5 異変
今まで生きていた中で、一番濃密な一日だった。
慣れ親しんだ我が家からの脱出、あてどない放浪、そして謎の少年。
それらの余韻に浸る間も無く、雪蓮はわっしょいわっしょいと衛兵達に屋敷まで担ぎ込まれ、父親立会いのもと医師の診察、無事と分かるや否や続いて涙声の母親に抱きすくめられ、挙句脱走を白状、流れるような勢いで両親から説教地獄責めにされるのだった。
説教から解放され、ほうほうの体で帰ってきた彼女を迎えた自室は、いつも以上にがらんとしている。燭台、文机、硯箱、寝台。四つ以外に何もない。お気に入りの小説本が並んでいた本棚は撤去済み。窓には板が打ち付けられていて、月明かりも入ってこない。
わずかな自由を楽しんだ代償がこれだ。雪蓮は以前よりも強力な独房と化した自室で、ぽかんと口を開け佇むしかなかった。
しかしふと、燭台の照らすわずかな範囲の中に、一冊だけ書物が置かれているのに気付く。文机の上に置かれたそれは、脱走前に読まされていたあの本だ。
『霊秘太源金丹経』
相変わらず物々しい楷書の書体。うへ、と雪蓮は表情を曇らせた。
そもそもこの本は、彼女の母から読み通すよう押し付けられたものだ。
母はもともと都の出身。母の兄、要するに雪蓮の伯父は王宮の官僚だ。その伯父が、わざわざこちらへこの本を送ってくれたことが事の発端だった。
「いいですか、雪蓮。都の方々はこのような格式高い書物を読んでおいでです。あなたもくだらない小説ばかり読んでいないで、こういった書を読み、きちんとした教養を身につけねばなりません」
そうして命じられた、読書感想文の課題。母はどうやら、雪蓮に才気溢れる感想文を書かせて伯父へ送り、良い嫁ぎ先を紹介してもらうための布石にする算段のようなのだ。雪蓮の姉が遥か西の国境近く、とんでもない僻地へ自ら嫁に行ってしまったこともあり、雪蓮には都の良家をと、母は常々口癖のように繰り返し、切望していた。
当の雪蓮は、見合い結婚には否定的である。恋愛小説を愛読する彼女の理想は、偶然出会った美青年と大恋愛の末に結ばれること。夢見がちな年頃であった。
そんな事情もあり、雪蓮はこの小難しい書物を敬遠していた。
しかし。何もない部屋、一冊だけ置かれた書物。この状況下、退屈しのぎにでも、それを手に取るしか無いようだ。
「仕方ないよね……」
雪蓮はしぶしぶ、書物を開く。何も読む物が無いよりマシだ。
紙面には相変わらず、堅苦しい文章が整然と並んでいる。
先ほど読んだ部分をすっ飛ばし、続きから読み始める。
(太源の龍……)
書物の冒頭は、この国で古来から信仰されている龍についての記述だ。
太源と呼ばれるこの龍は、宇宙の始まりに生まれ、その吐息から万物を生み出したとされている。ここにある燭台や机、そして雪蓮のような人間といったもの全てが、元々は太源から生み出されたということだ。
この龍は万物の租となった後、神仙の住まう九天の涯、暗く寒々しい無限の闇を、何処ともなく彷徨っていると言われている。
(なんだか可哀想……)
太源の孤独を思い、少し哀れに感じる雪蓮である。しかし、彷徨える太源は市井の童ですら知っている伝承だ。何度も聞きかじった話に、いつまでも同情が続くこともなく、雪蓮はすぐさま次の行を読み進める。
太源 神仙を生み 金丹を託す
金丹 太源が血肉より出ずる 不老不死の妙薬なり
このくだりは初耳だ。雪蓮はつまらないはずだった書物に、初めて「へぇ」と感心の声をもらす。
このままだらだらと、小難しい書物で無聊を慰める一晩になる。
……かと思われたが。
「ん?」
異変は突然やってきた。
最初、雪蓮は見間違いや目の錯覚だと思った。
机に置いた書物の上。ゆらゆらと、紙面から何かが浮き上がり、彼女の鼻先で揺れている。
虫かな、と思ったが、少し書面から顔を離して分かった。
文字である。書物に書かれた本が、紙面からペラペラと身を起こし、蛇のようにとぐろを巻きつつ目の前を揺らめいていた。
文字があったはずの紙面は、白紙と化している。雪蓮はゴシゴシと目をこすってみたが、視界をスッキリさせてみても、文字は相も変わらず、書物の上でゆらゆらと揺れるばかり。
ようやく怪異と認識した彼女が、声を上げようとしたその時。
文字は開きかけた雪蓮の口目掛けて、一気に飛び込んだ。
「…………!!」
悲鳴すら上げられず。驚き、音を立てて仰向けに倒れこんだ雪蓮へ、なおも書物の文字は侵入を続ける。凄まじい勢いで、書物一冊分の文字という文字が、半開きの唇を通して、まだ幼い少女の体内へなだれ込んでいった。
彼女の部屋からの異音に気付き、侍女が「お嬢様?」と扉を推すも、後の祭り。
床に倒れ込み、意識の無い雪蓮に、屋敷の住民は再びの大混乱。あっという間に両親が駆けつけ医師が呼び出され、上を下にの大騒動。
皆が昏睡に陥った雪蓮を案ずるも、すっかり全て白紙と化した書物に気付く者は、誰もいなかった。