3 那吒、大いに清流堂を鬧がす
サブタイトルは『大いに清流堂を鬧がす』と読みます。
サブタイにもルビふれたらいいのにっ。
まずいことになった。
黄雲は現状を苦々しく思う。なにせ天仙と敵対せざるを得ない展開だ。
「さあどうする。先手は打たせてやる」
那吒は空中高く浮いたまま、槍を構えて余裕の表情だ。
先手を譲るとは、大層な自信である。しかしその自信の源は存分に分かる。彼の発する仙氣は天を衝き四方を呑み、敢えて説明されずともその強大さを物語っていた。
黄雲のような道士の端くれなど、その気になれば一瞬で塵のように消し飛ばしてしまえるだろう。
雪蓮を背に後ずさる黄雲の頰を、一筋の汗が伝った。
「どうするの、黄雲くん!?」
「どうするって……!」
背後の雪蓮は切羽詰まって問うけれども。
「……どうしましょう」
黄雲、今回ばかりは気弱に答えるしかない。本来崇拝すべき対象が、自分たちを敵視しているのだ。
黄雲が知恵をふりしぼって考えたことは。
「あー、えーと那吒! いや那吒さま! ちょっとお話が!」
時間稼ぎだった。
「なんだよ! 話ならさっき十分したろ!」
「い、いやぁ……えーとその、あっそうそう!」
黄雲は言いよどみつつ、ふと適当な言い逃れを考えつく。
「ぼ、僕知ってますよ! 天仙の皆さまは僕らと同様、殺生をしてはいけないんでしょう!?」
殺生の禁止。
地上の道士はもとよりも、天上の仙道もこの戒律を遵守している。……と黄雲は師より聞き及んでいる。
「こちらのお嬢さんのはらわたをどうこうなんて、そんなむごいこと……いやはや殺生中の殺生ですぞ! さあさあさっさと天界へお帰り遊ばしてください!」
「別に殺しゃしないよ」
「……え?」
黄雲の必死の呼びかけに、那吒の返答は軽い。
しかし、彼は先刻なんと言ったか。雪蓮のはらわたごと、霊薬を引きずり出すなどと言わなかったか。
「殺さないよう加減しながら、はらわたを引きずり出すよ」
「ば、バカを言うんじゃない! 死ぬわ!」
那吒ののん気な言い様に、黄雲、口調から礼節をかなぐり捨てた。
そんな無礼な言葉遣いに構うこともなく、那吒はいけしゃあしゃあと続ける。
「大丈夫大丈夫。オレのお師匠さまそういうの得意だからさぁ、多分」
「多分!?」
「あ、そうだ。その娘の頭だけ生かしてさ! 飛頭蛮みたいにすればいい! そんなら万事解決!」
飛頭蛮とは、首だけで飛ぶ物の怪のこと。
さも名案と言いたげな得意顔に、黄雲も雪蓮も当然憤慨だ。
「あ、あほかー! 何が万事解決だー!」
「そうよそうよ! 首だけになったらお食事するときにお箸が持てないから、お行儀が悪くなってしまうわ!」
「あなたもすっげーずれてるから黙ってて!」
前門のアホ、後門のボケ。
挟まれて黄雲、頭が痛くなる。
そんな時に、嗚呼なんたること。横合いからさらにスケベ。
「うおお許さん!!」
声を震わせながら割って入る変態黒ずくめ。
巽は両の眼を血走らせ、かつ涙を滴らせている。鼻の辺りを覆う布が濡れていて、どうやら鼻水も流している様子。正直汚い。
「許さんぞ詐欺野郎!」
涕泗流る有様に、先ほど勘違い破廉恥をけしかけられた那吒も、顔に不快を漂わせる。
「うへぇ。なんだよ、まだなんか文句あんのかよ……」
「その可憐な容貌で男心を弄ぶ鬼畜の所業! 許しておけん!」
巽、未だかつてない憤りっぷりである。いくら黄雲に埋められようとも、雷公に仕置きされようとも、ここまで怒りを露わにすることはこれまで無かった彼。
きっと那吒を少女と信じてやまぬ期待と、その後の絶望との落差が激しすぎたのだろう。
ニンジャは手加減容赦のない手つきで、懐から素早く暗器を繰り出した。
「死すべし詐欺野郎! 来世では正真正銘の美少女に生まれ変わってくれ!」
「お、おい巽!」
黄雲の制止も甲斐なく、桜製の棒手裏剣が天仙へ射出される。肉眼では捉えられない速度。しかし。
「ふん」
那吒は槍で一蹴。くるりと優雅に回す槍の柄に弾かれて、棒手裏剣は次々地へ落ちる。
少年神の顔には、再び余裕の笑み。
「なんだ今のは? 蚊か、ハエか?」
そして余裕の笑みには、徐々に怒りが混じる。
「……オレに刃を向けたということは、そういうことだな」
「巽! あのバカ!」
黄雲は黒ずくめをなじり、唇を噛み締めた。
手を出してしまった以上、那吒との敵対はもはや避けられない。それに。
「それに! オレのことを詐欺だとか! 女顔だなどと抜かしておいて! タダで済むと思うなよ……!」
激昂。
繰り返される巽の無礼に、那吒は仙氣を余計にたかぶらせる。機嫌は最悪だ。
「女顔は言ってねえし! 思ってはいたけど!」
対する巽も、先ほどの恨みを三白眼と木氣にみなぎらせる。
「あーあ……」
「どうしよう黄雲くん! 巽さんが!」
「本当にどうしよう……」
勝てるはずのない相手に売る喧嘩。
勝利の見込みもなく、なんの益もない不毛な争い。
心底やめてくれと思う黄雲の目の前で、戦いの火蓋は切られた。
「おらおら喰らえ喰らえ!」
性懲りもなく放たれる、棒手裏剣の雨あられ。
「なんのっ、楽勝!」
那吒は風車のように長槍をブン回して盾となし、二輪の宝具で空中を駆けながら巽の攻撃を無傷で弾く。
その那吒の背後から。
「ばーかっ! 油断大敵だぜ詐欺野郎!」
地面に落ちた棒手裏剣から芽吹いた桜の木が、黒い幹と枝をにょきにょきと伸ばし、天仙の四肢を捕らえようと迫った。
「ほほう」
ところが那吒、避けるそぶりもなく。わざわざ黒い幹、薄桃の花々に捕まってみせた。
しかし術者の巽は。
「よっしゃ、捕まえた!」
那吒のわざとらしさに気づいていない模様。
胴、腕、足と、しっかり枝に巻きつかれた那吒だが、表情には一点の焦りもない。
彼を雁字搦めにしている桜の木。巽はその木へ跳ね上がり、那吒のつむじより一段上の枝に足をかけ、ぶら下がって得意満面だ。
「ふふん、どうだ見たかこんにゃろー! いやぁ、今となっては小憎たらしいツラだぜまったく!」
「ふん……」
「それにしても、神仙とはいえ他愛ないもんだな! こんな簡単に捕まっちまうなんてさ! うはははは!」
途端に上機嫌になるニンジャだが。
那吒はにやりと不敵にほくそ笑む。
「……これごときで捕まえたなどと、下々は生ぬるいんだな」
そう言って氣を込めるのは、右手に握ったままだった長槍だ。
「燃えよ! 火尖槍!」
彼の吠え声に槍——火尖槍が呼応する。
その穂先から炎が吹き出したかと思うと。炎は槍の柄を駆け上り黒い幹に燃え移り、一瞬のうちに桜の木を業火に包んだ。
「なっ、炎使いか!」
すんでのところで炎から逃れて、巽はひらりと地面へ着地する。
火眼みてえだなと、彼がつぶやく目前。
清流堂の決して広くはない庭に、火柱を上げて炎は高く燃え上がっている。
「わ、もう! 火事! 火事になる!」
黄雲があたふたと慌てるが、炎の勢いは意外にもすぐおさまった。
燃え尽きる桜の花々の中から、美童の天仙が再び姿を現わす。
「ははは、余裕よゆ……」
「間髪入れずに追撃追撃!」
「おいちょっ」
巽、冷静に氣を練った。
わさり。周囲から桜の木々が立ち上がり、引き続き那吒を狙う。
「だーっ! 人が話してる最中に!」
那吒は長槍でガシガシと迫る枝の群れを薙ぎ払い焼き払うが、桜は後から後からわいてくる。駆逐しきれぬ勢いに、
「ならばっ!」
那吒は右腕に嵌めていた金の腕輪を取り外した。すると金環の円周がぐんと広がる。
「一切を粉砕せよ、乾坤圏!」
槍を振って枝を払い下方へ間隙を作ると、那吒は立ち並ぶ黒い幹へ近づいて。
金環を大きく一振り。
「だあああっ!」
黒い木肌にめりこむ金の環。
一瞬、幹はみしりと大きくたわんだ。しかし次の瞬間には。
「塵と化せ!」
那吒の呼び声に応じるかのように。桜の幹は受けた衝撃に耐えきれず、バツンと砕けた。
そう、砕けた。木っ端微塵に、粉微塵に。
わずかに根の部分だけが地面に残り、大部分の幹と枝は消失。
桜の花がはらり散る。
「ん、んなっ……!」
あまりの破壊力に一同仰天。なぎ倒すでもなく切り倒すでもなく、粉砕。
しかし一本だけでは済まない。那吒は再び金環を振り上げ、
「ほいっと」
投げた。
投擲された乾坤圏、飛燕の如き軌道を描き。
触れる桜の木立の一切を、木っ端微塵の破壊三昧。
聞いたこともない音を立てて弾ける大木の数々を、交戦中の巽はもちろん、黄雲と雪蓮もぽかんと口を開けて眺めるのみだ。
「ははは! どうだ、オレの乾坤圏の威力は!」
那吒は紅い絹布を翻し、周囲の塵を払いながら高笑い。清流堂の庭にひしめいていた桜の木々は、すでに一掃されている。
破壊を終えた乾坤圏はひゅるりと蒼天下に弧を描いて、那吒の掌中へ舞い戻った。勢い殺さず少年神。
「我が師より賜りし、天下無双の武具なればっ!」
最後の標的は、黒ずくめ。
あっけに取られていた巽、ハッと我が身の危機に顔を上げる。
目の前には、金環を振り上げ、愉快極まりない様子の那吒の笑顔。
「その脳天かちわって! 脳漿をぶちまけてくれるっ! 殺さぬ程度に!」
「ふっ、普通死ぬわばかたれー!!」
巽の叫びも虚しく、金環は殺意満々で振り下ろされる。しかしこのニンジャもただでは死なない。
「おっし間一髪!」
「ちっ!」
得意の軽業でひらりとかわす。しかし那吒も続けて二撃三撃、巽も負けじと回避回避。
「んのっ! 大人しく! 脳漿を!」
「絶対! 死ぬから! いやだ!」
必殺の武器から逃げ続け、天仙とニンジャの追いかけっこは本堂前の石段へ。
「くそっ!」
そろそろ壁際。巽には後がない。
「さあ観念しろ!」
再び振り上げられる乾坤圏。日の光を受けてきらり輝く必殺兵器。
巽には後がない……ことはなかった。起死回生の忍び道具が、その辺に寝転んでいる。
「死すべしっ!」
那吒、もはや殺生云々など忘れた様子で喜々としている。
そして振り下ろされる乾坤圏。
——あわれ木ノ枝巽、童貞のまま死す!
かと思われたが、変態は世にはばかるもの。
「秘技!」
小癪にもニンジャはこの土壇場、新たな忍術を生み出した。
ぐわん。
振り下ろされた乾坤圏の一撃。衝撃音がぐわんぐわんと反響する。その金環がめりこんでいるのは、黒い覆面ではない。白銀の髪の毛だ。
「……寝太郎返し!」
秘技・寝太郎返し。
それは絶体絶命の危機の折、その辺にに寝ている火眼金睛を身代わりに、盾とする技である。
巽に両脇を掴まれ項垂れた体勢で、火眼は脳天に金環を受け止めたまま沈黙している。
この火眼金睛、少々特殊な身の上ゆえ、常人よりもほんのちょっと丈夫にできている。だから脳漿も撒き散らさないし、まあ死なない。
ただしやはり天仙の必殺兵器は、さすがに痛かったようで。
「……いたい」
火眼金睛は目を覚ました。炎の眼は一瞬憮然とした色を浮かべたかと思うと。
白目は赤く、瞳は金色に変じる。
「や、やばい! 火眼のやつすっげえ怒ってるぞ!」
はたから見ていた黄雲が叫ぶ。彼の言う通り、目の色が変わった火眼は怒りの炎に燃えている。
そう、文字通り燃えている。
「あっつう!!」
全身から炎を噴出させる火眼。背後にいた巽が焼けた。
「ひいい本堂に火が!」と黄雲が恐慌をきたす。幸い火眼が立っている場所の石床と巽が焦げるくらいで、特段被害は無かったが。
「その眼の色!」
突然燃え上がった白髪の少年に、那吒はふわりと跳び退りつつ驚きの表情。
「その目はまさしく火眼金睛! なんだお前、斉天の親戚か何かか!?」
「わけのわからんことを……!」
本堂から離れた那吒へ、火眼は無表情で怒り心頭だ。
「おれの目をさますとは……ぜったいゆるさん」
側に転がっていた朱塗りの棍を足で跳ね上げ右手に掴み、火眼は那吒めがけて駆け出した。
「……せっかく助かったと思ったのに」
その背後では、黒こげの巽が「げふっ」と黒煙を吹いて気絶するのだった。
さて、戦況。
本堂から庭へ移動し、那吒と火眼はさっそく各々の得物で打ち合っている。
「棍棒使いか!」
長槍で棍を受け止めながら、那吒が口を開く。
「ますますもって斉天に似ている! 面白い!」
「だからなんのことだ」
棍と槍が火花を散らし合う。さらにお互いに火氣も込めているのか、空気に熱が混じり始めた。
そんな戦場を横目にこそこそと。
「こ、黄雲くんどこへ!?」
「いいからこちらへ!」
人外大戦を避けながら庭を大回りに走り、黄雲は雪蓮の腕を取りつつ門へ向かう。目的はもちろん。
「ええっ! 火眼さんが戦ってるのに逃げちゃうの!?」
「だって無理でしょあんなん! いったんずらかって師匠を探します!」
幸いこちらは今、那吒の死角。
そう言って門をくぐろうとした黄雲だが。
「おっと逃がさんぞ!」
「ひえっ!」
ひゅんっ、と黄雲の目の前をかすめていくのは、金の環。
金環は先ほどのように那吒の手元へ戻るのだが、思わずそちらへ視線をやった黄雲と雪蓮、ぎょっと度肝を抜かれた。
「見えぬと思ったら大間違いだ!」
なんと那吒の両側頭部に、一つずつ顔が生えている。
さらに。
「我は那吒!」
左右二対、新たな腕が肩から伸びる。
「さあ! 我が三面六臂を眼に焼き付け慄くがいい! 我は戦いの申し子、神将那吒なり!」
三つの顔に、六本の腕。
あまりにも異様な姿形から、息も詰まりそうなほどの仙氣がほとばしる。
「……なんてやつ!」
さすがの火眼の無表情も、驚きと焦りに塗り替えられる。
那吒は増えた腕で槍を掴み、力任せに火眼の棍を押した。
「ありがたく思え、これがオレの本領だ! お前にゃ何の関係もないが、あのクソザルに似てるのは何とはなしに腹が立つからな!」
何があったか、那吒は個人的な鬱憤を火眼にぶつけているようだ。もちろん火眼が天仙の人間関係など知るはずもなく。
「よく分からんが、さかうらみはやめろ」
ごく正論を述べている。
しかし冷静な言葉とは裏腹に、頰へ流れる冷や汗。那吒の槍を受け止める棍はみしみしと音を立て、彼の踵は地面を深くえぐりつつあった。
大力で火眼を押しながら、那吒は両側の顔で黄雲たちを見張っている。腕も一本残し、いつでも乾坤圏を放てる構え。
「ひ、ひええ……なんだありゃおっかねえ……!」
「わあ……夢に出てきそうね……」
「そこの二人! もっと門から離れてろ!」
腰を抜かしかねない黄雲と雪蓮へ命令を飛ばして、左の那吒の顔がにやりと笑った。
仕方なし、と黄雲、雪蓮を連れて門から離れる。本堂の方へ近づいたところで、左の那吒は満足げな笑みを浮かべて視線を外す。しかし、様子を伺っている気配はなおも続いた。
「それにしても……」
火眼と異形の神仙の戦いを見守りつつ、黄雲は本堂をちらりと見る。
「この一大事に、あのじじいは何故出てこない……!」
それはともかく、戦いは那吒の優勢。火眼は棍に火氣を込めるが、那吒の槍も同じく炎の槍。双方火術の使い手のためか、互いにあまり効いた様子は無い。
勝負の行方は武術の腕にかかっていた。
「くっ……!」
火眼は棍を斜めに傾けて、のしかかっていた槍の柄を下方へ受け流す。思わず那吒の体勢が崩れた。
「しまっ……」
二輪の宝具の上でよろける那吒。その槍を掴んで火眼、さらに地面近くへ彼を引き寄せて。
「睡眠のかたき!」
よく分からない恨みを込めた棍を、那吒の頭へ叩きつける。しかし横合いから、
「甘い!」
六本に増えた腕のひとつが棍を阻んだ。わっしと火眼の得物を掴み、勢いを利用して那吒は体勢を立て直す。そして。
「甘い甘い甘い!」
「なっ!」
残りの腕で火眼の体をも掴み、那吒はその華奢な体躯に似合わぬ剛力で軽々と、火眼を上空へ投げ飛ばした。
青天のただ中に飛ばされた火眼は、地上を驚きの目で見つめ。
那吒は地上から余裕の表情で、天中の一点と化した火眼へ乾坤圏をかざす。
「さあ! 今度こそ脳漿をぶちまけてやる!」
やたらと脳漿ぶちまけたがるこの神将、三面六臂の身体をしなやかに曲げて、宝具の金環を標的へ投げつけた。
「!」
落下する火眼に、地上より乾坤圏が迫る。空を裂き唸りを上げて現れた金の環に、
「ぐっ……!」
火眼はとっさに右手に火氣を集め炎を放つ。しかし狙いは金環ではない。上空へ向けた右手から放つ、高圧の火炎放射は。
「おおっ、あいつ落下の方向を逸らした!」
「まあっ!」
そう、軌道を変えて乾坤圏を避けるため。
「小癪な真似を!」
美しい面立ちを悔しげに歪める那吒。その彼めがけ、火眼は落ちる。
「かたき!」
棍を突き出し、よく分からない恨みを込めて。
そして火眼は着地した。土煙が上がる中、棍には手応えはない。
「……はずしたか」
「ふん」
とっさに足下の二輪を後ろへ滑らせ、難を逃れた那吒。その彼へ、火眼はなおも棍を振りかざして駆け出した。
「つぎは、ぜったいに!」
「ばーか、後ろ」
小馬鹿にした口調で、那吒がせせら笑ったときだった。
ごいんっ。
「火眼!」
「火眼さん!」
黄雲と雪蓮は思わず叫ぶ。
駆け出した火眼の後頭部に、空中で避けたはずの乾坤圏。
いかにも痛そうな音を立て、金環は白髪にめりこんでいた。
「あちゃあ……」
黄雲は思わず嘆息する。
「そういやあいつ……金の氣が感知できないんだったな……」
そう。金属製の乾坤圏。黄雲ならばありありと金の氣を感じ取ることができるのだが。
雪蓮を守るため火眼に施された術式は、そのまま彼の弱点となっていた。
大木をも粉砕する必殺の兵器を後頭部に受け。
「…………」
火眼は前のめりに倒れ、沈黙した。
ほどなくして、彼から聞こえるのは……
「ぐー……」
安らかな寝息。
「おーい! かがーん!」
「起きてー! 起きて火眼さーん!」
「すぴー……」
呼び声も虚しく、火眼は再び夢の中。
「さて」
悠然とした挙措で、那吒が二人を振り返る。
「ったく、手間かけさせやがって……。おいそこのお前!」
「ぼ、僕?」
那吒は右側の三本の手で、一様に黄雲を指差した。
「三人抜き……だろ?」
「はぁ?」
突然の那吒の一言に、黄雲わけがわからない。
そんな彼へ、那吒は好戦的に目を光らせる。
「あの黒ずくめに火眼金睛、そしてお前。全員倒せば、そこの女は無事我が掌中というわけだ!」
言うなり那吒、槍を構えてこちらへ迫る。
「う、うわっ! うわうわうわ!」
慌てて黄雲は雪蓮の腕を取り、本堂めがけて駆け出した。
巽と火眼で実証済み。この美童の神仙に、太刀打ちできるはずもない。はずもないが、やるしかない。
「黄雲くん!」
「お嬢さん、本堂へ!」
雪蓮を先に逃がし、黄雲は氣を練った。那吒は相も変わらず、不思議な二つの輪に乗っかってこちらへ飛んでくる。
ならば地中より土の腕を呼び起こし、その足を掴んで動きを封じれば。
(逃げるいとまくらい!)
すぅっと息を吸い込んで、黄雲は道術を発動する。
ところがここで大問題。
「あ、あれっ、出ない」
道術が、起こらない。
すうすう息を吸って土の氣を練るが、いくら足元の土に氣を送っても、砂つぶ一つ動かないのだ。
「……何やってんだ、お前?」
殺意満々だったはずの那吒も、黄雲の異変に二輪を止めて小首を傾げている。
「あっ」
ここで黄雲思い出す。燕陽翁に、三日間道術を禁止されていたことを。本日禁止期間、最終日であることを。
「じじい!!」
「あっ、おいどこへ」
黄雲、那吒をほっぽり出して本堂へ向かった。
「こ、黄雲くん?」
先に着いていた雪蓮があぜんとして見守る前で、黄雲は乱暴に本堂の扉を開いた。
「おいじじい! 緊急事態なんだから、僕の術を解禁……」
しかしそこに老爺の神像はない。
祭壇には、代わりに一通の置き手紙。
黄雲、そして雪蓮が文面を覗き込む。紙面には一筆簡潔に。
『麻雀行ってくる』
「じじいーーーー!!」
黄雲が雄叫びを上げた、その頃。
「……ロン」
ここは老人の寄り合い所。四角の卓を囲み麻雀に興じている年寄りの中に、白髪白髯の老爺が一人。
「むむむ……」
「してやられたか……」
「あんた、一体何者なんじゃ……」
ざわ……ざわ……と周囲のざわめきが心地良い。
燕陽土地神は月に一度、こうして正体を隠し、老人会の麻雀会に混じるのが趣味だった。今日もニンジャと少女とクソガキが愉快に庭で騒いでいるところ、こっそり抜け出してきたのだ。
ざわめきもそこそこに、老人たちはざらざらと牌をかき混ぜる。
(ふふふ……愉しいもんだのう……)
燕陽翁はほくそ笑む。
この場にいるのは、燕陽の土地神という大それた存在ではなく。
もはや一個の勝負好きのじじい。
燕陽翁は今、街を見渡す神眼も、人の動きを察知する氣の感知も自ら封じている。そう、相手の手牌を読んでしまわぬように。
全ては勝負を愉しむため。老爺は土地神の職能を全放棄して、実力と運の世界に身を投じていた。ゆえに。
住まいの道廟に、とんでもない災難が降りかかっていることを知るはずもない。
「くそぉ、あのじじい! なんだってこんな時に!」
場面は再び清流堂。黄雲は書き置きをわしわしと握り潰し、床へ叩きつけた。
嗚呼なんということ、このままでは。
「これじゃあお嬢さんをお守りできないじゃないですか!」
「黄雲くん……!」
膝をかっくりついて、黄雲は悔しげに眉根を寄せる。殊勝な言いっぷりだが、続く言葉を雪蓮は知っている。
「ああっ! さらば知府殿の高額報酬よ……!」
「ふふ、知ってた……」
やっぱり。
黄雲に続いて雪蓮も膝をつき、彼とは別種の悔しさで苦笑いに暮れるのであった。
「……なんだお前、金目当てでその娘を守っていたのか」
本堂の入り口でやりとりを眺めていた那吒が、口を開いた。
黄雲、立ち上がり熱弁を奮う。
「当然! 金のため銭のため! 僕にはそれ以外の目的などありません!」
「おい、そこの娘死んだ目をしているぞ」
雪蓮といえば、那吒の指摘通りである。
「なるほどなぁ。オレはてっきり、惚れた女を守るとかいうアレかと思っていたが」
言いながら那吒は仙氣を抑える。と、三つの顔は一つに、六つの腕は二つへ戻る。
三面六臂の異形の姿は、元の通りの美少女へ。
戦意もかき消して、那吒は腰の後ろに取り付けた豹皮の小物入れへ、手を突っ込んだ。
「オレとて天仙、なにも好きこのんで殺生したいわけではない」
「さっきはマジで殺そうとしてたくせに……」
「まあまあ。よし、そこな道士。取引だ」
那吒は小物入れから出した手で、黄雲の目の前に何かを放って見せる。
きんきらきんに、輝くそれは。
「き、金塊だ!」
「ええっ!?」
「まだあるぞ」
那吒はなおもごとりごとりと、金塊を取り出しては放り、金の山をこさえた。
黄雲、当然垂涎の面持ち。
「さあ、黄雲とやら」
尊大な言いっぷりで那吒が始めたのは、商談だった。
「この金の山の一切はくれてやる。その代わり! 霊薬を宿したその娘は、オレがいただいていく!」
「えええ!?」
雪蓮にとっては、最悪の提案だった。
彼女か金か。黄雲が選ぶ方なんて、もはや分かりきっている。
「さあ! どうする道士!」
選択を促す神将の声。
黄雲が、選ぶのは。
多分後々出てこないので、ここで説明しちゃいます。
那吒の言う「斉天」とは、斉天大聖・孫悟空のこと。そう、三蔵法師のおともでお馴染みの、世界的に有名なお猿さんです。サイヤ人じゃないよ。
で、その孫悟空。太上老君の炉に放り込まれ、煙に燻されて『火眼金睛』の目となってしまうという逸話がありまして。
実はこの逸話が、本作の火眼金睛というキャラクターの元になっていたりします。
その孫悟空と那吒には繋がりがあり、『西遊記』で那吒は天界で大暴れする孫悟空の討伐に派遣されるのですが、残念ながら敗北してしまうのです。
というわけで、火眼と那吒のやりとりはそういう繋がりを踏まえてみました。
当作品では、数百年ほど過去に、大鬧天宮や西天取経に酷似した騒動があったものと思っていただけると嬉しいな。




