7 あゝ思春期
窓の外から、きゃっきゃと楽しげな声が響いている。
時折混ざる、ワンと鳴く犬の声。
二郎真君の連れていた黒い犬が、子どもたちと庭で遊んでいるのだ。
先ほどまでこの部屋で真君に見惚れていた遊も、小難しい話と美丈夫の顔面に早くも飽きてしまい、今は逍と遥に混じって、楽しげに犬を追いかけていた。
木陰では三尾がぐったりと身を伏せている。
そんな昼下がり。
「それにしたって、身勝手なお話ではありませんか」
話し終え、茶を楽しんでいる二郎真君へ。
黄雲は少々憮然とした面持ちで、不遜にも文句をぶつけている。
「身勝手とは?」
「もともと霊薬は、あなた方天界の宝物殿に秘蔵されていたのでしょう? ご無礼承知で申し上げますが、元はと言えば、それを盗み去られた天仙の皆々様の失態が原因ではありませんか」
「お前、よっぽど脳天かち割られたいらしいな!」
「やめなさい、那吒」
喧嘩腰の那吒を制して、二郎真君は黄雲へ続きを促した。
「貴重なご指摘、痛み入る。少年、気にせず続けてくれ」
「ならば、正直なところ申し上げます。そちらの失態が原因にも関わらず、それを棚に上げ殺処分だの何だのと! あまりにも身勝手ではありませんか!」
「黄雲くん……」
舌鋒鋭くして抗議する黄雲へ、雪蓮は驚きの視線を向ける。
きっと彼の目的はいつもの通り、「銭のため!」なのだろうが。それでも彼女は、自身の意見を代弁するかのように黄雲が憤ってくれていることが、少し嬉しかった。
ちなみに。清流はと言えば、弟子の無礼を詫びるでもなく、壁に背を預けて瓢箪の酒を煽っている。
巽は隣の巨乳に見入っていて、火眼は卓に突っ伏して再び眠りに落ちていた。
「確かに、そうなのだ」
抗議を受けた二郎真君は、怒るでも詫びるでもなく、黄雲の論に同調を示す。
「きみの言う通り、元はと言えば我らの失態が招いたこと。そこのところ、我が伯父上も苦慮しておられる」
「伯父上?」
黄雲は突如真君の言葉の中に現れた「伯父」の存在に、ふと舌鋒を収めて問う。
彼の疑問に答えたのは、呆れ顔の那吒だ。
「お前知らねえのか? この顕聖二郎真君兄いの伯父上こそ、かの玉帝陛下だよ」
「玉皇大帝!?」
明かされた伯父の正体に、黄雲仰天である。思わず少年は壁際の師匠を振り返った。
「……お前、知らなかったのか」
清流道人も、酔いにほてった顔を呆れさせている。
二郎真君が玉皇大帝の甥御であることは、この時代、古老くらいの年齢層には有名な話だった。しかし、伝承は時を経るごとに欠落が生じるもの。若い黄雲には初耳であった。
無知な少年に、二郎真君は気を悪くした風もなく。「いかにも」と表情はなおもクソ真面目だ。
「那吒と清流殿の言うように、我が伯父は玉皇大帝。伯父上は我ら天仙の管理不行き届きにより問題が生じたことで、日夜頭を悩まされているご様子」
「へ、へぇ……」
まさか最高神の縁者とは思わなかった黄雲。相槌も少々しり込み気味である。
「しかし、苦慮されているということは」
二郎真君の口調は、少し明るいものへ。
「下界の民たる雪蓮殿へ、失態の押し付けはなるべくするまいと悩まれている証拠」
そこで真君、雪蓮へ向かいふわりと笑った。
「大丈夫。天道はそう無慈悲ではないよ」
「…………」
それは無上の笑顔だった。
涼やかな目を細めて、口元を優しく微笑ませて。三千世界の女子という女子を、恋という奈落へ一人残らず突き落とす笑みだったが。
「そうですか……」
雪蓮はほっと安堵の息を漏らすのみ。隣の黄雲は、「天帝の甥御殿……」と何やらぶつぶつ呟いている。
「しかし」
雪蓮の安堵に水を差すかのように、二郎真君は意地悪く続けた。
「もし玉皇大帝が苦慮の果てに、そなたを殺処分する道を選ばれたなら。我らは迷わずあなたを殺します」
「うっ……」
再びきらめく三尖刀に、雪蓮は息を詰まらせる。
そんな彼女から視線を動かし、二郎真君は清流へ問いかけた。
「清流道人よ。もしそうなれば、あなたはどうなされます」
「さあて……」
酒臭い息を吐いて、清流道人はしたり顔で話を弟子に振る。
「黄雲、お前はどうするんだ」
「……ふむ。きみの意見も聞かねばな」
「僕は……」
師匠と神将の眼差しが降りかかる中、黄雲が答える前に。
「兄い、こいつにそれを聞くのは愚問だぜ」
口を挟んだのは那吒だ。その表情はどこか、呆れを含んでいる。
「那吒、愚問とは」
「おうおう黄雲。兄いに教えてやれ」
「おうとも、では知らざあ教えて進ぜましょう」
どこか投げやりな那吒の後押しを受け、そして黄雲は誇らしげに言い放つ。
「無論、あなた方が敵に回ろうと、僕は彼女を守ります」
「ほほう、いいのか少年。我らは天仙、ゆえにきみの道術は封じることができる」
「関係ありません。術を封じられようと腕をもがれようと足をもがれようと、最後の最後まで、僕はお嬢さんをお守りするつもりです」
殊勝な言いっぷりだが、最後の最後は雪蓮もげんなり予想している通り。
「そう、すべては銭のため!」
「ふむ……」
我欲むき出しの強欲道士に、神将は感じ入ったように頷いた。
「面白い動機だな。銭のためか。そのためには命をも投げ打つと」
「兄い、コイツこういう奴なんだ。ほんっとわけ分かんねえ」
「ねえ、黄雲くん……」
すんなり守銭奴を受け入れている二郎真君はさておいて。
黄雲の主張に難色を示したのは、当の雪蓮だ。
彼女は諌めるように呼びかけると、顔いっぱいに心配の色を浮かべて言う。
「あなたがお金のために何でもするのは知ってるけど……。でも、こんなものすごい方々に大きな事言うのは、ちょっとどうかと思うの……」
「なんです、大言壮語の何が悪いんです」
「だって! もし二郎さま方が敵になってしまわれたら!」
雪蓮、突然蒼白な顔で黄雲の手を取り握りしめ。
「さっきあなたが言ったように、本当に術を封じられて、腕や足をもがれてしまうかもしれないわっ!」
「…………」
雪蓮の瞳が潤むが、黄雲はどこか醒めた目でそれを見ている。
「だから別に、僕は銭のためならどんな目に遭ったっていいんですよ」
冷たく雪蓮の手を突っぱねて、黄雲は真君に向き直り腕を組んだ。
「むぅ……!」
雪蓮の恨めしげな視線は、見ないふりだ。
「なるほど、きみの信念は分かった」
「ご理解いただけましたようで」
「うむ。黄雲少年、きみは千年に一度の、おそろしい守銭奴のようだ」
「ははは、十二分のご理解だ!」
真君の評に、黄雲は満足げに笑うのだった。
「清流殿も、同じご意見と見て良いか」
二郎真君は清流にも尋ねる。黒衣の道士はしたり顔をにんまりさせて。
「ええ。私も弟子と同意見。ああ、私が動くは金云々ではありませぬゆえ、そこは誤解のなきよう」
「ああ。この超級の守銭奴は彼だけで十分だ」
「はっはっは、愉快愉快!」
「もうっ!」
正しく自身を理解してくれた二郎真君に、黄雲笑いが止まらない。雪蓮はそんな彼に不満げだ。
「おい、黄雲よ」
「なんだよ?」
ご満悦の黄雲へ、低い声で呼びかける黒ずくめが約一名。
巽、どこか憤然とした様子で黄雲へ問いかけた。
「なぜお前は、ああも冷たくせっちゃんを突っぱねるのだ」
「はあ?」
巽は羨ましいのだ。女の子に手を握られて、心配された黄雲が。そして腹立たしいのだ。そんな羨ましい状況を、冷たく拒絶できる黄雲が。
そして、彼の問い対する黄雲の答えも、巽には理解できない。
「だって大きなお世話じゃないか」
「むぅっ! 黄雲くんのバカっ!」
「おいおい……俺なら手ぇ握られた時点で押し倒すがな」
はたから見れば完全に痴話喧嘩の二人へ、巽は性欲に満ちた感想をぽつりと漏らし、さらに黄雲へ一言。
「なあ、お前ついてる? 機能してる?」
「余計なお世話だよ!」
下世話な心配をする巽に、黄雲もちろん激昂。
そんな阿呆なやりとりに見入っていた二郎真君。ふとその眉を疑問の形に歪めて、口を挟んだ。
「……ひとつ、気になっていたのだが」
二郎真君はいたって真面目な口調で尋ねる。
「黄雲少年。なぜきみは雪蓮と言葉を交わす際、そのような氣の練り方を……」
「!」
「ぶはっ」
真君の疑問に、黄雲はぎょっと目を見開き。
那吒は盛大に吹き出して、壁際で酒を飲んでいた清流道人は。
「んぶふっ!」
飲んだ酒を鼻から逆流させてむせ込んでいる。
そして那吒と清流は続けて、
「あ、兄い! オレ言わずに我慢してたのに! ぶははははは!」
「ひ、ひぃい、は、腹が痛いっ、笑いすぎて腹がっ」
爆笑の渦に巻き込まれている。
「え、どうかしたの?」
「おお……」
突如沸き起こる、原因不明の大爆笑。
雪蓮はもちろん戸惑っていて、巽も笑いすぎて胸がはだけそうな清流をさらにガン見している。
黄雲はといえば。
「ぐ、ぐぬっ……」
この弾けた空気の中でひとり、うつむいてひたすら肩を震わせていた。
「……私は何か、おかしなことを言っただろうか」
首を傾げる二郎真君。そんな彼へ那吒は背後から近付き、笑いにまみれた声を発しながらその肩をバシバシ叩く。
「いや、こんな衆目の中で言ってやるなよこの朴念仁! おい、黄雲!」
ひとしきり二郎真君の肩をバシバシした後に、那吒は笑いすぎて涙目になっている眼差しを、黄雲へ向けた。
「お前、後で本堂裏に来いや!」
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そして呼び出された本堂裏。
「おう、来たな!」
「え、ええ……」
「何なのだ那吒、こんなところで一体……」
いかにも愉快そうな那吒と、成り行きが飲み込めていない二郎真君が待ち構え。黄雲は気まずそうな面持ちでうつむき気味に佇んでいる。
本堂裏には三人のみ。庭ではきゃっきゃと相変わらず子どもと犬がはしゃいでいて、他の者の気配は無い。
ちなみに母屋では。
「黄雲くんと天仙のお二人、一体何のお話かしら」
疑問の表情の雪蓮が巽へ話しかけ。
「気になるなら俺、ちょっくら聞きに行ってくるぜ! あらよっと!」
巽が窓からひょいと出動しようとするのを。
「待ちなさい巽」
「おぶっ!」
清流がその肩を掴んで引き止め、女人に触れられた巽が血を噴いて窓から昏倒するのだった。
「たっ、巽さん!」
「お、おう……何とか生きてるぜ……」
「良かった!」
「やれやれ……」
吐血の量から言って、おそらく一晩もすれば復活する程度だろう。巽の持病にそう見当をつけ、清流は視線を雪蓮へ向けた。
「雪蓮。気になるかい? 何を話しているのか」
「ええと……」
雪蓮は窓からちらりと本堂の方を見やり、正直に一言。
「少しだけ……」
「ふーむ。少しだけかなぁ?」
清流の意地悪な問いかけに、雪蓮はぐむむと口をもごもごさせている。そんな彼女にはははと笑って、泥酔道人は酒臭い息を吐いた。
「ま、わざわざあんな狭い場所でこそこそ話してるんだ。放っておいてあげなさい」
「は、はい……」
「まあ、ひとつだけ言っておくなら。黄雲、あいつはな」
清流道人はなおも意地悪な、楽しげな表情で、少女にこう告げた。
「あいつはとんでもないへそ曲がりだよ」
そして再びの本堂裏。
先ほどと同様に気まずそうな黄雲を前に、那吒は二郎真君へヒソヒソと耳打ちをしている。
「……ってわけだ、兄い」
「ほう、なるほど……」
「あ、あの!」
やたら長い耳打ちに、黄雲ここぞとばかりにしびれを切らした風を装い。
「お、お話が特に無いようであれば、僕はこれにて失礼を……!」
「ちょいまちクソケチ! 兄い!」
「心得た」
踵を返そうとするクソケチへ、「むっ」と真君は指を二本差し向けて、指先に集めた氣をぶつける。
「あっ」
体に生じた異変に、黄雲は思わず声を上げた。
現在彼は、道術こそ土地神に封じられているものの、体内の健康を保つための、養生に関する氣の力は扱うことができる。しかし。
「ちょ、ちょっとこれは……」
「うむ、養生の術を封じさせて頂いた」
そう。二郎真君が封じたのは、その養生の術。
けろりと答える真君とは対照的に、黄雲は満面を焦らせている。そんな黄雲へ、那吒は底意地の悪い笑顔を向けながら口を開いた。
「なあお前。今まで養生の術を使って、血圧と心拍を操作してたろ?」
「な、何のことやら……」
那吒に問われて、黄雲は素知らぬふり。しかしその額には焦りの汗が浮かび、顔色はよろしくない。
明らかに心当たりあるくせにすっとぼけのクソ道士に。
「よし、やれ! 兄い!」
「心得た」
顔を背ける黄雲の死角で、神将は何やらごそごそドロン。
「ドロン?」
聞き慣れぬ音の発生に、黄雲がそちらを振り向くと。
「黄雲くんっ!」
「うおっ!」
急に少年の胸に飛び込んでくる、見慣れた少女。
黒い髪に真っ黒な瞳。花のかんばせ。
「おっ、お嬢さん!」
「黄雲くんってば!」
「なっ、ななな!」
突然現れた雪蓮は、突然黄雲に抱きついてぎゅうぎゅう顔を彼の胸元に押し付けている。
今まで通りならば、何があろうと冷たくあしらうはずの黄雲だが。
「わっ、なっ、なんですか! 急に! うわあ!」
顔を真っ赤にして動転している。
「おおっと? おやおやこれは?」
空中にぷかぷか浮いて、那吒は心底楽しそうに見下ろしていて。
「うふふ……黄雲くんの心臓、ドキドキしてる!」
「あああ……」
雪蓮は黄雲の胸に耳を押し付けて心音に耳を澄ませ、黄雲は極限の赤面で死にかけている。雪蓮の言う通り、彼の心拍は祭りの太鼓のように荒れ狂っていた。
「たっはー! ああ愉快愉快!」
ひとしきりニヤニヤした後に堪えきれず爆笑して、那吒は雪蓮へ向けて呼びかける。
「おーい兄い! もうその辺でいいぜ!」
「む」
突然。恋する乙女の表情を真面目に変えて、雪蓮はドロンと煙に巻かれ身を隠した。
煙が晴れて現れたのは。
「少年。失礼をいたした」
「はぁっ!?」
黄雲の目の前で正座しているのは、二郎真君その人である。
雪蓮が消えて、代わりに現れる二郎真君。つまり。
「驚いたか! これぞ兄いお得意の、七十二の変化術!」
「はああっ!?」
先ほどまでの雪蓮は、真君が化けていたということ。
「七十二の内、『少女』という括りの中で雪蓮殿のお姿、拝借いたした」
この場をお借りして御礼申し上げると、クソ真面目にずれている真君は置いておくとして。
「いやオレはさ。おかしいと思ってたんだよ、年頃の青少年がさ」
やれやれと頭を振りながら、那吒は勝ち誇った笑みで続ける。
「同年代の女の子に手を握られてもそっけなくてさ、後ろから押し倒したって照れも何にもねえんだもん!」
「ぐ、ぐぬぬ……!」
「お前、あの娘を内心すっげー意識しながらも! 今まで氣を操作して心拍と血圧を抑えつけることで! 恋愛に興味なげな冷血漢を演じていやがったな!」
「ぐぬぬぬ……!」
那吒、核心をつく。
黄雲は先ほどの激しい脈拍の名残を抱えながら、悔しさを赤い顔へにじませることしかできない。
「思春期だな、少年よ」
「う、うわーっ!」
そして涼しい顔で二郎真君がとどめを刺す。
「あああっ! なんだってこんな酷い仕打ちをなさりますかー! うわあああ!」
黄雲、突如二人へ背を向けてしゃがみこみ、しゃにむに地面を掘り始めた。
穴があったら入りたい。
しかし今は道術が使えない。
ならば手作業、仕方がない。
少年はざりざりと指で地面を引っ掻き続けるが、当然そんなにすぐ穴が掘れるはずもなく。
「おいおい。まあ落ち着けよ、思春期くんよ」
「そうだぞ、思春期殿」
「うわあああ!」
神将の面白半分の追撃に、少年はなすすべなく晒されるのであった。




