る。
すると、黄雲は彼女の狼狽に気付き。
「どうしました?」
「あ、あの……」
何やらやたら堂々としている黄雲に、雪蓮は戸惑いもひとしお。
あまりにおかしい。普段の彼ならば、雪蓮の顔を一瞥するなり文句の百個や二百個、軽く並べ立てるはずなのに。
しかしそれを指摘する勇気は彼女になく。ただただ違和感に呆然とするのみだ。
「大丈夫です? よろしければ始めますが」
「あ、えーと、はい……」
調子を狂わされながら、雪蓮はこくりと頷いて見せる。
しかし、この直後に放たれる言葉には、最大級の違和感が詰まっていた。
「さあ、お手を。雪蓮殿」
雪蓮殿。その呼びかけに、少女は。
「あの、どちらさまですか……?」
彼が黄雲本人ではないことを看破してしまった。
そう、この少年。黄雲などではない。
彼は黄雲が絶対にしないような、爽やかな笑みをふわりと漏らし。
「よく見破られた、ご令嬢」
朗々とした声音を発したかと思うと、ボワンと煙に包まれる。白煙が晴れて姿を現したのは。
「いかにも、これは我が変化の術」
三つの目に白銀の甲冑。変化の術を得意とする、二郎真君だ。
「まあ、二郎さま。こんばんは」
「うむ、こんばんは雪蓮殿」
驚きもそこそこに、育ちの良い二人はまず挨拶。
続いて雪蓮は目をぱちくりさせながら。
「驚いたわ。二郎さま、本当にそっくりにお化けになるのね!」
「ああ、姿かたちはな」
彼女の賛辞に、二郎真君は微笑とともに一言。
「きみこそ、よく気付いたものだ。瓜二つの姿の他人だと」
「だ、だって……!」
神将の言葉に少し照れた色を浮かべながら、雪蓮は続ける。
「黄雲くん、絶対私のこと名前で呼ばないんだもん……」
「ほう、言われてみれば確かに」
かの守銭奴、彼女の言う通り絶対に名前を呼ばない。呼びかけるときは必ず『お嬢さん』か『あなた』だ。
そのことを説明する雪蓮の口ぶりは、どことなく寂しげで。
「私が知府の娘だからっていうのは分かるけど、いちおうお友達なんだし……その……」
「なるほど」
言い淀む彼女の口調に、神将、得心した様子で。
「きみは彼に名前を呼んでほしいのだな」
「えっ、あ、あの……」
二郎神の指摘に、雪蓮は九字の効果も忘れて、赤面であたふたし始める。
彼の言は的を射ていた。少女は実のところ、『お嬢さん』という呼び名が不満で不満でたまらなかった。
しかしそれを認めてしまうのは、なんとも恥ずかしい。内心にふつふつと湧いている不満は、裏を返せば彼への好意ということで。
そんな雪蓮の春色の懊悩。口ごもり、うつむき、恥じらいを浮かべる少女へ、神将はふっと笑みを漏らし。
「…………」
ちらりと窓の外へ視線をやったかと思うと、話題を変える。
「雪蓮殿。今日は諸事情により、私が氣脈の診察を行う。さあ、お手を」
「二郎さまが?」
雪蓮、手を差し出すよりも先に疑問を呈する。黄雲はどうしたのかという問いは、聞かずとも分かる。
「うむ、黄雲少年はだな……」
二郎神。窓の外からの若い氣を感じつつ、適当な言い訳を述べる。
「腹痛だそうだ。まずいものを食うたゆえ」
さて、部屋にしばし宵の時間が流れ。氣脈の診察は滞りなく終わろうとしている。
診察とはいえ、気楽なものだ。他愛ない会話を交わしつつ、二人の間には安らかな雰囲気。
「それにしても、二郎さま。どうしてあんなに拉麺へご執心に?」
もちろん話題は一昨日からの拉麺騒動だ。少女の問いへ、神将は表情にわずかな戸惑いの色を浮かべて答える。
「それがな、分からんのだ」
「分からん?」
「うむ、謎の使命感がこの心胆へ湧き上がってな。私が『二郎真君』であるがゆえの使命感というか……」
「へぇ……」
まったくもって答えになっていない。つまり彼自身にもさっぱり出所の分からない情熱だということで。
それはともかく、今日の騒動はこの一見完全無欠の神将の、意外な一面を浮き彫りにした。
雪蓮、少々苦笑いで指摘して言うに。
「二郎さまって完璧なように見えて、意外とお茶目な方なんですね。私、神仙のみなさまって、もっといかめしくて、怖いお方ばかりなのかと」
「それは私が、威厳の無い不完全な神将ということかな?」
「あっ、あのっ。そういう意味じゃ……」
二郎神の返す言葉に、雪蓮はにわかに慌て始める。もちろん馬鹿にするような意図はなく、親しみやすいという意味をこめて発した言葉だったのだが。
しかし二郎真君も彼女の真意は分かっている。「いいんだ」と柔らかい声で答え、雪蓮の手を右手から左手へ持ち替えつつ、続ける。
「不完全とは、私にとっては賛辞だよ」
「賛辞?」
「…………」
数千年の時を生きる神将は、そこでじっと雪蓮へ眼差しを注ぐ。その顔に浮かんでいるのは、爽やかながらも、どこか子どもっぽい笑み。
「完全無欠では、この天地は楽しめぬ」
そんなやりとりをかわし、しばし無言の時が訪れた。
二郎真君は雪蓮の左手を取り、三つの目でじっとその手の甲を見つめている。それはもう穴が開くほどに、肌の上のただ一点を。
「雪蓮殿」
「はい?」
不意に真君は少女へ問いかける。
「最近、左手をお怪我されてはいないか?」
「うーん……」
突拍子もない質問だった。雪蓮の白い左手は若々しいはりに満ちていて、傷跡なんて一切ない。
少女は神将の問いにむむむと一生懸命に考え込み。
「ここ最近は、全然怪我してません!」
元気に答えて見せる。そんな彼女に美丈夫は「そうか」と微笑みを返し。
「ありがとう、雪蓮殿」
そっと彼女の手を放し、柔らかい表情と声で告げる。
「今日はこれで結構だ。さあもう遅い。ゆっくりお休み」
「え、ええ……?」
雪蓮、少々拍子抜けしながら腰を上げる。結局あの質問と、左手への異様な視線は何だったのか。
ともかくとしてこれで診察は終了。二人は就寝前の挨拶を交わし、各々自室へ戻るのであった。
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「二郎殿!」
母屋から出てすぐに。
本堂へ戻ろうとする二郎真君を、背後から呼び止める声。
振り向くまでもない。声の主は。
「ちょっと! なに正体見破られてるんですか! クソみたいな演技力だなオイ!」
「黄雲少年」
もちろんこのこまっしゃくれた台詞を発するは、我らが憎き守銭奴・黄雲だ。
この黄雲、その内心は思春期一色。毎晩気になるあの子の手に触れる行事が恥ずかしくて、今回二郎真君へ身代わりを依頼したのだが。
すっかり正体を見破られた神将に、黄雲はすっかり不機嫌だ。
そんな生意気道士に神将は。
「少年こそ、こっそり窓の外から覗いているとはあっぱれな思春期ぶり」
「やめろ! 言うな、言うんじゃない!」
怒り心頭。しかし静かな夜分に響かぬよう、声はひそめて神将にくぎを刺す。
「いいですか! 僕が窓の外にいたことは、絶対に口外しないでくださいね!」
「うむ。約束しよう」
「ったく!」
二郎真君は快諾しつつ、眼下の少年を見下ろした。不機嫌そうな、苦虫を嚙みつぶしたような表情。
そんな彼へ、美丈夫は呼びかける。
「黄雲少年よ」
「なんです?」
「良いのか。彼女、名前で呼んでほしいみたいだぞ」
「…………」
黄雲はしばらく無言で考えていたかと思うと。
「呼ぶわけないでしょう」
冷たく、突き放すような口調で答える。
そんな彼へ、神将はあっさりと「そうか」と続けた。
「……那吒から聞いたが」
二郎真君はさらに言葉を紡ぐ。言葉を編みながら、少年を観察するように。
「きみは今日、彼女が傷つくようなことを言ったようだな」
「なんです、責めてるんです?」
「いや、そうじゃないさ」
憮然とした面持ちで振り返る黄雲へ首を横に振り、美丈夫は少々意地の悪い笑みを向ける。
「そうじゃないが、あんな振る舞いを続けていては嫌われてしまうぞ」
神将の言葉に、黄雲は。
「いいんです」
答える声に、感情はない。
「僕なんか嫌ってくれた方が、あの方のためになりますから」
母屋の前で黄雲と別れて。
しばし物思いに耽っていた二郎真君のもとへ。
「ワン!」
「おお、帰ってきたか哮天犬」
どこからか黒い大犬が駆け寄ってきて、足元へ擦り寄った。
そんな愛犬の頭をなでてやりつつ、真君は使いの首尾を問う。
「どうだった、哮天」
「クゥーン……」
「そうか、やはり目通りはかなわぬか……」
残念そうにつぶやく二郎真君。そこへ。
「兄い」
夜天から降る、凛とした声。見上げれば神将の衣装を身に纏った那吒が、二輪で宙に浮き、月を背にこちらを見下ろしている。
その表情は、真剣一色で。
「ちょっといいか」
本堂の屋根の上。神将二人は他の者へ絶対に聞こえぬよう、魂魄から氣を発して、互いにだけ聞こえるように会話している。
『で、どうだった。兄い』
那吒が問うのは、雪蓮の氣についてだ。
この少年神だけが察していた。二郎真君の一見涼やかな表情に、ただならぬ苦悩が浮かんでいることを。
『……那吒よ。霊薬がどういうものか知っているか』
二郎真君はそこから話を始める。那吒が答える。
『天界の至宝、太源の血肉。書物に封じられた、不老不死の霊薬だ』
『そう、書物……いや、そこに記された文字こそが霊薬そのもの』
あの日。雪蓮を襲った異変は、書物より飛び出した文字の姿を取っていた。原始の龍よりもたらされたかの血肉は、文字という形態だったということ。
『そういや、なんで文字なんだ? 龍の血肉だろ?』
那吒はそのことに疑問を呈す。
実は彼もよく知らないのだ。霊薬の来歴を、実態を。
どうして宇宙の深淵に潜む龍の血肉が彼らの天界に安置されていたのか、どうしてそれが書物に文字として封じられたのか。それは玉皇大帝をはじめとする高位の天仙のみが知ることで、二郎真君や那吒など、多くの天仙には情報が開示されていない。
しかし、文字とは。
『文字とはすなわち情報。文字という形をとって彼女の中に侵入し、変えようとしている』
『変えようとしているって……何を?』
那吒の問いに、真君、しばし沈黙。
さきほど、彼女の手を取って見えたもの。金氣を発する心魂、その左手の甲。
三つの神眼が捉えた先。皮膚の中の細胞のさらに奥、その螺旋の形。
霊薬が変えようとしているもの、それは。
『遺伝子……』




