1 秘密日記
古びた木枠の窓を通して、暖かい日差しが部屋を照らしている。
清流堂の西棟。二階の最奥を、雪蓮は自室としてあてがわれていた。
「…………」
はらり、はらりと書物をめくる音。雪蓮は窓際で、静かに読書にふけっている。
窓のそばでは木立のざわめき。紙面をくすぐって去っていく風。庭では犬と戯れる子どもたちの声。
少女は没頭していた。書物の奥に広がる、文字の彩る世界へ。
うつむいた拍子に顔の横へ垂れてきた黒髪を、そっとかきあげる。露わになった横顔は、真剣そのもの……ならば良かったのだが。
「えへへ……」
残念ながらこの娘、顔をとろけさせ、今にもよだれを垂らさんばかりのゆるみっぷり。というのも、今読んでいる書物。
「どうして恋物語ってこんなに胸がときめくのかしら……!」
そう、恋物語。
数日前、東棟の書庫でほこりをかぶっていた本を清流が見つけ、譲ってくれたのだ。
もちろん妙な物の怪が宿っていたりはしない。
書物はかなり古いもので、記された物語も相当古臭そう気配である。
それでも恋とは古来より、乙女を魅了し続けてきた一大分野。黄ばんだ紙面とはうらはらに、綴られた物語の魅力は万世を経ようとも一切衰えず。
そんなわけで、雪蓮は喜々として書を受け取ったのだった。
ほこりこそかぶってはいたが、定期的に虫干しでもしていたのだろうか。書物には虫食いの跡も少なく、少女は何不自由なく二人の恋路をたどるのである。それはそれは、ゆるみきった顔で。
さてその物語が紡ぐのは、貴公子と美少女とのじれったい恋模様。
早くくっつけばいいのにと読む者をやきもきさせながら、不器用な二人は少しずつお互いの心を近づけていくのだった。
(私もいつか……)
雪蓮、ふと書物から視線を外し、目を閉じた。もちろん白昼夢を見るために。
(やっぱりお相手は……二郎さまのような、麗しい黒髪の美丈夫ねっ!)
夢見がち、夢の中ではやりたい放題。畏れ多くも知り合いの神を役者に据えて、雪蓮はいざ妄想と意気込むのだが。
まぶたの中で待つ貴公子の、後ろ姿。
五尺の身の丈、茶色い髪。
「!」
バタン。
思わず雪蓮は書物を閉じた。渾身の力で勢いよく。
静かな部屋に、窓からチュンチュンチチチと雀の鳴き声。
静寂しばし。
なぜに。
カッと少女は目を開いた。我知らず、顔は真っ赤だ。
雪蓮は確かに二郎真君を思い浮かべたはずだった。黒髪白皙、秀麗無比なあの美丈夫を。
しかしまぶたの裏に浮かんだのは。
「はぁ……」
自分の心がよく分からなくて、雪蓮はため息を吐いた。
それもこれも、あの外道極まりない悪辣守銭奴、黄雲のせいである。
(だめよ雪蓮!)
心の内の雪蓮が呼びかける。
(黄雲くんは確かにたくさん助けてくれるし、時々頼もしいけれど)
黄雲が雪蓮を守り、慮るその理由。既に彼の口から聞き飽きたそれはすなわち。
(結局はお金のためなんだから!)
そう、金のため。
黄雲が彼女を助ける目的はただひとつ、金のためだけである。
彼女を背中に背負ったり手を引いたり、挙句の果てには接吻まで交わしておきながら「金ですよ金!」と、小馬鹿にした笑いではははと笑うようなクソ野郎である。金のために女心を弄ぶようなそんな彼を好いたって、いいことなんて何にもない。
そう理性は叫ぶのだが。
「むぅ……」
それでも雪蓮は、黄雲を嫌いになりきれなかった。
いや、別に嫌う必要はない。ただ恋のお相手の座からは退いてほしいだけなのだが……。
先刻まで夢中で読んでいた本を机の端に追いやって、頭を抱えることしばし。
「うー、なんだかもやもやするーっ」
悶々とした気持ちはどうにも追い払えない。
懊悩が消えてくれない、こんな時。少女にはとある対処方法がある。
「そうだ、日記を書きましょう」
ぽん、と手を打って、雪蓮は書棚の奥の奥、隠すように詰め込んでいた本を引っ張り出してきた。
その題名、『秘密日記・第十五巻』。
大変にいかがわしい書名である。
ちなみに十巻までは屋敷に置いてきた。この部屋には他に、十一巻から十四巻までが秘蔵されている。
さて、書を開けば。一面に踊る丸っこい筆跡。
一番最近の記事までめくり、雪蓮は筆を執った。
この少女、意外に筆まめな性質で、日頃なにか気になることや思い煩うことがあれば、細々と日記帳に書き溜めているのである。特に悩み事などは、文字にすればなんとなくスッキリする。
ただし。文章を書くのは、十三歳の夢見る乙女。日記帳を成すほぼ全ての文章は、細かすぎる白昼夢の内容だったり、世にも恐ろしく恥ずかしい詩歌だったり。
具体例を挙げるならば、「教えて太白! 恋って一体なにかしら」とか「愛の力で八十万禁軍を一網打尽!」など。非常に独特な感性で、まだ見ぬ恋愛が歌われている。
五年後に読み返せば、赤面間違いなしの逸品である。
「えーと……」
雪蓮は筆にじんわりと墨を含ませて、黄雲に対する複雑な心境をしたためる。
恥の歴史が、また一頁。
「よしっ!」
書き上げて夢見がち、満足げに頷いた。
そのとき。
「お嬢さん?」
「!」
呼び声は唐突だった。閉じた部屋の扉の奥から、当の本人である黄雲の声がする。
「あのー、ちょっといいですか?」
「あ、あわわ……!」
この時の雪蓮の慌てぶりたるや。たちまち顔を真っ赤に染めてひとしきりあたふたした後に。
まだ墨痕乾かぬ日記帳をバフンと閉じて書棚に押し込み、窓際で風に当たりつつ手も扇がせて赤面を無理矢理冷まし。すーはーと入念に繰り返す深呼吸。
そして姿見で顔色が普段通りに戻っているかを確認し、のほほんとした顔立ちをキリッとさせて、気合いを入れて。
「な、なあに? 黄雲くん!」
雪蓮は意を決して、自ら戸を開くのだった。
こちらを見る黄雲は、いつも通りの面倒くさそうな表情。
「まったく、何やってたんです? やたら応答までに時間がかかりましたけど」
問う割りには「まあ何でもいいですけど」とすぐさま話題を打ち切り、黄雲は本題に入る。
「じゃ、今から出かけますよ」
「出かける……」
外出。一瞬なんのこっちゃかと首を傾げる雪蓮だったが。
少女は思い出した。今朝、朝食の席で言われたことを。
「そうだ! 今日はお屋敷へ行く予定だったわね!」
「忘れてたんです?」
恋物語やらなんやらですっかり予定を忘れていた雪蓮へ、黄雲の視線がじとりと突き刺さる。
少年はなおも面倒くさそうな、不機嫌な面持ちで続ける。
「また昨日から色々ありましたからね。きちんと知府殿へご説明せねばなりません」
神将ふたりが到来したのが、昨日のこと。
雪蓮に関しての天界や二人の立場を、本人達を知府邸へ同伴し、崔知府へ報告しようというのが今日の外出の目的である。
すでに二人は準備を整え、清流もいつでも出発できるくらいの酩酊具合らしい。
「わわっ、ごめんなさいお待たせして!」
「ほんとにまったく。ほら早く。遅刻料金取りますよ」
「むぅ、またお金……!」
さっさと踵を返す黄雲、ぼやきつつもその後に続く雪蓮。
スタスタばたばたと、足音が階下へ消えていった頃。
しんと静まりかえる部屋。
「よっしゃ、誰もいねえ」
無人となった乙女の部屋に、天井裏から忍び入る侵入者。
覆面黒ずくめ。説明不要のクソニンジャ、巽である。
さて不法侵入の目的は。
「どっこかなー、どっこかなー。せっちゃんの下着はどっこかなー」
そう下着。物盗りは愉快に口ずさみながら、慣れた手つきであちこち物色を始めた。足がつかぬよう、いったん動かした物はきちんと元の位置に戻すという手慣れっぷりである。
目的の物だけこっそり持ち出して、盗みの痕跡は一切残さない。忍びの道に生きる者の、鉄の信条である。
そんな巽の魔手はどういうわけか、書棚へ伸びる。
「ん? なんだこりゃ?」
そして書棚の奥から引っ張り出されたのは、先ほど雪蓮がしまったばかりの恥の塊。その名も『秘密日記・第十五巻』。
手に取った書物へ、巽はじっと三白眼から視線を落としている。
乙女の部屋に隠された書物。秘密という響き。
「まさかせっちゃんのスケベな一面が!?」
この阿呆はなぜかスケベと決めつけてかかる。そして躊躇なくぱらりと表紙を開いた。
「なになに……。おおっと、火眼のやつが来る前くらいからか!」
このニンジャ、とんでもなくスケベで破廉恥な無法者だが、意外に教養を持っている。
本来太華の言葉は巽にとって異国語だが、彼は難なくすいすいと文章を読み進めていくのだった。
パラパラと書のめくれる音。
日記は数多の赤面詩歌を挟みつつ、場面を火眼金睛襲来へと移す。
あーあー、あったなあと、なんとなく懐かしさすら覚えながら読んでいた巽だが。
火眼の放った広範囲を焼き尽くす攻撃から逃れるため、黄雲が雪蓮を連れて地中へ避難した場面。
そこに記された描写はまぎれもなく、ふたりが接吻に及んだことを示していた。
「……ん?」
あまりのことに、巽は視線を戻して読み返す。
『びっくりしちゃった。黄雲くんがあんなに優しく口づけしてくれるなんて。きゃーーっ!』
文章中でも「きゃーーっ!」などとはしゃぐ雪蓮だが、それはさて置き。
読み返した巽。三白眼はすっかり白目をむいている。
「口づけ……」
この巽。あわれな体質ゆえ、女子と接吻を交わしたことなど当然一切無い。
しかしまだ十代。十代で女子と懇ろになったことのない青少年など、世の中には履いて捨てるほどいるはずだ。もちろん黄雲も、その中の一人だと思っていた。勝手に。
それなのに。
「あ、あの野郎……!」
これはまさしく裏切りだ。
巽、目を血走らせる。裏切りというか、巽の一方的なやっかみである。
「ゆ、許すまじ抜け駆けクソ野郎……! いや、まてよ……」
そこでニンジャはふと気付いた。バッと書を閉じて表紙を見返してみる。
「第十五巻……ってことは、他にも!?」
そして始まる大捜索。ニンジャは持てる技術の全てを駆使し、部屋に隠された全ての日記帳を瞬く間に探し当てた。
「十巻まではここに無いようだな……まあいい!」
机の上に恥の塊を五冊丁寧に並べて、巽は憤然と宣言する。
「よーっし! 他にもあいつとせっちゃんがちんちんかもかもしていないか、この巽さまがしかと確かめてくれよう!」




