2 巽、絶望するの巻
那吒。
道士の黄雲が、この名を知らぬはずはない。太華ではそれはそれは大変に高名な神である。父の軍神・李天王とともに非常な人気を博し、各地に廟がいくつも建てられている。
「いや、ちょっと待ってくれ」
黄雲は手のひらを目の前、その『那吒』を名乗る少女へ突きつける。
彼女が発する清浄な氣や身に帯びたものから見て、天上の神仙であることにもはや疑いは無い。無いのだが、別のことが黄雲、気にかかる。
「んだよ?」
先ほどまでの勿体ぶった口調を男勝りにゆるめて、美少女は不機嫌な面持ちを浮かべた。
そんな彼女へ、黄雲は狼狽しながら口を開く。なにしろ那吒という神は。
「な、なあ……あんた、那吒ってことは……まさか……!」
黄雲、思いきり声をひっくり返しながら問う。
「あんた男か!?」
「えっ」
わなわなと問いかける黄雲に、那吒も雪蓮ももちろん巽も、同時に声を上げた。
そう、李天王が第三太子・那吒。
第三太子、そう太子。
太子とは王の息子を指す言葉。ゆえに男。
古来より那吒は、少年神と伝えられる神である。
黄雲の問いかけに。
「ふざっけんな! お前らオレのことを女だと思ってやがったのか!」
那吒は大変な憤りよう。女性だと思われていたのは心外だ、とでもいうように目尻が怒りでつり上がる。
「なんだって誰もかれも、オレのことを女だと勘違いしやがる! オレは男だっての!」
「や、だって……見た目……」
「とても可愛らしいから……」
ぷりぷり怒った顔も愛らしい神将に、黄雲と雪蓮の顔色は困惑一色。
確かに那吒は美童と伝えられる神。しかし目の前のむくれ顔は、美少女そのものだ。
しかし本人の主張は男。那吒は長槍をブンブン振りながら、少々子どもっぽい仕草で三人へ念を押す。
「いいか! 次にオレのことを女なんて言ったら、お前らの脊髄引っこ抜いて鎧の帯紐にしてやるからな!」
可愛らしい顔で恐ろしい発想の脅し文句。
「…………」
黄雲と雪蓮は顔を見合わせ、同時に頷く。絶対に「女の子」などと口にはしないと、こんな時だけ以心伝心だ。
ところがどっこい、納得できない者がここにひとり。
「嘘だっっ!!」
三白眼を血走らせてそう叫ぶのは、もちろん好色変態クソ忍者の、巽その人。
信じない。信じたくない男とは。この可憐な美少女が男などとは絶対に。
「やだやだやだー! 男なんてやだー! 絶対女の子でしょー! すっげーいい匂いするし!」
くんかくんか!
怖いもの知らずの巽、宙に浮く那吒の足元に駆け寄って、匂いを嗅ぐ。あたりに漂うのは、確かに何とも言えずほの甘い香気だが。
「ひえっ! や、やめっ……!」
突然のことに、那吒は足下の二輪を回し、巽から慌てて距離を取った。その眼差しはまさに、厭らしいものを見る目。ゴミを見るような視線は、悲しいかな、この被虐嗜好の劣情に火を付けた。
「げへへ、その反応いいねいいね! しかしそんな顔をして男などとは! 俺は絶対に認めんぞ、認めんぞったら踏んでくれ!」
「ひいい、なんだこいつ!!」
「すげえ……あいつ神にドン引きされてる……」
「すごいのね、巽さんって……」
呆れている黄雲と、本気で感心している雪蓮。そんな彼らの目前で、那吒は青い顔で巽から逃れ、より高い位置へ避難した。
巽は「待って! 待って踏んでくれ!」と無駄な跳躍力でぴょんこら追いすがっている。
「お、おほん」
気を取り直すように、那吒は咳払いをひとつ。
げんなり顔を振り払い、その面を覆うのは尊大な笑み。そして再び場に満ちる緊張感。
「さあさあ、茶番は終わりだ! さっさと霊薬を……」
「証拠ー! 証拠ー!」
「え、霊薬を差しだ……」
「男だってーなら証拠を見せろ証拠をー!」
ぴょんこらぴょんこら。
ニンジャの跳躍はまだ続いていた。場に満ちた緊張感は哀れ雲散霧消。
那吒、再びげんなりである。かっくりと肩を落としたかと思うと。
神は不意にふわりと地上——巽の目線まで降下すると、くいっと指で近くの茂みを指し示す。
「そんなに言うなら見せてやる。来い」
「えっ、いいの!?」
致し方なし。そんな気色を満面に込めながら、那吒は言う。
一方巽は狂喜乱舞である。美少女が下半身を見せてくれるらしい展開に、思わず小躍りする黒ずくめ。
そんな彼へ、那吒は目元と口角を怒りで震わせながら告げた。
「ああ、いいともいいとも。目にモノを見せてくれる!」
そうして連れ立って茂みへ分け入った二人。そして何やらヒソヒソごそごそ。
天界の神が霊薬を取り戻しにきた割に、やたらとゆるいこの成り行きに。
「これなに待ちだよ、ったく……ふぁ〜」
「おーよしよし、るーるるるー」
黄雲があくびし、雪蓮は三尾の子狐の毛並みを撫でている。
「ぎゃあっ」
突然茂みから声が上がった。
「あら、巽さん」
ひとときの無聊をかこっていた二人が茂みの方を見ると、ちょうど巽がこちらへ駆けてくるところ。
その覆面の中、露出している目元に張り付いているのは——絶望。
「ついてた!!」
「そうか」
喉から絞り出すように叫ぶ巽へ、黄雲は軽く返す。
目にモノ見せつけられた黒ずくめ。よほどの衝撃だったのか、巽は地面へ四つ這いに倒れ込み、拳で土を殴り始めた。
「く、くっそぉ……! よりにもよって、俺より立派な……立派な……!」
その先は、嗚咽でかき消されて聞こえない。
「立派な……なにかしら?」
「知らなくていいです」
旺盛な好奇心に任せるまま問う世間知らず。さすがに黄雲も、先日のふぐりの一件を繰り返したくはない。
そんな二人の会話は、戻ってきた彼によって妨げられる。
「あーもうっ! とにかく!」
美少女、あらため美少年。
那吒は衣服を整えて再びこちらへ戻ると、疲労困憊の態で続けた。
「オレはだな! 霊薬をお前ら盗人から取り返しにきたんだ!」
「ぬ、盗人?」
そして飛び出したのは心外な一言だ。
黄雲は那吒の言葉に、きょとんと一瞬呆けて、やがて色をなして丁重な反駁を述べた。
「お、お言葉ですが! 我ら確かに霊薬を存じてはおりますが、盗んだものにあらず……! 勝手にこちらのお嬢さんの体内に入り込んで、まっこと迷惑被っているところなんですがね!」
「嘘を言うな! オレは玉帝陛下よりお聞きしたんだ、霊薬を天界の宝物庫より盗み去った奴がいると!」
「ぎょっ、玉帝!?」
玉帝、という語に黄雲はぎくりと反応する。まさか九天の最上におわす最高神が、自分らを盗人だと思っているのか。
「そ……それが僕らだと?」
「だって霊薬をそこの娘に隠して持っているだろう。お前らでなくて誰だというんだ!」
「だーかーらー! これは盗んだんじゃなくて……!」
ハナから盗人と決めてかかる那吒に、黄雲は懸命に反論するが。
あーだこーだと堂々巡り。あわあわはらはらと成り行き見守る雪蓮の目前で、結局二人は決裂した。
「だーっ、もうまだるっこしい! お前達の話に付き合ってられるか!」
「こ、こんの分からず屋め!」
互いに憤慨し合い、睨み合い。
那吒は突如不敵に笑う。
「こうなったら、実力行使だ!」
そして。
紅い絹布をはためかせ上昇し、眼下の黄雲たちへ長槍の穂先を突きつけた。
「細かいことはどうでもいい! ともかくそこの娘から、はらわたごと霊薬を引きずり出してくれる!」




