6 見よ! 西方は紅く燃えている!
『崔氏家譜』第一巻、氏族の始祖から数えて三代目のとき。
この頃、聖王の治世下で泰平に暮らしていた崔家の祖先は、伝え残すことが婚姻くらいだったらしく。
『后氏を娶り』
という一文は本当に些細な些細な、そんな歴史の一部分だった。
「各々方。準備はよろしいか」
崔邸の庭園にて。二郎真君はいまだ修繕中の邸宅を背に、崔の親子へ問いかけた。
「もちろんっ! いつでもどうぞ!」
「わっ、私はまだ準備が……おい雪蓮! 早く矢をつがえてくれ!」
「わわわ、待ってねお兄さま! いますぐに……!」
「だから子堅、お前は……」
わいわいと賑やかな親子。みな弓や弩を手に、どこか楽しそうだ。しかし。
まったく心から楽しめぬ、哀れな立場の者がここに一人。
「なっ、なぜ僕が的なんですっ!」
黄雲は庭木の前に立たされている。本来ならばこの庭木の枝に的を掛けて、弓術の腕前を確かめるはずだった。ところがそれでは緊張感が足りぬと秀蓮が言い出して。
「ほれ、動くなよ黄雲」
「的扱いはやめろクソ濁流!」
ちょうどいい感じにちんちくりんな黄雲が標的に選ばれて。
そんなこんなで黄雲は庭木の前。隣に立つ清流道人によって、その頭へ杏の実がちょこんと載せられる。
「各々方。此度の弓の的、黄雲少年の頭上に載せられた、あの杏の実とする」
準備万端の一同へ、二郎真君はつらつらと語って聞かせている。
的役の黄雲に。その的の頭上へ杏を乗せる係の清流。
那吒と巽はどういうわけか、姿が見えない。彼らがどこへ行ったか尋ねてきた雪蓮に「連れションでしょ」と黄雲が返し、一悶着あったのだがそれはさておき。
黄雲の頭に載せられた杏の実は、片手で包み込めるほどの大きさ。的にするにはあまりに小さい。
げんなり意気消沈の彼へ。
「すまんな弟子殿! ま、我らを信じて微動だにせんでくれ!」
「大丈夫大丈夫! 失敗しても死ぬだけよっ!」
「安心しろ! 一瞬で喉笛貫いてやる!」
「黄雲くん! 加油(がんばれ)っ!」
崔家の一同から励ましの言葉。一人殺害予告がいた気もするが。
「く、くそぉ……こうなったら……!」
全く安心できない崔一家ののんびりぶりに、黄雲はこっそりと逃亡の算段。幸い地面はむきだしの土である。
「殺される前に道術で逃げるしか……!」
「弟子殿、的役の務めを果たしたならば特別給金」
「この黄雲、的となるべくして生まれた男なれば、逃げも隠れも致しません! さあさあ遠慮は無用ですぞはっはっは!」
ちょろいものである。知府の言葉にころりと恐怖を忘れ、杏が落ちないよう気を遣いつつふんぞり返る黄雲だった。
さて。的の準備も整ったところで。
「ならば、私から」
一の矢。崔知府から挑戦だ。黄雲までの距離は、およそ二十丈といったところ。
知府、模範的な姿勢で弓矢をキリリと引きしぼり。
「むっ!」
「ひぃっ!」
狙いは過たず。黄雲の頭上、矢は杏のど真ん中へ命中。
すかさず清流が庭木から矢を引き抜き、弟子の頭へ二つ目の杏。
そして二の矢、崔子堅。子堅は若干腰の引けた体勢で弩を構えると。
「ていっ!」
「ひえぇっ!」
へっぴり腰はともかく、父同様狙いに狂いはない。矢じりは見事杏の中心を貫いた。
「うぅ…………」
黄雲、いくら金でつられたとはいえ、さすがにそろそろおっかない。
そして三の矢、崔秀蓮。と、庭の北側から馬蹄の音。秀蓮は紅箭にまたがり、庭木前方を駆け抜けながら流鏑馬にて。
「はいっっ!!」
「うそでしょう秀蓮殿!!」
馬上にて引きしぼられた矢は、難なく守銭奴頭上の杏を射殺した。矢にかすめられ、黄雲の茶髪がはらりと数本、地へ落ちる。
あまりの剛弓に、庭木に叩きつけられた杏は破裂したかのような有様だ。剛力無双、楼安関の女夜叉のなせるわざ。
しかしいい加減こう何度も弓矢に狙われて、それでも堂々と振る舞えるほど黄雲の胆は丈夫ではない。
恐怖に慄く黄雲の目前に、最後に現れたるは。
「雪蓮、がんばります!」
いつものぽややんとした表情の雪蓮に、黄雲、死の予感も最高潮。
(なんで僕がこんな目に……とにかく逃げたい!)
今すぐに。特にこの一見能天気なお嬢さんにはつい先日、狼牙棍を投擲されて殺されかけたばかりだ。だが。
この窮地を乗り越えれば特別給金。すなわち金、すなわち銭!
(逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ……!)
心中にて、ひとしきり自分に言い聞かせるよう繰り返す。ちなみに葛藤の最中も、黄雲は律儀にも杏を頭に乗せたまま微動だにしない。
「やります! 僕はやります!」
意を決して直立不動の十四歳。ところが。
ドスッ。
「………………」
黄雲の葛藤など露知らず。雪蓮はさっさと杏を射るのであった。もちろん狙いは正確で、杏は庭木にしっかり射止められている。
黄雲、しばし呆然。
(……ま、まあいい、とにかくこれで終わったんだ!)
あんなに覚悟したのがバカらしいと思いつつ、これでしまいとばかりにその場から動こうとすると。
「あっ、黄雲くん動かないで!」
「えっ?」
雪蓮の制止に、彼がピタリと動きを止めると同時に。
令嬢はまさかの二撃目を放つ。
放たれた矢は、前方、黄雲の頭上。庭木に刺さった矢の矢筈を狙い。
一撃目の矢の矢柄(竹でできた部分)を縦真っ二つに引き裂いて、杏と木の幹へ深々と突き刺さる。しかしそれでは雪蓮飽き足らず。
「もう一射!」
「はぁっ!?」
驚く守銭奴に構わず、雪蓮は弓を満月の如く引きしぼり。
ひいふっとぞ射切ったれば。
三射目も同様、二つ目の矢を縦に割いて庭木の幹へ深々と。
「…………よしっ!」
満足したのか、少女は弓を下ろし、一礼。
その姿を見るなり、黄雲はやっと的役の務めが終わったことを悟る。そしてへなへなと地面へ膝をついてへたり込み。
「死ぬかと思った! 死ぬかと思った!」
四つ這いになって、冷や汗と動悸を思う存分堪能するのであった。
死地より生還した黄雲へ、雪蓮はぽやぽやとした足取りで近づいて。
「お疲れ様、黄雲くん!」
屈託のない笑顔でにっこりと笑いかける。しかし今の黄雲にとって、それは神経を逆なでするものでしかない。
ぐったりだった黄雲は、途端に怒りの形相で。
「なーにがお疲れ様だっ、バーカ!!」
「ばっ、バカ!?」
知府の御前にも関わらず、令嬢をバカ呼ばわり。
さて、ともかくとしてこれで全員の弓の腕前を見終えたわけだ。
二郎真君、涼しい面立ちにほんのりと、称賛の笑みを浮かべて手を叩く。
「うむ、ご一同お見事! なんとも素晴らしい腕前だ」
「は、はは……照れますな。まさか神仙に弓を褒められるとは……」
「まだまだ! 我らの技はこんなものじゃないわっ!」
「ほう?」
突然割り込んだ秀蓮に、二郎真君は言葉の続きを促す。が、秀蓮はそれに応えず。「雪蓮!」と妹を呼び、清流から杏を一つ分けてもらうと。
「いい、雪蓮。十字射よ!」
「十字射……はい、お姉さま!」
姉妹は再び弓矢を手に取り、互いに距離を取り。
準備が整ったと見えたとき。秀蓮は杏を思いっきり、空へ向けて放り投げた。
剛力にて投げられた杏は、空を高く高く。そして杏が暮れかけた空の中、小さな小さな一点となったとき。
「一!」
「二!」
姉妹は続けて二射、矢を放った。狙いはもちろん空中の杏。二本の矢は空中で十字に交わり。
「おっと」
二郎真君の手の中へ落下した。改めて見てみれば、杏を中心に、矢は十字に交差した形。
空中でまず一の矢にて杏を射抜き、続いて二の矢も同様に杏へ命中させたこと、言うまでもない。
これが十字射なる技。とんでもない技巧だ。
「これは絶技! お見それした!」
「やった! 美丈夫をうならせたわよ、雪蓮!」
「はいっ、お姉さま!」
さすがの二郎真君も十字の矢にしげしげ見入りながら、心底の感嘆。神将の反応に、姉妹は笑顔をほころばせた。
ともかくこれにて良くわかった。この一族、弓の腕前は全員そろって超一流。約一名、自分で矢をつがえられない者もいるが。
そんな彼らへ、二郎真君は問いを投げかける。
「まずご姉妹。弓はいずこで習われた。師は?」
「はいっ! 剣や槍は以前、流れの師範より教えを受けたものですけれど、弓に関しては我が父より伝授されたものですわっ!」
「ふむ……ならば伯世殿は?」
「私は幼き頃より、先祖が武門と聞かされておりましたから……お恥ずかしながら独学で」
「ほう……!」
「神将殿! 私はだな! 以前姉上に無理やり弩を持たされたのだが、なかなかどうしてこれが……」
「ご一同、大変素晴らしい技の数々。拝見させて頂きまこと恐悦至極、ご協力感謝致す」
「わっ、私の話を聞いてくださらんか!」
無視されている子堅はともかくとして。
親娘が言うには、弓矢を手に取ると自然、弦を引くための最適の力加減。目標の定め方が手に取るように分かるという。
「不思議なものですが、弓矢を持つと、己が手足のように感じるのです」
「それほど自在に扱える、ということか……」
ちなみに子堅。どんな関節の構造なのか、弓弦を引くだけで脱臼するらしい。ゆえに彼は弩に落ち着いた。
さてさて二郎真君。一同の弓術を確かめて、いくつか質問をしたかと思えば「ふむ」と考え込む仕草。
「……二郎殿。一体なんなんです」
そんな彼の周りに、清流堂の師弟が寄ってきた。
黄雲に生命の危機を強いてまで確かめたかったこと。
あの書物にあった『后氏』という記述。そこから神将が連想した、一族の弓の腕前。
「もしや、霊薬をめぐる厄介ごとに関して、何かお分かりになったとか?」
「…………」
「おーい、二郎殿」
神将ならではの観点、知識から、何か思い当たったのではないか。期待の眼差しで黄雲と清流が見つめるが、二郎神は押し黙ったまま。
ふとこの美丈夫、右手をおもむろに地面へ向けて。
「哮天犬」
愛犬の名を呼ばう。すると彼の右の戦袍の袖から、小さな黒い何かが飛び出した。
見る間に大きくなりつつ地面へ降り立ったそれは、黒い毛並みのあの犬だ。二郎真君は犬の前にかがみ込み、愛犬の双眸を覗き込み。
「哮天。かくかくしかじか、よろしく頼む」
「ワン!」
「よーしよしよし」
そう言葉をかけてわしゃわしゃと頰の毛を両手で揉みしだき、真君は立ち上がる。すると黒犬、くるりと後ろを向き。
「ワンワン!」
駆け出したかと思うと、驚いたことにその足取りは空中へ。まるで透明な階をのぼるように、哮天犬は高く高く空へ駆けていき。
やがてその姿は、天空の彼方へ走り去ってしまった。
「なんですか、今のは」
「お使いですか? 天界へ」
「ええ。賢き我が自慢の愛犬。お使いはもちろんのこと、お手におかわり、待て伏せ取ってこいなんでもござれ」
問う清流の師弟に、頷く二郎真君。しかし黄雲達が聞きたいのは愛犬自慢ではない。
「そのご自慢の愛犬に、一体なにを頼んだんです? 僕たちにも教えてくださいよ」
「知りたいか、少年に清流道人よ……」
二郎真君は三つの眼を少々険しく細めて、続く口調も物々しく。
「すまないが我らの任務は霊薬の監視。貴殿らへの情報開示は、主上より許可されていない」
「あいやぁ、やはりか」
神将の返答に、清流がしたり顔のまま瓢箪の酒を煽り。
黄雲は生意気眉毛をひくひくさせている。
「まったく! あんたらいっつもそれですね! 前になるべく僕らの手助けをしてくれるって言ってませんでしたっけ!?」
「言ったな、確かに」
「一体なにをどう手助けしてくれるんですか!」
「ご一同がお疲れの時に肩たたきなど……」
「孫かっ!」
ボケつつ真君の表情は、相変わらずの起伏のなさ。
そのボケは真面目になのか、それとものらりくらりと追求をかわすためか。どちらとも取れなくて、黄雲、話していて疲れてくる。
ともかくこの神将からはこれ以上情報を引き出せなさそうだ。諦めて、ふと黄雲は視線を他所へやる。
(ん?)
何気なく見たのは、子堅がいた方向だが。今までどこにいたのか、変態黒ずくめと那吒がやってきて、その子堅の手を引っ張って物陰へ連れて行くところ。ムッツリ長男の顔はだらしなく紅潮している。
「…………」
なんとなく展開が読めた黄雲だが、放っておく。しばらく後にきっと子堅の悲痛な慟哭が響き渡ることだろう。
「……あのう、清流殿」
ふと、背後から清流へ呼びかける声。
師弟が振り返ると、歩み寄ってきたのは崔知府で。先ほどの弓術で見せていた照れ笑いはどこへやら、その顔を覆っているのは不安の表情だ。
「その……思い返してみれば、此度の霊薬にまつわる一件、我が義兄だけでなく、天界、それに宮廷まで関わっている様子。当初思っていたよりも、事が大きくなっている」
「…………」
師弟は目線を交わし合う。知府の言う通り、霊薬をめぐる騒動は、どんどん大きくなるばかりだ。しかも天界は現状、実質非協力的。
そして宮廷。霊薬の出どころである劉仲孝は第二太子派に所属しており、その第二太子の関与を否定しきれない。
天界と皇族。霊薬に関わり続けようとするならば、この二者と敵対する可能性だってある。正直この貧乏道廟の師弟の手に余る、余りすぎる大難問だ。
知府にもそれがよく分かる。このまま清流達へ娘の身を託し続けることは、彼らの命を危ぶむことになる。
「清流殿。無理は言わぬ。せっかくの機会だ、もし貴殿が今後を案ずるようであれば、この仕事からは今をもって手を引いてもらっても構わない」
「伯世殿……」
「今までそちらへ払った金銭も、返さずともよい。一切恨みには思わんよ」
そう言いながら、知府の顔は苦渋に満ちている。現状、彼の寄る辺はこの呑んだくれの女道士だけ。清流らがここで手を引くということは、雪蓮の中の霊薬を放置して、鴻鈞道人らの思惑通りにさせてしまうということだ。
「お父さま……」
「雪蓮……」
重苦しい雰囲気、そして自身の身の上を取り沙汰されているとあって、雪蓮がこちらへ駆け寄ってくる。先ほど姉と武芸の腕前を喜び合っていた顔は、不安一色に染まっていた。
隣へやってきた娘の黒い髪を、知府は優しく撫でる。
わけの分からぬ存在に、今も身魂を侵食され続けている娘。なにかに変えられようとしている、大事な大事な愛娘。
「伯世殿」
清流は口を開いた。口調は軽やかに、柔らかに。
いつもの通りのしたり顔を浮かべて、道人は問いかける。
「我らの意向よりも、あなたの本心をお聞かせ願いたい。なあ、黄雲」
「ええ」
「ま。私どもとしては、ここで手を引くなどご息女を見捨てるようで寝覚めが悪い」
「そうですよ! ここで諦めたら成功報酬が……!」
守銭奴の発言に、師匠こぶしを握りしめ。
脳天に拳骨一発、弟子沈黙。
「いっつー……!」
「お前は空気を読みなさい黄雲」
「せ、清流殿……」
黄雲を殴った清流へ、知府は戸惑いの声を上げる。が、それは弟子への折檻に対してではない。
「その、仰りようは頼もしゅうござるが……これ以上ご迷惑をお掛けするわけには」
「迷惑?」
知府の言葉に、清流と黄雲は意外そうに顔を見合わせた。そしてにやりと、師弟そっくりの笑い方で口角を上げ。
「迷惑などと、いまさらですよ。すでに我々、火眼金睛の一件で死にかけている」
「そうそう、僕も腕が焼けて無くなるところでした」
「というわけで、覚悟の心配をされているのならばご無用と申し上げておきましょう。我ら師弟はご息女のため、命をかける所存」
「そう、銭のため!」
「これ黄雲」
「痛った二発目!」
師弟のやりとりは緊張感のかけらも無かったが。それでも彼ら、霊薬を恐れぬ言いっぷり。
しかし清流は、急に気弱な苦笑いで一言。
「……とはいえ、現状霊薬のことも、それを取り巻く事象に対しても、無力な我々ですが」
確かに、天界が情報をなかなか寄越してくれない以上、清流達には霊薬を祓うための手がかりがほとんどない状態だ。しかし、知府にとっては唯一の信頼できる味方。
「私は……娘が物の怪に襲われたり、我々の想像もつかないようなモノへ成り果てるのが恐ろしい。だが、貴殿らがお力添えをくださると言うのなら!」
崔伯世、娘とともに頭を下げ。
「清流道人に、その弟子・黄雲道士! 今後とも、娘を、何卒……!」
声を絞り出すように頼み込む知府へ、清流は歩み寄り、そっと顔を上げるように促した。
「伯世殿。お言葉、しかと承りました」
「清流殿……!」
「ご息女のため。ともに、歩んでいきましょう」
かくして、清流堂の師弟は霊薬祓いを続行。話がまとまり、知府もほっと安堵の表情だ。
そんなところへ。
「なによなによー! 私の知らないところで何の相談!?」
「げっ、秀蓮!」
割り込んできたのは秀蓮だ。しかしこの姉が混ざると、話がややこしくなる。
「いいかい秀蓮、お前には後で詳しく説明してやるから」
「うーん、私だけ除け者な感じ……」
秀蓮は不満げだが、まあなんとはなしに言いくるめられたところで。
「っぎゃーーーーーーーー!!」
突如響き渡る絶叫。声の主は崔子堅だ。
なんだなんだとざわめく周囲の反応を他所に、黄雲は先ほどの場所を見た。那吒と巽と子堅が入っていった、あの物陰のあたり。
「うわーっ! うわーっ!」
予想通り、涙目で恐慌をきたした子堅がドタバタと走りながら、こちらへ向かってくるところ。そしてやはり第一声は。
「ついてた!」
「…………」
一同からの白けた視線。
「嘘だ嘘だ嘘だーーっ! あんなに可憐なのに、私より立派だなんてーーっ!」
子堅は一体何を見たのやら、絶望に身を委ねている。
そんな彼を嘲笑うように。巽と那吒も、ゆっくりこちらへ歩いてきた。那吒はごそごそと衣を整えながら。
「へへへっ、ざまみろ色白もやし! 俺に茶を振る舞わなかった神罰だっ!」
「ハッ、オレを女だと勘違いしやがるからだ! ざまあ!」
「はーあ、やれやれ……」
こうなることは、分かりきっていたが。
霊薬のことも十分難題だが、この問題児連中とも今後付き合っていかねばならない。
自分も十分問題児だということを棚に上げ、ため息に暮れる黄雲である。
「うわーん、父上ーっ!」
「まったく、我が倅ながら情けない……!」
よほどの衝撃だったのか。子堅は父親に泣きついていて。
しかしこの崔伯世、いい加減普段から軟弱なこの長男にしびれを切らし。
「いいか子堅! 今から言うことをよく聞きなさい!」
「ち、父上?」
「お前を秀蓮の世話係へ任命する!」
「なななっ! なんですと!?」
「ええっ!? 子堅さんが!?」
父親の突拍子もない言いつけに、子堅だけでなく秀蓮も素っ頓狂な声を上げる。
「まず子堅! 科挙のためと思い、お前の思う通りに今までさせてきたが、我が息子ながら何たる惰弱ぶりか! 姉の世話を通し、気力、体力、胆力を鍛えるがいい!」
「そ、そんなぁ……」
「それから秀蓮!」
「えっ、私もお説教?」
「当然だ! お前は昔っからはねっかえりで、人からはじゃじゃ馬ならぬ汗血馬娘などと呼ばれる始末! 子堅は見ての通りの青びょうたんだが、礼節はそれなりに弁えている。弟を見習い、少しはしおらしくしなさい!」
「えええ……?」
父の言いつけに、姉弟は意気消沈。弟は「なぜこんな目に……」と項垂れるばかりだが、姉は。
「……分かったわお父さま」
その瞳に再び燃え上がるは、爆熱の炎。
「子堅さんを一騎当千の猛将に仕上げればいいってことねっ! 燃えてきたわーっ!」
「えっ、ちょっと姉上」
「秀蓮、あの、違う。全然違う」
戸惑う父と弟、だが秀蓮、当然聞く耳なんか持つはずもなく。
「さあっ! 子堅さん善は急げだわっ! さっそく庭を走り込み三百周!」
「は、はぁっ!?」
「おい秀蓮、お前、身重……」
「お腹の赤子も走りたいと申しておりますわーっ!」
かくしてこの汗血馬娘、弟の手を取り駆け出して。
「さあっ! お父さまに雪蓮、そしてちんちくりんにおっぱいに、変態美少女美丈夫も! いざいざ皆で走り出しましょう!」
「えええ!?」
強引にも全員を巻き込んで、この推定妊娠三ヶ月の妊婦、茜色の空の下を走り出す。
「ええ……これ僕ら走らなきゃだめ?」
「お姉さま、みんなで走るの好きだから……!」
「お姉さまーーっ! お姉さまのおしりーーっ! 安産型ーーっ!」
そんなこんなで。楼安関の女夜叉襲来のこの一件。
なぜか全員走り込みにて、幕を閉じるのであった。
「はい、皆様一同ご唱和を! 我ら、崔家の末裔はっ!」
「ぶもんのほまれよー」
「鎧袖!」
「いっしょーく」
「疾風怒濤! 見よ!」
屋敷の西に、でっかい太陽。
「西方は! 紅く! 燃えているーーっ!」
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「……と、以上が楼安関守将・郭広永からの報告です」
「…………」
息子からの報告を、父は無言で聞いている。父の傍には、描きかけの絵画。彼の視線は、息子ではなくその絵をじっと見つめている。
先ほどまで、この画の製作に没頭していたのだが。
「陛下」
息子が呼びかけた。この親子は、子が父を呼ぶとき「父上」という言葉は使わない。
父は皇帝で、子は皇太子。
部屋には顔料の匂いが満ち、品の良い調度が並べられている。
そして壁には書画。棚には各地の名工の手による白磁や青磁。いずれも希少な名品で。
「お聞きになられていますか、陛下。続いて楼安関以西の情勢ですが」
「うむ」
「続けます。現在、昭国には後継者争いの兆しがあり……」
「…………」
父は絵画から目を離し、子をじっと見つめる。自分によく似た顔立ち。だが、中身はまったく似ても似つかない。
「我が国とは現在同盟関係ではありますが、交易の税をめぐり、彼の地の住民からは不満が噴出しているとの由。二十年前の戦いの折、和睦の証として互いの皇族、王族の娘を相手方へ嫁がせましたが、そのときの……」
「…………」
「陛下?」
突然立ち上がった父に、子は胡乱げな視線を向ける。まだ報告は途中だ。
しかし父はのっぺりと、感情のこもらない声で言う。
「朕はいささか眠くなった。報告はもういい。宰相へ伝えてくれ」
「………………」
「下がれ」
父の冷たい言いように。
皇太子は一瞬挑むような眼差し。しかしすぐに取りすまし、恭しく平伏。
「はっ」
そして立ち上がり、踵を返し。退出する、その間際に。
「……西の情勢は、将来国の大事につながります。ご理解、ご熟慮を」
少し不遜な口調でそう言い残し、部屋を辞した。
残された父。部屋には顔料の香り。
「孺子が……」
去っていく皇太子の足音を聞きながら、皇帝は苦々しげに吐き捨てた。




