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9 酒宴は静かに夜は更けて

 夜半。そよそよと風だけがそよぐ静かな晩。

 清流堂の本堂には珍しく、夜中まで明かりが灯っている。

 橙色の光を放つ燭台を囲み、神将二人はゆったりと、燕陽土地神は少々かしこまって過ごしていた。二郎真君の隣では、黒犬と三尾が身を丸くして眠っている。

 不意にぎい、と。本堂の扉が開かれる。黒い人影が開いた扉に寄り掛かり、「皆々さま」と一言呼びかけた。

 

「いかがですかな、燕陽の酒は」


 酒の壺を抱えた清流道人だ。器用に片手に重ねて持っているのは、四人分の酒杯。

 したり顔を微笑ませる彼女に、二郎真君(じろうしんくん)はわずかに口角を上げ。

 

「ご相伴に預かろう」



 かくして始まった静かな酒宴。夜の静寂(しじま)を肴に、神仙たちは酒を酌み交わす。

 一口目の酒杯を煽った那吒(なた)が、思わず「きっつ!」と顔をしかめた。

 

「ずいぶん辛口だなぁ……甘い酒はねえのか? 果実酒がいいなぁ、オレ……」

「申し訳ない。あいにくと果実酒はご用意がありませぬゆえ」


 清流の返答に、那吒は「ちぇー」と意気消沈。しかし酒杯に注がれた酒はきちんと飲み干す主義なのか。ちびりちびりと舐めるように飲んでいる。

 

「いい酒ですな」

「ええ、自慢の酒です」


 香りと味を粋に愉しんでいる二郎真君に、土地神も酒杯を片手に顔をほころばせた。

 そんな酒の席に、突如ガラリと開く扉の音。

 思わず戸口を見遣る一同の視線の先に。

 

「…………」

「火眼?」


 闖入者(ちんにゅうしゃ)、火眼金睛。眠たげな目でじろりと本堂内を見渡しながら、一言。

 

「きつね……」

「狐? 三尾のことか?」


 尋ねる清流に答えることもなく、火眼はさっそく三尾の姿を見つけると。つかつかと足早に歩み寄り、不意に寝っ転がって。

 

晩安(ワンアン)……」

「ふきゅっ!」


 三尾のふかふかの尻尾を枕に、早くも寝息を立てるのであった。

 あわれ三尾、突然枕にされて起こされて。逃げ出そうにも火眼の頭が尻尾を敷いていて、身動きが取れない。

 仕方なしにそのまま身を伏せ、再び寝入る子狐である。

 顛末に、一同は呆れることしばし。やがて那吒以外の大人達は、おかしげに微笑を漏らすのだった。

 

「それにしても、うまく術をかけたものだ」


 二郎真君が火眼の寝姿を眺めながら、しみじみと言う。

 術とは。

 

「力封じに、欲求の制御、金氣の知覚制限……」


 数日前。炎の物の怪だった火眼(かれ)の凶暴性を抑えるために、施された三つの術。

 

「術をかけた者はなかなか良い感性をお持ちだ」


 我ら天界の者ならば、と二郎真君。天界の神仙が贋作の始末をするならば、てっとり早く強力無比な力封じのみを施して、万丈の山の下敷きにして封印するところ。

 

「しかし欲の制御、金氣の知覚を遮断する術をもってして、凶暴性を抑えるとは。術も魂魄の底にまで()みている様子、そう簡単には解けますまい。そう、あなた自身にも施されている通りの術式」


 術者をほめそやして、二郎真君はほのかに笑う。

 

「確か術を使ったのは、あなたの師父でしたか。いやはや、感服つかまつった」

「ありがたきお言葉です。……三尾のやつめ、起きていれば師匠へ直接お伝えできたものを」


 三尾は火眼の枕を務めつつ、ぐっすりと寝入っている。二郎真君の言葉は続く。

 

「火の山に封じられた贋作。炎の氣の塊だった彼を、術が効くまでに弱らせる、と……。それもかなりの難事だったとお見受けしますが」

「ええ、おっしゃる通り……」


 火眼へ眼差しを向けながら、清流道人は過日の艱難辛苦に思いを馳せているかのような口ぶり。火眼を映す黒い瞳は、少々複雑そうな色を浮かべている。


「称賛の念に堪えません」


 そう称えつつ、真君は普段通りの真面目な口調だ。

 

「五百年火の氣に浸かり続けた強大な物の怪。同じく贋作者を含むとはいえ、下界の者がたった数人でその氣を死の寸前まで減らし、術をかけて制御下に置くとは」


 続けて紡ぐ言葉に、二郎真君は目元へ笑みを浮かべて真の称賛を込める。

 

「そう……殺しきらずに」


 三つの眼から注がれる視線。清流は神仙からの賛辞に応じるでもなく、なおも複雑そうな面持ちだ。

 

「……最初は、殺すつもりでした」


 道人、訥々と語りはじめる。視線は火眼へ向けたままで、つぶやくように。

 

「彼奴めを殺して、私も死ぬ気でいました」

「おいおい、殺すだなんだと……戒律違反じゃね?」

「黙っていなさい那吒」


 水を差した脳漿ぶちまけたがりの同僚を、二郎神、静かにたしなめる。

 

「我ら贋作は、外法にて生み出されたもの」


 燭台の揺れる明かりの中、清流はうつむき気味の顔へ暗く影を落としながら続ける。

 

「より多くの氣を欲するよう作られているため、本来は生きとし生けるものを捕食し、氣を集めて真の霊薬(エリキサ)たらんとする性質を有しています。この天地を生きるものにとって、我らは甚大な害を及ぼしかねない存在」


 外法によって生み出され、天地の理に反する存在。

 清流も火眼も、自分たちが存在を許されない者であることを自覚していた。

 それを。

 

「弟子に、諭されましてな」


 清流道人は顔を上げる。暗い影が消え、橙色の光に照らされる顔には――照れ笑い。

 

「世の中にいらないものなどない。火眼にも私にも、何かしらの価値があるのではないかと。そう、『無用の用』だと……」

「ふむ……」


 無用の用。真君の顔に、どこか満足げな笑みが浮かんだ。


「その言葉を持ち出されては、敵いませんな」


 天地の理を超えて、全てを包み込むようなその言葉。天道の守護たる神将は、どこか感じ入ったように目を細めている。


「我ら天仙としては、贋作という存在は積極的に肯定はできぬものの……。清流殿。良い師父と良い弟子に恵まれましたな」


 三つ目の神将の言葉に、清流道人。


「ええ、自慢の師匠に、自慢の弟子です」


 少女のような、母親のような。不思議なはにかみ笑いで応えるのだった。

 

「そういえばさー、お師匠さんよ」


 二人の会話を退屈そうに聞いていた那吒が、唐突に話へ混ざる。ぷかぷかと宙に逆さまに浮きながら、意地の悪い表情だ。

 

「あんた、気付いてたろ? 弟子が養生の術を使っていたことを! 兄いが指摘したとき、あの噴き出しっぷりだったからな! 土地神のじーさんも分かってたよな!?」

「そりゃ……まあ師ですから」

「うむ」


 にこりと笑う清流に、うなずく土地神。那吒はなおもニヤニヤと小意地の悪い笑みを浮かべている。昼間に散々黄雲をからかったのに、まだ足りないらしい。


「まったくお優しいもんだ! こんな面白いことを言わずに我慢してるなんてさ!」

「ははは、何度かおっしゃる通りに、からかってやろうかと思いましたが」


 清流道人はいつものしたり顔に戻った上で、那吒同様の小意地の悪い笑みを浮かべ。

 

「あいつの四苦八苦を素知らぬ顔で見ているだけというのも、これがなかなか面白い」

「あんた……結構性格悪いんだな……」

「ふふ、面白さにかけても自慢の弟子」


 性悪師匠はそう言って、杯の底に残った酒を飲み干した。

 そんな彼女へ二郎神、なおも興味深そうな面持ち。

 

「確かに面白い少年だ。那吒より聞きましたが……一見強欲守銭奴ながらも、金儲けに不思議な矜持を持っているそうですな。かと思えば、内面は面白すぎる思春期」

「ええ。まったく、こみいった性格の厄介なクソ外道に仕上がったものです」

「お前さんの薫陶の成果だぞ」


 土地神の至極もっともな指摘に、一同、顔を見合わせてぷっと噴き出した。

 

 

 やがて夜も更けて。

 清流道人が辞し、土地神もこくりこくりとまどろんで。

 黒犬と三尾、火眼金睛が深い眠りに就いた後。

 

「ほう、見よ那吒。下界の夜空だ」

「ふーん……」


 本堂の屋根に上って、天仙たちは空を眺めていた。

 今日は満月。月の光は煌々と、周囲の星々も霞むほどだが。

 天界で眺めるよりも、月は小さいし星もまばら。しょぼくれてんなと内心思う那吒だったが、隣の二郎真君は三つの眼で楽しげに、夜天を見上げている。

 

「……なぁ、兄い」


 周囲に気配が無いのを確認して。那吒は小声で呼びかける。

 

「いいのか、奴らに言わなくて。鴻鈞道人(こうきんどうじん)は知っててあいつらは知らないなんて、少し不公平じゃねえか?」

「那吒……」

「だって、霊薬(エリキサ)は天す……」

「口を慎め、那吒」


 言いかけた那吒が押し黙る。真君の声は静かで語気も穏やかだったが、気迫に満ちている。

 

「滅多なことを口にするな。お前が言いかけた一言は、この下界に無用の混乱を引き起こしかねないものだぞ」

「でも……」

「それに」


 月の光を映した三つの瞳が、険しい目つきを那吒へ向ける。

 

「我らの命は霊薬(エリキサ)の監視。多少の手助けは許可されているとはいえ、あまり肩入れするものではない」

「…………そうだったな」


 那吒はふいと視線を逸らした。少女のように無垢だった顔を、冷徹な神将の表情が覆う。

 

「そう、我らが命は霊薬(エリキサ)の監視。それから……」

 

 二人の頭上には、墨を流したような空。

 闇のなか星々を従えて、夜の主のように照る真円は……。

 

 

 

「やれやれ、天界まで動いたか」


 やれやれなどと言いつつ、その口調に切羽詰まったような焦りは微塵もない。

 夜の暗がりを歩きながら、金髪碧眼の美男はやわらかい笑みを浮かべている。

 傍らには巨大な怪物。牛のような身体と角を持つそれに「饕餮(とうてつ)」と、美男――鴻鈞道人は呼びかけた。

 

「またお前の力を借りるかもしれぬ。その時は宜しく頼む」


 饕餮は返事をしない。それでも鴻鈞道人は満足げに、灰色の土を踏みしめ歩き続けた。周囲には灰の地面と闇以外、何もない。

 

「さて」


 美男はふと足を止め、振り返った。

 

霊薬(エリキサ)よ。私に見せてほしい」


 振り返った先に、青く丸いもの。

 海と陸、そして雲に彩られたそれは、母なる星。

 

「……太源(おまえ)が一体、なんなのか」

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